荘厳な鐘の音を聴いて歩くヴァージンロードは、丘の上の聖堂へと続く。晴れ渡る空の蒼と、吹き渡る海風の蒼が水平線で交わる好天。それは、純白に身を包んだジョーディの心をブルーに染めていた。 「うう、ジョーディや……ようやく嫁にいってくれるか。父は、父は嬉しいぞ! 嬉しくてもう」 「あーもぉ、鬱陶しい! 泣くなよオヤジ」  ジョーディをエスコートする父親の背は丸まり、家を出た頃よりも小さく見える。ジョーディの家は由緒正しき海都の将家、常に王家を守るべく戦ってきた武門の家柄だ。その由緒正しい血を、他の将家と共に永らく交えて守ってきた歴史がある。  だから、観念する時が来た……嫁ぐ日が来たのだ。  不可避の運命を前に、いい夢が見れた。胸躍らせる大冒険。だからもう、悔いはない。多くの仲間が新たな居場所に旅立ち、戻るべき場所へと戻っていったから。だから自分も、定められた日常へと戻る。そう納得しようとして、ジョーディは元の世界へ帰ったのだ。 「お前にはもったいない良縁だぞ、ジョーディ。頼むから父のメンツは、家だけは立てておくれ」 「わーってる! ……わーってるよ、オヤジ。しゃーねえ、いっちょ盛大に契ってやろうじぇねえの」 「おおジョーディ! なんてはしたない口を! 頼む、この通りだ! 父に恥をかかせないでおくれ」  海都の将家はどこも保身に忙しく、その古い血筋と体質ゆえに腰が重かった。今回の世界樹での一件でも、クジュラ以外に目立った動きを見せた家はない。どこも、冒険者に貧乏くじを引かせて、最後だけはおいしいところをかっさらおうとして失敗したのだ。  だがもう、古き血筋は消えた王家と共に歴史の舞台から降りてゆくだろう。  それもいいさと諦観の念も新たに、ジョーディは父親と共に教会の扉を開く。  その瞬間、瞳の中へ無造作に、そして無遠慮に漆黒が飛び込んできた。 「よぉ! 悪いな、邪魔してるぜアバズレ。……ぷははっ、なんだそら! 似合わねえなあオイ!」  親同士が決めた未来の旦那様が剣を抜く、その切っ先が向かう場所に花嫁が既に立っていた。真っ黒なヴェールに暗黒のドレスを来た、黒衣の花嫁だ。式場は混乱しているようで、招待された他の将家の年寄りや議員達が、目を白黒させている。  再度、真っ黒な花嫁は聞き覚えのある声で喋った。 「俺ぁクフィール達と行くことにした! 遥か異邦の辺境、地の最果てだ。それでよ――」 「無礼者が! 斬りすててくれるっ!」  花婿は自分を無視して喋る黒い花嫁へと、向けた剣を振り上げ斬りかかる。 「あー、うるせえ。ちょっと黙ってろボンクラ」 「ゲフッ! ぶっ、ぶった! 殴ったな! 母上にもぶたれたことないのに……僕をぶった!」  ヒョイとスカートをつまんで剣を避けるや、入れ違いに拳が振るわれた。黒いレースの手袋に覆われたしなやかな手が、花婿を吹き飛ばして祭壇の脇に転がす。  そうしてヴェールを脱いだ花嫁は、ジョーディのよく知る顔でニヤリと笑った。 「ラファールッ、手前ぇ! なにしてやがる! ……それ以前に、似あって、ねえとか言ったか? ああン?」 「おう、全然似合わねえ。俺の方が何倍もマシってもんだぜ。なあ?」  ラファールはそのまま、弱々しく立ち上がった花婿を蹴り飛ばすや笑う。招待客の中で笑いをこらえてるのは、メビウス達冒険者の一団だ。見知った仲間達は皆、込み上げる笑みを噛み殺して腹を抱えている。 「……似合わなくて悪かったな。んで? なにやってんだよ、変態王子」  聞いてはみたものの、ジョーディにはわかっていた。この男は、ラファールは別れを告げに来てくれたのだ。それも、望まぬ婚姻の粉砕という手土産まで持って。もしくは、単にウェディングドレスが着てみたかっただけか……だが、それはジョーディにはどうでもいい。  目の前にはまだ、不敵に笑うラファールがいて、あの頃から続く夢のフィナーレが手の中を滑り落ちてゆく。  そう、夢見果てたのだと言い聞かせた瞬間、ラファールはジョーディの手を取った。 「なにシケた面してやがる、走るぞビッチ! へっ、ついてこられりゃおなぐさみ、ってな」 「おっ、おいラファールッ! 何を……ヘイ、待てよ、待て待て」  歓声と悲鳴があがって、同時に衛兵達が雪崩れ込んでくる。モノクロームの花嫁達は、漆黒が純白を連れてヴァージンロードを逆走し始めた。ジョーディはその時、震え上がって激怒に身を震わせる父親の姿を見る。 「ぶぶぶ、無礼者っ! 荒くれ者の無頼者めっ、であえっ! であえであえっ!」  たちまち周囲を二重三重に槍衾が取り囲む。来賓の中にも剣を抜く者がちらほらとにじり寄っていたが、ラファールは意に返さずジョーディを抱き寄せた。わからない……この男の考えてることが、最後の最後までジョーディには全くわからない。わからないのに、酷く強く惹かれる。その気持ちがいつも、いつでも新鮮に塗り替えられてしまう。きっと、いつまでも。 「ラファール、これを。せめてもの手向けさ。さあ!」  不意に一振りの太刀が投げ込まれて、それを受け取るラファールの瞳が鋭く冴え渡る。  