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 その土地の名は、タルシス。
 大陸の奥深く、まだまだ未開の開拓地に開かれた小さな街だ。辺境伯が統治する町並みは雑多な建物が身を寄せるように密集して立ち並び、その足元には開拓民達のダウンタウンが広がっている。街のシンボルでもある大風車は、いつでも平野を吹き渡る風を受けてゆっくりと回っていた。
「ここがタルシス、か。へへ、いい街じゃねえか」
 大風車を振り返って鼻の下をこするコッペペに、ヨルンは「ああ」と短く返す。
 タルシスはまるで変わっていない。
 まだ少年だった自分がいた頃と同じで、刻が止まったかのよう。馴染みの酒場だった踊る孔雀亭は、まだ太陽が高いうちから冒険者達や街の民で賑わっている。セフリムの宿やベルンド工房といった店も、昔と寸分たがわず変わらない。
 なにより――
「で? あれがこの土地の世界樹かい。こらまた、随分と遠い場所にあんだな。ええ? おい」
 額に手を当て目を細めるコッペペの、その視線を吸い込む地平線の彼方……遠く広がる遠景の先にその大樹はそびえ立っていた。ようやく大地に接した西日が照らす、 ()()()()()()
 間違いない、ヨルンは帰ってきたのだ……タルシスの街へ。
 自分が冒険者として最初の一歩を記した、大恩ある師の暮らす場所へ。
「急ぐぞ、コッペペ。師の家はこの先だ」
「ったく、相変わらず無愛想だぜ、お前さんはよ。第二の故郷(ふるさと)だろ? 感慨ってもんがないかねえ」
 道を急ぐヨルンの後ろを、コッペペは腕を頭の腕で組みながらふらふらと歩く。
 この吟遊詩人あがりの男は不思議な人間で、年齢不詳の怪しい冒険者だ。無宿無頼の荒くれ者揃いな冒険者の中でも、とびきり胡散臭い。だが、ヨルンは二十年近くの付き合いでその人柄をよく熟知していた。頼れずだらしないが、信用にあたいする男だとも。なにより彼は、長らく続く名門ギルドのギルドマスターなのだ。……名目的に、書類的に、対外的に。一応、仮にも。
 数多の世界樹を踏破してきた伝説のギルド、トライマーチ。
 その新たな冒険の始まりを前に、ヨルンは気持ちをそよがせる余裕を持てずにいた。
「よう、ヨルン。先に酒場によらねえか? さっきちらっと見たけど、えれえベッピンなママさんじゃねえか」
「ああ、先代とちっとも変わらん」
「いいねえ、今が旬って訳だ」
 後ろ髪を惹かれる思いで大通りを振り返るコッペペはしかし、実のところ酒も女もそれほど関心はないようで。その真意が知れるからヨルンも、あえて多くは言わずに先を急ぐ。
「ネの国にも問い合わせたけどよう、ヨルン。目下捜索中の一点張りだったぜ?」
「この地方に来ていることは間違いないのだがな」
「心配かい?」
「……いや」
 この地方、タルシスの街をトライマーチのベテラン達が訪れた理由は二つ。一つは冒険者の習いとして、今だ未踏破の世界樹に、世界樹の迷宮に挑むこと。タルシスから遠く望むあの世界樹には、たどり着いた者すらいないのだ。この平野を絶えず周遊して風を運ぶ大気は、その奥の渓谷に激しい嵐の壁をも内包している。その向こう側に屹立する世界樹に到達し、その迷宮の門をくぐったものは未だ現れていない。
 そしてもう一つの目的は――
「そっかあ、しっかしお前さんもかわいげのねえ男だなあ。自分の女だろうがよ。ええ?」
 コッペペは小指を突き立てニヤリと笑って、歩くヨルンの前に回りこんでくる。
