闇よりなお暗い中を今、メビウスは全力で疾走する。かなりの距離を踏破したが、既に禍神が封印されし玄室への道は異界。あらゆる条理がメビウスを裏切り、あざ笑うように暗黒の世界を広げている。  そんな中でメビウスは、遠く彼方へ小さな光を見出した。 「あれは……あの光は、ジェラッ!」  見間違えようがない、あの小さな灯火はジェラヴリグ。彼女が首に下げていたエルダードラゴンの逆鱗だ。今にも消え入りそうに周囲の闇へ抗いながら、その輝きは一人の少女を浮かび上がらせていた。今や半人半魔の美しき魔人へと成長したジェラヴリグが、必死に歯を食いしばって立っている。その向こうにメビウスは、あらゆる悪意と害意が凝結した姿を見出していた。 「さあ、我が花嫁よ。肌と肌とで語り合い、粘膜同士を奏でて交わり合おう。ここが我等の始まりの地」 「始まりの地ですって……それは違うわ、ここで終りよ。あなたは終りなの、神様」 「ほう?」 「今ならわかる……鋭敏に拡張されたわたしの感覚に、リシュの心の声が聞こえる」  メビウスは悪い予感に胸をざわめかせながら必死で走った。だが、遠くにジェラヴリグを浮かび上がらせる光は、駆けても駆けてもなかなか近づいてはこない。なのに、二人の交わす言葉は嫌に鮮明に耳元で響いた。  ジェラヴリグの声には、性根を据えた覚悟の色が見て取れた。 「これ以上はリシュが望んでない……だから、わたしはあなたを止める。たとえこの身に宿る人間の血を燃やし尽くしても。本当の異形に堕ちても、後悔はしない」 「……不快だな。そうまで決めて、何故に我を憎まぬ? 先程までの憎悪はどうした!」 「わたし、あなたを許さない。どうしたって許せない。……だから、あなたと同じにはならない」  瞬間、漆黒の世界に稲光が走り、業火が爆ぜて煌々と二人のシルエットを照らしだした。  メビウスはその目にしかと見た。二人の少女が対峙して立つ、そのおぞましくも美しい姿を。それはあと数年の後に訪れるであろう、二人の大人の姿を象っている。だが、その片方には醜悪な邪の化身が宿って激昂に表情を歪めており、もう片方に嫌に澄んだ決意の眼差しが輝いていた。  禍神は幾度となく超常の力を奮って、自らが封印されて眠る場所を激震で揺らす。 「我が妻よ、己の躰を見よ! その身に宿る魔性を認めよ!」 「そう、これがもう一人のわたし。でも、わたしはこの姿が怖くはない。わたしはわたしだもの」 「クッ! なぜそうも……不愉快な!」 「あなたにはわからない。教えてあげない。わたしがあなたに贈るのは、断絶の未来」  ジェラヴリグの周囲に今まで感じたことのない圧力が凝縮してゆく。禍神が振るう力に勝るとも劣らぬ魔の力で、ジェラヴリグは瞬く間に周囲を雪の結晶で覆った。急激に気温の低下した極寒の中を、メビウスは必死でジェラヴリグを呼びながら走る。 「駄目だ、ジェラッ! きみの力をそんなふうに使ってはいけないっ!」  メビウスの必死の叫びに、禍神は流し目で下卑た視線をくれて口元を歪める。 「ほう、どうやって入り込んだのやら……我が花嫁よ。仲人は魔女が務めてくれよう。さあ、契りを」 「……ごめんね、リシュ。すぐにわたしも……絶対に独りになんかさせないよ」  ジェラヴリグの周囲で空気中の水分が凝固し、あっという間に巨大な氷塊が無数に浮かび上がる。それは身を翻して手をかざしたジェラヴリグの呼吸に合わせて、四方から禍神を押し潰した。  ジェラヴリグは泣いていた。  彼女の流す涙は、もはや術ですらない原初の力で凍りついて宙に舞う。その輝きをキラキラと煌めかせながら、ジェラヴリグは流れる涙を宝石に変えて総身を震わせていた。