激戦に次ぐ激戦のさなか、タリズマンは異変を察知して黙った。  時を同じくして、第六層に巣食うモンスター達もまた静かになる。それはまるで、大いなる意思の復活を前にした静けさに似ていた。そして周囲の仲間達にも、その雰囲気は素早く伝わってゆく。 「……スカイアイ、周囲の警戒を。勢いが途切れた……なにかが今、起こり始めている」  グリフィスが慎重に身を寄せ、互いに背を庇いながらスカイアイへ寄り添う。パーティの頭脳であり司令塔でもあるスカイアイは、素早く構えた弩に弾薬を装填しながら周囲を見渡した。  既に山と積まれた魔物の死骸を乗り越え、新たな脅威はすぐ側まで迫っている。  だが、先程まで圧するほどだった敵意と害意は今、一時の静寂に鎮まっていた。 「さて、どうしたものかね。これが勝機と出るか否か……どう思います? オンディーヌ女史」  スカイアイが振り向く先で、重装甲の貴婦人が盾を掲げて振り向いた。その手に握られた槍は血に濡れながらも、鋭い穂先を薄闇に煌めかせている。  エトリアの聖騎士デフィール・オンディーヌは並み居る魔物達を牽制しながら夫と共にタリズマンの近くへ戻ってきた。 「チャンスよ。今、この瞬間に全てを賭けましょう。他のパーティが上首尾なら、残す触手はここのみ」  デフィールの言葉に、連れ添うヨルンも静かに頷いた。  原因はわからないが、魔物達は先程までの血に飢えた勢いを僅かに削がれている。そして、その奥で今だ逃げ惑う最後の触手まで、あと一歩の所までタリズマン達は押し迫っていた。だが、これ以上は限界……ここより先に進めば、長く伸び過ぎた樹海地軸への道は敵に押し潰されてしまう。全員で攻めて全員で追う故に、タリズマン達が行き詰まる一歩手前で異変が起きたのだ。  だが、唸り声を響かせ息を荒げる魔物達には、徐々に気迫が戻っている。  デフィールの言うことももっともだと思った、その時に最後尾から声があがった。 「全員無事かっ! デフィール殿、加勢いたします!」  背後で怯む魔物達を蹴散らし、エミットが現れた。既にその鎧は血で汚れ、肩を大きく上下させている。疲労の色も顕なのに、彼女は毅然と周囲を見渡し仲間達へと合流した。 「あら、エミット。他のパーティはどう?」 「全て見て回ってきました! 残すはここの触手のみ! ……ですが、メビウスが」  エミットの蒼白に凍る表情を見て、タリズマンは全身から血の気が引いてゆくのを感じた。  それは、次の言葉で決定的になる。 「メビウスが触手の排除を待たず、禍神の眠る玄室に突入しました。エルトリウスやテルミナトルはもはや」 「そう。……なにかあったのね、きっと。ふふ、相変わらずせっかちな娘」  逼迫した声を震わせるエミットとは対照的に、デフィールはさして驚いた様子も見せず泰然としていた。既にやるべきを見定めた、熟練冒険者の胆力が彼女を優雅にさえ見せる。呆れた肝の座り方だが、そんなデフィールが口にするメビウスの評はタリズマンも納得だ。  タリズマンは知っている、そしてずっと感じていた……メビウスとはそういう人なのだ。 「あの娘、ハイ・ラガートでもそうだったのよ? 思い出さない?」 「そういえばそうでした。ぼく等はガムシャラに迷宮を駆け上がった。その先頭にはいつも彼女がいた」  納得でグリフィスも頭巾を脱ぐと、一息ついて口元に笑みを浮かべる。 「まったく、フォローする身にもなってほしいね。だが、悪くはない。友よ、悪い決断ではないよ」  胸元にぶら下げたスコープをかけ直して、スカイアイもニヤリと笑う。  長らく世界樹の迷宮を共に冒険した、気心知れた仲間だからこそ言える。タリズマンは自信を持って言い切れる。その必要がある時、メビウスはなにものも躊躇わない。彼女が下す決断にはいつも、確固たる必然だけが存在するのだ。  そうと決まれば話は早い、なすべきことが鮮明に脳裏に浮かび上がる。 「さて、じゃああの触手を片付けましょ。返す刀で他のパーティと合流、メビウスを追います」 「待ってくれ、デフィールさん!」  意外そうに眉根を寄せて、目の前の麗人が見つめてくる。その大きな瞳に吸い込まれそうになりながらも、タリズマンは目を逸らさずゆっくりと噛み締めるように一字一句を吐き出した。 「エミットさん、デフィールさんを連れて先に玄室へ。あの触手っ、俺達が請け負った!」 「タリズマン、無茶を言うな! 触手の周りを見ろ、危険なモンスターが連なるあの陣容を」  口を挟んだのはエミットだったが、デフィールは腕組み黙ってタリズマンへ眼差しを注ぐ。  タリズマンとて恐ろしい。五人で手一杯の現状を知っているのに、守りの要であるファランクスに外してもらうのだから。それも、援軍にと駆けつけたもう一人のファランクスと共に。 「壁が二枚必要だ。ジェラヴリグちゃんを守る者と、彼女を守ろうとする隊長を守る者と」 「貴公、それを私にやれと言うのか。だが、ここはどうする。まずは触手を片付けて――」 「駄目だっ! 遅い、遅過ぎる。手遅れになってからじゃ遅いんだ」  各個撃破は戦術の基本で、大軍同士の戦場から迷宮での戦闘まで一緒だ。だが、今は時間すら惜しい。  タリズマンはフカビトの長老達に残る伝承を思い出していた。