 その陽気な笑顔を悪童のように浮かべた姿に、道行く誰もが自然と頬を崩していた。ご婦人の何割かは、その憎めない天然の愛嬌に早くもほだされ、その無精髭が浮かぶ面が見詰める精悍な顔立ちの美丈夫にも息を呑む。ヨルンは、目の前の伊達男とは違う魅力が自分に従前に備わっているという自覚を、今まで持ったことがなかったが。それを何度も耳元で囁いてくれた者は、今はいない。
「あれは殺しても死ぬようなタマではなくてな。今まで心配したことなどない」
「おーおー、言ってくれるねえ。……ホントに?」
「ああ」
「それ、再会したら本人に言ってやんな。生娘(おとめ)みたいにはしゃいで喜ぶぜ? きっとな」
 エトリアの聖騎士、デフィール・オンディーヌ……ネの国最強のパラディン、辺境調査に旅立ち消息を断つ。
 このニュースが今、冒険者達の間で噂の種になっている。はじまりの迷宮と謳われたエトリアで、世界の真理に触れた勇者と讃えられた英雄の失踪。それは想像力豊かな酒場の詩人達に、伝説の最後を彩る悲恋や悲劇の歌をさえずらせていた。
 冗談ではないと内心思っているのだが、その感情が顔に出ることはないのがヨルンだった。
 自分が妻とした女は、そういうやわな人間ではないのだ。
「ついたぞ、ここだ。この土地で動くなら、師へ顔ぐらい見せておかねばな」
「師弟、感動の再会ってか? どんな男だい、そのワルター、ワルター・デライトって奴はよ」
「豪放にして繊細、緻密にして大胆……まあ、悪運に恵まれたズ太い男さ」
「なるほど、オイラはなんかこう、いい酒が飲めそうに思えてきたぜ」
 ようやく足を止めたヨルンの前に、古めかしい一軒家が現れた。タルシスの街を網の目のように走る水路に、ギシリと軋む水車を浮かべた小さな家だ。大風車が地下から組み上げる水は貴重な生活水で、街の中心部では上下水道も完備してある。だが、こんな街外れではまだまだ辺境を思わせる暮らしぶりだ。周囲に民家は少なく、変わって家畜の牛や羊が草を()んでいる。
 ヨルンが珍しく郷愁を感じて感慨にふけり、ふと止めた足を再びドアへ向けたその時だった。
「あの連中、根こそぎ全部もっていきやがった! オヤジが集めたなにもかもだ、クソッ!」
 手を伸ばしたドアが突然、内側からバン! と勢い良く押し開かれた。
 そしてヨルンの目の前に、家の奥へなにか喚いて叫ぶ少女が飛び出してくる。整った顔立ちに煌めく金髪が揺れて、左右に灯った瞳は空色に輝いている。過不足はないがやや豊か過ぎる痩身の起伏は、一足先に彼女を大人の女へ約束させるスタイルだった。


 咄嗟のことで少女は、ポスンとヨルンの胸に顔をぶつけてようやく見上げてきた。
「あれをかぶってないと、オレ……っと、悪ぃ! ……? あれ、どこかで会ったか?」
 頷くヨルンの顔をまじまじと見詰めて、利発そうな顔に野性味を含んだ表情を少女は浮かべる。
 次の瞬間、彼女は再び振り返って、開きっぱなしのドアの向こうに叫んだ。
「クアン! 弔問客(ちょうもんきゃく)だ、相手を頼むぜ! えと、その……オヤジ、じゃねえ、父のためにお疲れ様です」
 首を捻るヨルンと、その後ろで品定めに目尻を下げていたコッペペは、互いに顔を見合わせた。だが、少女はそれだけ言って頭を深々とさげると、揺れる金髪の一房をピンと立てながら街の方へ行ってしまった。その後姿を見送り、あっけにとられつつも確信と衝撃がヨルンの胸に満ちてゆく。
 あの少女は……あの娘は、こんなにも立派に成長したのだ。
 そして、そんな彼女を忘れ形見に師は――
「ラミュー、待ってよラミュー! さっき借用書を調べた、これは辺境伯に相談したほうが――」
 続いて出てきたのは、どこか線の細さを感じる優男だ。女性然とした柔和な美形の青年に、既に遠くまで走り去った少女が振り向き声を張り上げる。
「待ってられっか、辺境伯の旦那にゃ迷惑かけられねえよ! オレが(ナシ)をつけてきてやるっ」