次々と現れる氷が連続して禍神を圧し、氷壁となってゆく。  ようやくメビウスがたどり着いた時、ジェラヴリグは力なくその場にへたりこんだ。 「ジェラ!」 「メビウス……わたし、リシュを……でも、リシュも苦しんでた。その声が聞こえたの。この姿になった時」 「いいんだ、ごめんよジェラ。辛かったね。誰もきみを責めるもんか」 「でもわたし、わたし……!? 駄目、メビウス。わたしに触らないで……見ないで」  ジェラヴリグの躰は既に人ではなく、フカビトですらなかった。両者の血が入り混じるその肉体は、禍神の呪力で太古に封じられし眷属の因子を目覚めさせられている。全身を覆う甲殻と鱗は不思議な光で輝いていた。そんな己の身を抱きしめて、ジェラヴリグは泣き続ける。  だが、迷わずメビウスはそんな彼女の肩を抱いてやった。優しく背中をポンポンと叩いて、唯一変わらぬたおやかな金髪を撫でてやる。 「……メビウス?」 「ぼくは、ぼく達はきみを嫌ったりしないよ。どんな姿でもジェラはジェラ、そうだろ?」 「うん……でも」 「それにね、まだ終わってない。感じるんだ……妄念を燃やす悪意の気配を」  そっとジェラヴリグを立たせて、メビウスはその背に庇いながら氷壁に向き直る。見上げんばかりの巨大な氷の塊は今、その奥に禍神を圧殺して冷気を放っている。  その分厚い氷にひびが走った。瞬く間にそれは全面に広がり、その奥から甲高い哄笑を響かせる。 「流石だ、流石だよ。我が妻に相応しい」  ガラガラと氷を崩しながら、ゆらりと禍神が這い出てきた。ダメージは感じられず、平然とリシュリーの姿で立ち上がる。神は左右非対称の複雑な表情を浮かべると、くねらせた自らの肢体に両手を這わせて喉も顕に天を仰いだ。その顔は嘆いているようにも嗤っているようにも見える。  油断なく拳を握るメビウスは、その恍惚とした声を聞く。 「どう足掻いたとて我には勝てんぞ、人間。それに、我の敵は人間などではない」 「なにっ」 「我が打ち倒すべき怨敵は……世界樹! 遥か星の海で我に与えた屈辱、万倍にして世界樹に刻んでやるのだ」  突如禍神は鋭い爪で己の肉体を切り裂いた。真っ赤な鮮血が飛び散り、ジェラヴリグが悲鳴を噛み殺す。  禍神は両手をわなわなと震わせながら、滔々と語り出した。 「太古の昔、今だこの地に人のいなかった時代。我は世界樹と久遠にも等しい悠久の刻を争っていた」  禍神は語った。世界樹と禍神こそが、この次元を取り巻くあらゆる法則を二分する存在だと。常に対極にあり、両者はことごとく敵対する宿業をもって成立する概念。故に宇宙開闢の瞬間より、絶え間なく滅ぼし合ってきたのだ。そして禍神はついに、世界樹に破れてこの地へと逃げ延びるも……激しいダメージを負って地底の闇に封印された。その後、世界樹はその上に根を下ろして人間を創造し、この地を守るべく王家を導いてきたのだ。禍神もまた封印より溢れ出る力でフカビトを創造し、世界樹の申し子たる人間を誘惑し続けてきた。それがアーモロードの歴史の真実だった。 「下等な人間共など、今やどうでもよい。我が世界樹と再び雌雄を決する、その余波で人間は滅ぶ」 「そんなことはさせないっ!」 「……どうかな? そもそも人間、お前達は既に世界樹の庇護を失っているに等しい。世界樹ももう、お前達人間の守護神ではないのだ。我がフカビト達にコマ以外の価値を見出だせないようにな」  だが、その言葉にメビウスは不敵な笑みを浮かべて堂々と反論する。 「もとより僕等は、世界樹に守られてるつもりはない。それにね……神様、ちょっと笑える話じゃないかな」 「む……無礼であろう! 