地の底に封じられし禍神は、その尖兵たる魔物達を触手で操ると。第六迷宮の隅々に根を張るその触手こそが、封じられてなお強力な負の力を行使する禍神の源なのだ。真祖が先導して海都よりもたらされる人々の不安や混乱は、触手に吸い込まれて糧となる。糧ある限り、禍神は無敵だとフカビト達には伝わっていた。  その触手の最後の一本が、通路の奥で大量の魔物達に守られ揺れている。 「エミットさん、デフィールさんも。隊長をたのんます……ここは俺が責任をもって」 「無茶だ! 急いては事を仕損じる、まずは目の前の触手を」 「いいわ、そうしましょ。エミット、行くわよ」  なおも食い下がるエミットを、典雅な声がやんわりと諭した。  やれやれと肩を竦めつつも、デフィールは居並ぶ魔物達へと視線を投じる。 「タリズマン、いいこと? 決して死なないこと。約束できるかしらん?」 「ああ、約束するさ。それに、触手の殲滅も約束する。俺等ができる最善でメビウスを、仲間達を支える」 「結構。男の子ですもの、ちゃんと約束は守るのよ? いいかしら」 「もう男の子って歳じゃねえけどな。……ああ、必ず守る」  デフィールは「よろしい」と笑顔で頷き踵を返した。その後を戸惑いながらもエミットが追いかける。納得してもらえたのだろうかと心配だったタリズマンだが、肩越しに振り返るエミットの言葉は温かい。 「貴公等に託す! ……信じているぞ。メビウスもまた、同じだろう」 「はは、どうだろうなあ。でもま、そうと決めたら隊長の手前もある……任せろって」  二人のファランクスが槍を担いで、戦闘を避けながら警戒行進で消えてゆく。  その背を見送る一同は、タリズマンを中心に休憩を終えて身構えた。 「やれやれ、行ったか」 「いいのかい? ヨルンさん。奥方になにか、優しい言葉でもかけてあげなくてさ」  頭巾をかぶり直してグリフィスが笑う、その声音は驚くほどに落ち着いていた。口調を合わせて冷やかすスカイアイも同様だ。 「あれはお調子者なところがあるからな。まあ、全てが終わったら少し甘やかしてやるさ」 「いいなあ、聞いたかいタリズマン? 俺達もじゃあ、メビウスを甘やかさないといけないねえ」  違いない、とタリズマンも笑う。同時に抜剣して彼は走り出した。  それは居並ぶ魔物達が再び牙を剥いた、その瞬間だった。 「みんな、雑魚には目もくれるなっ! 目標は唯一つ! 触手の撃滅!」  叫ぶスカイアイから弾丸が放たれ、目の前に膨れ上がった魔物達の頭部が右から順に爆ぜて四散する。そうして血柱をあげて崩れる巨躯をすり抜け、まっすぐにタリズマンは走った。すぐ先をグリフィスが露払いしてくれるし、背後ではヨルンがエーテルを圧縮させている気配を拾う。  一丸となった冒険者達は、ひたすら触手を目指して最後の力を振り絞っていた。 「いってくれ、タリズマン! ぼくは大丈夫……メビウスのために、ぼく等のためにいってくれ!」 「オーライ、グリフィス! 借りとくぜっ!」  短刀を逆手に分身を生み出しながら、足を止めたグリフィスが振り返った。その横をすり抜けると同時に、笑みを交わし合う二人。こうして今まで、どれほどの冒険を繰り広げてきただろう? 何度、世界樹の迷宮で命を拾っただろう? それも今は思惟の外で、雪崩のように四方八方から殺到するモンスターの中をタリズマンは疾駆する。  後顧の憂いを断つべく敵を一手に引きつけて、グリフィスの姿は荒れ狂う群れの中に見えなくなっていった。  先程からもう、スカイアイの援護射撃も途絶えている……だが、タリズマンは仲間を信じてひたすらに進む。 「ふっ、メビウスもいい仲間を集めたものだな。……ゆけ、タリズマン。道は俺がこじ開けるっ!」  急激に冷却された空気は、水分を結晶化させて宙に描き出す。舞い散る六花の中をタリズマンは走った。  背後で展開される術式が高速で読み込まれ、占星術が行使される。その瞬間、無防備な術師を襲う爪と牙。だが、タリズマンは立ち止まらない。己の身を擦過して通り過ぎ、背後へと群がる獣達と行き違いに全力で風になる。 「すまねえ、ヨルンの旦那! ……見えたっ、あいつで最後っ」  強烈な冷気が周囲を塗り潰して広がり、あっという間にモンスター達を白く染めて凍らせる。  僅かな時間、わずか一瞬にも満たぬ刹那、タリズマンへと迫る敵が刻を止める。  その中を跳躍して飛び越え、ついにタリズマンは逃げ惑う触手の背を射程に収めた。 「隊長ぉ、あとは頼んます! あんたの血路っ、俺が切り開く!」  撓る切っ先が煌めいて、暗闇の中に一条の光を走らせる。  一閃で払い抜けたタリズマンは、着地と同時にもんどりうって倒れて転げた。だが、気合で立ち上がるや、剣を鞘へと納める。  パチン! という小さな音と共に、うごめく触手の動きが止まって……真っ赤な薔薇が咲き乱れた。それは、一閃と同時に刻まれた、無数の斬撃。神速をもってタリズマンが闇に描く、明日の朝日に咲く花だった。  まるで花びらを散らすように真っ赤な鮮血を周囲に振りまき、触手は薔薇を咲かせ続けて身悶えのたうちまわり……そして動かなくなった。タリズマンもまた、剣を鞘に納めたままその場に崩れ落ちた。