昼下がりの午後、凪いだ海より潮風が涼やかに吹き抜ける。  アンバーの港は今日も活気づいて、新たなアーモロードのために人と物とが忙しく行き来していた。その中にはちらほらと、フカビトやアンドロの姿も見える。世界樹が見下ろすこの土地で今、潮騒の港町は新たな歴史へと踏み出していた。  その熱気をはらんだ喧騒の中を今、一人の冒険者が歩いている。  青空に映える朱色の髪を編んで結い、麻の簡素な衣服から覗く肌は健康的に日焼けしている。少年のような微笑をたたえた顔立ちは凛々しく、すらりと背を伸ばして真っ直ぐに海へと向いていた。  アーモロードの誰もが名を知るリボンの魔女は今、仲間達と港を桟橋へ歩く。 「はは、早速グリペンから手紙が届いたよ。新天地でも冒険者家業は順調みたいだね」 「グリペンさまは筆まめですの。ジェラもわたくしもお手紙を頂戴しましたわ」 「他のみんなも元気みたい。……もう、新しい日々は始まってる。この街も、みんなも」  メビウスの左右でリシュリーとジェラヴリグが笑う。その優しい暖かさを両手に、メビウスは船出へと歩を進めた。時々誰かが振り返るが、景気のいい挨拶や口笛、そして敬愛の視線を投げかけてくるだけ。決して別れの言葉も、惜しむ気持ちも向けられてはこなかった。  アーモロードは港町、空と海とに挟まれ蒼を抱く土地だ。  空と海の間を吹き抜ける風は、皆の胸を洗って吹き去るのみ……どうして風を留めておけようか。  今、メビウス達はこの土地での冒険を終え、新たなる未知と神秘へ旅立つ日を迎えていた。 「おっ、来たなメビウス。今なら遅くはないぜ? どうだ、オイラ達の船に乗ってけよ」  長く沖へと伸びた桟橋の一本道は、その先に巨大なクリッパーを横着けさせている。出港準備に忙しい船の前には、顔馴染みの仲間達が待っていた。リシュリーが「おばねえさま!」と走る先へと、駆け出すジェラヴリグを送り出してやる。  二人を抱きとめた妙齢の麗人は今、穏やかな笑みでメビウスと相対した。 「フカビトの里から帰ってたんだね、エミット」  メビウスの声に「ああ」と柔らかく応えて、エミットは穏やかに頬を崩す。 「信じられぬ話だ。この私があの地で――」 「そんなに信じられないかい? 赦されることは今、誰にでも許されるとぼくは思うけど」 「……フカビト達の長老が若者を諌めて諭し、私達深都に加担した者の所業を」 「彼等も深都も、いまや一つのアーモロードさ。それが、この土地の人達が選択した未来だから」  メビウスの言葉にエミットも、大きく頷いた。  民政アーモロード共和国として今、海都は新たな時代の大海原に船出した。荒れ狂う世界の波濤は恐らく、この若い国を荒波で迎えるだろう。だが、世界樹を帆柱に据えてみんなで舵を取り、時には団結して立ち向かう。そういう民の民による民のための国を、誰もが望んで選んだのだ。既に元老院や深王もなく、先を照らし導いてくれる光はない。だが、灯火はいつでも全員の胸に燃えているのだ。人とフカビト、そしてアンドロ……三者が三様に持つ力を互いに分かち合って、船は海を渡るだろう。  メビウスには、この国の未来に豊かさを確信していた。 「エミット、ぼくには政治がわからない。なにせ自慢じゃないけど、学も教養もないからね」  コッペペが茶化して肘で突くのを押しやり、メビウスは言葉を続ける。 「ただ、王や主義、思想というのは多分、良し悪しよりも……適してるか否かが大事じゃないかな」 「そうかもしれない。私は王を求めるよりもまず、そのことから探してみようと思う。リシュリーと一緒に」  エミットの腕にぶら下がりながら、リシュリーが眩い笑みを咲かせて声を弾ませる。 「わたくし、そふとーさまとお話してみますわ! きっと、みんなで話せばいい考えが浮かびますの!」  星海の煌めきを凝縮したようなリシュリーの瞳に、星屑の輝きが眩しい。そんな彼女の隣で、ジェラヴリグの瞳もまた、深い海の光をたたえて頷いていた。二人の少女は手と手を結んで手を重ね、互いの体温をその身に記憶して……そして、別れの時を迎える。 「リシュ、お別れだけど……さよならは言わないよ。海は一つ、いつでもいつもつながってるから」 「わたくしもですわ、ジェラ。この空もまた一つ、わたくし達の頭上で星を抱いていつまでも」  二人の瞳に潤んで揺れる涙は、零れることなく少女達を飾っていた。  そして汽笛が高らかに鳴らされ、出港の時が訪れる。 「また会おう、メビウス。コッペペ、貴公にも世話になった……感謝の言葉もない」 「なに、キスの一つもくれりゃいいさ。ささ、熱いベーゼを、っとと! おおっと! あぶねっ」  口をすぼめて両手を広げたコッペペは、伸びてきたゲンコツに思わず身を逸らした。だが、エミットの拳は優しく解かれ、コッペペの襟首を掴むや、その頬に唇で触れてぬくもりをこぼしてゆく。僅か一秒にも見たぬ時間だったが、エミットが手を放してもとコッペペは呆けたまま頬をさすっていた。 「ジェラヴリグ、お前にも世話になったな。