貴様……人間風情が、黙って聞いていれば」  メビウスは露骨に嫌悪感も顕に苛立つ禍神へと、はっきりと言い放った。 「ぼく等は世界樹の迷宮で生きる冒険者だ。世界樹の力は嫌というほど知ってるし、その神秘と脅威に打ち勝ってきた自負と自信、尊厳がある! 世界樹に負けて封じられた神様程度が、世界樹をも糧に生きるぼく等を下等だなんてお笑いだよ」  その時、禍神の表情が激変した。怒りを爆発させたその顔が醜く歪む。 「貴様っ、言わせておけば! 我は至高にして不滅! 負けてなどおらぬ!」  急激に膨れ上がった敵意が、瞬く間に迅雷となってメビウス達を襲う。  だが、ジェラヴリグを庇ったメビウスの身体にダメージはない。  雷光の余波が去った暗がりにメビウスは、見覚えのある懐かしくも頼もしい背中を見た。 「……メビウスの言う通りだ。私達が負ける道理はない。リシュリーは、仲間は返してもらう!」  そこには腰に二刀をはいて不思議な太刀を両手に握るなずなが立っていた。その右手は無骨に大きく張り出し、複雑にピストンとチューブで構成されたフレームが稼働熱で白煙を巻き上げている。 「なずな!」 「待たせたな、メビウス。約束した……お前と共に戦い、必ず力になると!」  なずなは奇妙にゆらいで周囲の空間をたわませる剣をふりかぶる。その急増作りの太刀こそ、なずなの腕を切り落とした真祖の忘れ形見。最も禍神に近い真祖の体組織から生成された神殺しの刃……羽々斬。  その鋭い切っ先に気圧されてか、禍神が吼え荒ぶ。 「なっ、どうやってこの場に……その太刀! おのれ人間、そんなものまで」 「禍神、地の底に眠れ。フカビト達を弄び、フカビト達を憂う真祖を謀った罪……あの世で詫びろっ!」  躊躇なくなずなは、リシュリーの肉体ごと禍神を斬った。怒りに任せて雷撃を放つ禍神の横を、神速の一撃で払い抜ける。  だが、リシュリーの身体は一滴の血も流すことなく、禍神の絶叫を迸らせた。 「くああああああっ! 人間、人間! 人間人間、人間っっっっ! 人間っ、ごときがああああああっ!」 「メビウス、リシュが……」 「ああ。なずな、その剣は」  なずなが一振りしただけで、羽々斬の刀身はぼろりと朽ちて風化し、そのまま炭素化して崩れ去った。柄だけになった剣に一度だけ胸に抱くと、感謝の念でなずなは放り捨てる。 「これは深都で鍛造された斬神刀……羽々斬。この世の物は斬れず、ただ神のみを斬る剣」  その時、身悶えのたうち回る禍神が顔をあげた。その表情が穏やかに見慣れた面影で苦しげに呻く。 「なずなねーさま……よかった、ジェラも、メビウスさまも……誰も、死なせ、なくて」 「リシュ! メビウス、リシュが。ああ、よかった……」 「今のうちに……わたくしごと。今、なら……お願い、しま、すわ……」  だが、振り返るなずなにメビウスは大きく頷いてリシュリーに駆け寄る。 「おかえり、リシュ。もう少し我慢してね。今、きみから禍神を追い出す!」 「メビウスさま……駄目、もう、駄目ですわ……わたくし、ジェラに、非道い、ことを」 「ううん、大丈夫。ぼくに任せ――!?」  その時、ずるりと周囲の闇がリシュリーを飲み込み、そのまま地の底へと飲み込んでゆく。 「愚か! 愚かなり人間! 我を受肉せし肉体から切り離そうなどと……よかろう、ならば」  ――真の恐怖をもって、世界樹の子等に死を!  断罪を歌う禍神の本体が、リシュリーの身体を飲み込んで浮上する。その禍々しい巨躯を前に、メビウスはなずなやジェラヴリグと共に身構えた。目の前に今、醜悪にして荘厳なる邪悪の権化が浮かび上がっていた。