剣を投げたメビウスは今、仲間達とドアを開いて外への道を囲んでいた。 「ありがてえ、あばよメビウス! ちったあ女らしくしな」 「ふふ、そういうきみはそんな格好でさえ男らしいよね。クフィールにもよろしく」  刃を抜き放つと同時に鞘を捨てた、その瞬間にはラファールはジョーディの身を軽々と片手で肩に担ぎあげていた。  そのまま殺到する衛兵達を片っ端から打ち据えて、その中を抜きん出て外へと躍り出る。 「ファック! これじゃまるで人さらいだぜ、おいラファール! せめてもっと――」 「黙ってな、舌噛むぜ? くだらねえんだよ、家の都合とか血筋とか」 「ラファール……」 「世の中、もっと面白れえもんで回ってんだぜ? ……手前ぇも一緒に見に来いよ、そいつを」  ラファールの肩に揺られながら、ジョーディはその時初めて知った。自分は結婚が嫌だったのではない、この男と……仲間達と別れるのが嫌だったのだ。それでも家のためにと遠ざかった彼女に、この男は飛び込んできた。 「しっかし重ぇなクソッ! なに食ったらこんな丸々育ちやがんだ? ええ?」 「……ご、ごめん。その、重いか? やっぱり」 「ったりめえだろ、オイイ? だからよ、それを出せ。その、スカートん中に隠してるヤツをよ」 「ハッ、ばれてたか」  しれっとジョーディはドレスのスカートをたくしあげる。その奥から、ベルトで吊り下げられて折りたたまれた、愛用の弩が現れた。それをゴトンと石畳の階段へと下ろせば、ラファールも剣を手放す。そうしてジョーディは、改めて両手で抱き直されてラファールの首に両手を回した。 「アタシだってな、気に食わない野郎だったら撃ち抜いてやるつもりだったさ。それを手前ぇ、台無しに」 「おっとろしい女だなあ、ったくよ。ま、それくらい図太くなきゃな」  身軽になったラファールは、ジョーディを抱えて階段を足早に降り始める。その向こうには既に、ボートゥールが二頭立ての馬車を用意して待っていた。だが、行く先をしつこく追手が阻む。 「馬鹿め、急ぐあまり武器を捨てたか! 丸腰で!」 「これだから冒険者は浅知恵で困る……狼藉者め! 我ら海都の将家が力、思い知るがいい!」  威勢だけはいい男達は皆、礼服のタイを緩めながら剣を手ににじり寄る。  多勢に無勢……だが、次の瞬間には悲鳴と共に男達は弾け飛んだ。 「人の恋路を邪魔する奴は」 「馬に蹴られて死んじまえ、ってね。ラファール殿! 我が君が港でお待ちしてます、お急ぎを!」  旅装を整え現れたラプターとイーグルは、封印を施し布で包んだ武器で男達を一閃した。バタバタと倒れる者達はしかし、次から次へと飽きることなく群がってくる。 「ヘイ、ラファール! アタシを降ろせ」 「ああ? 馬鹿言うなよ、格好つかねえだろうが」 「格好つけてる場合か、このアホッ! 手伝ってやるって言ってんだよ」 「アホは手前ぇさ。格好いいかどうかってのは、これは凄く重要なことだぜ?」  ラプターとイーグルに先導されつつ、ジョーディはラファールに抱えられながら階段を駆け下りた。既に教会を出た追手は、かなりの数に膨れ上がって大挙してくる。 「おい姉貴っ、船の時間に間に合わねえ! 急がないと」 「わかってる! 大丈夫だ、これしきの手勢、わたしには……わたし達には、ものの数ではないっ」  馬車までたどり着くや、ラファールは幌の中へとジョーディを放り投げた。文句を言う間もなく、ボートゥールが鞭を入れて馬車がゆっくりと走り出す。御者台に飛び乗るイーグルを見送り、並走するラプターは最後まで追手を蹴散らしていた。  だが、遠慮して手加減するラプターへ向けられる剣は本気だ。 「ラプター! くそっ、弩は積んでねえのか? アタシが援護をっ」 「心配ねえよ。クフィールの野郎、いやんなる位に完璧な手並みだな。さあ、ずらかるぜっ!」  馬車を追いかけ走るラプターの背に、大小二つの人影が舞い降りた。 「ラファールおねにーさまっ、お達者で! さ、おばねーさまっ!」 「行け、騎士ラプター! ここは私が引き受けた。別れは言わん、また会おう……いずれ、な」  ドレス姿の少女が号令を叫ぶや、タキシードの麗人が式場から拝借してきた旗を振るう。アーモロードの紋章を描いたフラッグを引き連れ、ポールが無粋な追跡者達を薙ぎ払った。 「エミット殿……」 「急がれよ、船がもう出る。貴公の騎士道は常に、あの方の隣にある筈だ」 「……ああ。エミット殿も息災で。これを!」  ラプターは結った髪の片方を解くと、そっと吹き抜ける海風へリボンをさらわせた。それはゆるゆると静かに、珍しく微笑を浮かべたエミットの手へと運ばれてくる。彼女の指にそっとつかまり、そのリボンはアーモロードの潮風に揺れ続けた。  そうして二人は僅か一瞬にも見たぬ刹那、頷きあうや離れた。走り去る馬車は飛び乗るラプターを連れて、港の方へと車輪を軋ませ消えていった。  アーモロードを駆け抜けた名も無き冒険者達は今、名も残さず消えていこうとしていた。