リシュの友人になってくれてありがとう」 「わたしこそ、素敵な友達をありがとう。エミットさん、リシュをお願いします」  二人は別れを惜しみつつ、船上の人となった。  ハッと我にかえるや、コッペペも続いてひょこひょことタラップへ歩を進める。  メビウスはその背を呼び止め、そっと手を差し出した。 「コッペペ、ひとまずお別れだね。元気で」 「ん? ああ、そういやそうだな……へへ、当たり前過ぎて忘れてたぜ」 「そんなにエミットの唇が嬉しかったのかい? きみらしいなあ」 「まあ、誰かさんと違って女性らしさがまだ感じられるからヨ」  ハハハと笑ったメビウスが拳を握る。  だろ? とニヤリとコッペペも振り向き笑った。 「相変わらず口が減らない、なっ!」 「っとっと!」  メビウスが冗談交じりに放った拳を、ポンと手でコッペペは受け止めた。  そしてそのまま、彼はじっとメビウスを見詰めてくる。 「名残惜しいがその通りだ、ひとまずお別れだな。メビウス、達者で暮らせよ?」 「……ああ。きみもね」  コッペペはメビウスの拳をゆっくりとほどいて、恭しく一礼するや……手の甲に接吻した。  初めてコッペペがメビウスを女性として扱った一瞬で、しかしメビウスはこそばゆい訳でもなく、ときめきもドキドキもさしてない。ただ、コッペペらしいことだと思って、顔をあげた彼の悪戯っ子のような笑みに笑みを返す。  そうしてコッペペもまた、タラップを駆け上がり船上のエミットやリシュリーに並んだ。 「あばよ、メビウス! 連中にもよろしくな!」  手を振る三人を載せて今、もやいを解くや沖へと船がゆっくり出る。目の前を通りすぎてゆく船へと、ジェラヴリグは追いかけて歩を進め、船足を増すにつれて走り出した。彼女が懸命に呼ぶ声は、やはり名を呼び返して手を振っている。  メビウスは黙って、西日の中へと溶けてゆく船の航跡を見送った。 「……いっちゃったね、メビウス」 「うん」 「メビウスも、いっちゃうんだよね」 「ああ。ぼくは冒険者だからね。攻略済みの世界樹には長居できないよ」  桟橋の先、踏み出す先もなく海を望む向こうに船を見送って、メビウスとジェラヴリグの言葉はそれっきり絶えた。  ただ黙ってメビウスは、そっと寂しげなジェラヴリグの肩を抱く。 「でもメビウス……ほんとにこれで出るの?」  ジェラヴリグはそっとメビウスの手に手を重ねて、静かに振り返る。  今まで巨大な豪華船がいた場所の反対、桟橋の逆側には小さな小さな舟が接舷していた。必要最小限の荷物を積んでシートをかぶった、先程のクリッパーとは対照的に粗末なボートだ。 「近くの陸までいければいいからね。そこからはまあ、風まかせ……ね、そうだろ?」  続いて振り返るメビウスの言葉に、ボートにかぶせたシートの中で動く気配が四つ。 「出てきなよ、ったく……いつからそこにいるんだい?」  呆れた様子で腰に手を当てるメビウスの声に、シートは内側からめくれ上がった。 「遅いですよ、隊長ぉ! い、いや、だってスカイアイが」 「おいおい、人のせいにするのかい? よしてくれたまえよ」 「ぼくは見てたけどね、タリズマン。きみが一番そわそわしていたよ」 「そういうグリフィス、君も落ち着かなかったじゃないか」  口々に声をあげるのは、タリズマンにスカイアイ、そしてグリフィスにネモだ。ハイ・ラガートから一緒の旧知の仲が、ちゃっかりボートに乗り込んでいた。勝手に準備を進めていたようで、水も食料も人数分積んである。  そして最後の一人が、やれやれと肩をすくめながら桟橋にやってきた。 「そういう訳さ、メビウス。俺達も同道させてもらうよ」 「エイビス、当然きみもか。やれやれ、物好きが多いという訳か」  驚き固まるジェラヴリグに挨拶をして、エイビスは軽やかに舟へと飛び降りた。  そしてメビウスへと、乗船を促すように手を伸べてくる。 「わたし達もお別れだね、メビウス」 「うん。ジェラ、きみも元気で。大丈夫、チェルミやテムジン、他にも大勢の人がきみを支えてくれるよ」 「そうね。だからわたし、寂しくない。わたしもみんなの支えになりたいから。だから」 「だから、また会おう。きっとまた、いつかまた……約束さ。じゃあ!」  颯爽とメビウスは、エイビスの手を取り舟へと飛び降りた。  口々に別れを告げる仲間達と共に、メビウスを乗せたボートは静かにゆっくりと船出する。  見送るジェラヴリグの胸に、感慨が溢れて押し寄せ、それは涙となってついに頬を伝った。それでも彼女は笑顔で手を振り、離れてゆくメビウスへと走りながら手を振る。  そうしてジェラヴリグは、桟橋の先でまた見送った。右から巨大な船に富と名声を載せて出港する者あらば、左から静かに小舟で荒波に漕ぎ出す者もいる……それがここ、アーモロードという土地のならいだ。  そしてそういう人種を世界は、冒険者と呼んで歌に讃えて詩に紡いだ。  全ては世界樹の迷宮、その神秘と叡智に導かれる勇気ある者達の叙事詩として。