 その声を置き去りに少女は見えなくなった。がっくりと肩を落とした青年は、ようやくヨルン達来客に気付いて同じ言葉を並べる。
「あ……父の弔問に? すみません、バタバタしてて」
「クアンか? 大きくなったものだな。俺がこのタルシスにいたころは、こんな小さな子供だった」
 ヨルンが僅かに口元を緩めて、その怜悧な目元を和らげた。微笑んだのだと気付いたのはコッペペだけで、目の前のクアンと呼ばれた青年には無表情に思えただろう。だが、その無表情に見覚えがあるらしく、彼もまた目を見開いた。
「もしかして……ヨルンさん!? 僕です、クアンです。ああ、本当によかった……明日には荼毘(だび)に」
「見違えたな、クアン。……荼毘? 先程から弔問と……まさか」
「父が、亡くなりました。それで僕はネの国の大学を辞めて戻ってきたんです」
 ヨルンはハンマーで殴られたような衝撃を受けたが、その表情を変化させることはなかった。今しがたはっきりと死別を告げられた男が、若い頃のヨルンに言い聞かせて鍛えたからだ。自分はゲラゲラと笑ってオイオイ泣く癖に、その男は常に言っていった。冒険者たる者クールたれ……冷静に、冷徹に、時に冷酷に。そうして自分を鍛えてくれた男の死は、ヨルンにはショックだった。
「……どこの迷宮だ? ワルター程の男が」
「花園のある小迷宮です。本当に小さい迷宮で。薬草を頼まれてたそうです。父は、またそんな小さな仕事を」
「昔から仕事は選ばぬ男だったさ。損得勘定のできない師でな」
「ええ。だからあんなに借金を……あ、いえ。とにかく上がってください。父も喜ぶと思います」
 お連れさんも、と言われてコッペペも神妙な顔を作る。生来(ひょう)げたニヤケ面のこの男でも、場の空気には敏感で黙ってヨルンに続いた。
 そして招かれた家の中には、恐らく葬儀があって大勢の弔問客がいたのだろう。彩りを失った部屋には香が煙っている。そして、花で飾られた棺の中にその男は身を横たえていた。
 ヨルンが最後に見た時と変わらぬ笑顔を浮かべ、僅かに白の混じった髪は整っている。
 だが間違いない、師とあおいで共に冒険した、冒険のイロハを叩きこんでくれた男の顔だ。
「あ、あの、ヨルンさん? なにか落としましたけど……? これは……凄い絵ですね」
 棺を前に膝を突いたヨルンは、一枚の紙片を拾い上げるクアンを肩越しに振り返った。
 その時、棺の奥から懐かしい声を聞いたような気がした。脳裏の奥で忘れることなく保存されていた、密かに尊敬していた男の声。それは今、立ち止まるなと言っているような気がする。目的を果たせ、そのために前へ……そういうことばかり言っていた師が思い出される。
「これは遠く南国で撮られたものでな。写真という」
「写真……凄い、ネの国でもこんなものは。随分と進んだ国なんですね、そこは」
「世界樹のある土地だからな。……さて、師の顔を見たし、事情も聞こうか。先程の娘、ラミューだな?」
 頷くクアンに、ヨルンは師が溺愛していた娘を、クアンの義妹(いもうと)を思い出す。とても仲のいい親子だった……血の繋がりがないとは思えぬくらいに。血よりも濃い絆を結んだ少女は先程、慌てて逼迫(ひっぱく)した形相で出て行った。
 それともう一つ、胸の奥に永遠となった師が()かすまま、ヨルンは受け取った写真をクアンに見せた。
「忙しい中すまんが、クアン。……この女を見たことは? この土地を訪れている筈だが」
 そこには、大勢の仲間達と並ぶエトリアの聖騎士の姿があった。
 彼女が消えた先へと、大冒険が幕を開けた瞬間でもあった。

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