うねるような山道をゆく荷馬車は、ガタゴトと荒れた路面の起伏を拾って揺れる。向かう先、大きく開けた
吹き荒ぶ風に誰もが縮こまる中、身を寄せ合う一組の人影があった。
見る者誰しもが、その温かな言葉のやり取りに家族の姿を見るだろう。
「はいけー、親愛なるジェラ。わたくしは今――」
リンゴの詰まった木箱を机に、揺れも気にせず少女がペンを
熱心に手紙を
「リシュ、綴りを間違っているぞ」
「あらら? ええと、この字は……そうですわ、間違ってますの! 正しくは……こうですわ!」
隣で微笑む妙齢の女性は、少女と並べて見れば母子にも見えるし、姉妹のように仲睦まじい。短く切りそろえた髪の下では、理知的な切れ長の瞳が美貌の麗人を飾っていた。
それでリシュと呼ばれた華奢な
ふとペンを止めて、リシュリーがエミットの視線に気づき顔をあげる。
「おばねーさま、どうかしたのですか? とてもいいお顔をしてますわ。ニコニコしてますの」
「ん、いや。まあ……あの男の手紙をもらった時はどうかとも思ったが。やはり外の世界に出てよかった」
「コッペペおじさまはきっと、おばねーさまを頼りにしてらっしゃるのです。わたくしもですわ!」
エミットはリシュリーの頭を撫でて、ことさら目尻を緩める。リシュリーはエミットにとって、妹であると同時に姪、時には我が子のようにかわいい時もある。双子の姉エミッタからも、娘をよろしくと頼まれていて、実質エミットがここ数年はリシュリーの保護者だった。
そしてそれは、国を出て各地を
「しかし、思えば随分と遠くに来たものだな」
エミットは
祖国ファフナント王国が、絶対王政の政権を市民達に移譲して三年が過ぎていた。南海の国アーモロードより十数年ぶりに帰国したエミットは、今まで嫌悪して憎悪し、それゆえ避けて逃げてきた父王と対面を果たした。そして、ずっと小さく老いてしまった父親を、姉エミッタの頼みもあって王の座から開放したのだ。だが、次なる王は持たず、国を民へと委ねる道を選択、ファフナントの地は共和制の道を今も少しずつ歩んでいる。
もはや自分の役目も終わったと知るや、エミットは再び旅へ出た。
妹にして姪、そしてなにより冒険の仲間であるリシュリーを伴って。
「こぉーんな大陸の奥地なんて、わたくし初めてですわ。ドキドキしますの」
「私もだ。これより先は未開の地……だが、必ずや新たな冒険を得られるだろう」
「勿論ですわ! わたくし、今度もおばねーさまもお力になります。頑張りますっ!」
リシュリーはその場で立ってくるりと回ると、
よほどじっくりまじまじと見ない限り、リシュリーの股間の膨らみは気にする必要もないようだ。
だが、少女でありながら少年を秘めたリシュリーは、今年でもう十六になる。なのに、男にも女にもならず、成長した証もあまり見られないのだけがエミットには心配だった。概ね女の子で、時々は男の子。そういうリシュリーを守るのもエミットの生きる道だ。
「踊りも、たっくさん覚えましたの。遊牧民の踊りに、東洋の踊り。どのリズムもわたくし、大好きですわ」
激しく揺れる荷馬車の上でも、リシュリーは平然とその場でステップを踏んでみせる。卓越した体幹に加えて、天性のリズム感があって、おまけに生まれながらの愛嬌もある。やや抜けたところがあってド天然だが、すこぶる健全に成長してると言えた。
「リシュ、まだ座っていたほうがいい。タルシスまではもう少しかかる。それまでに」
「はいっ。ジェラへの手紙の続きを書きますわ。ああ、でもなにから伝えたらいいのでしょう」
再びマントを羽織って、リシュリーは木箱の机に再びつこうとした。
だが、その流麗な動作がピタリと止まって、開けた視界の中央へとリシュリーの視線が固定されて吸い込まれる。
その目線を追って首を巡らせたエミットも、荘厳な絶景に思わず「ほう」と感嘆の言葉を漏らした。
「おばねーさまっ! あれ、見てください! あれがこの土地の……なんて素敵なんでしょう」
――遥か遠く、地平の彼方にそびえるは
多くの明るく希望に満ちた声を載せて、荷馬車の列は草原の吹く風に逆らい走った。
「……随分と遠いのだな。フッ、まずは世界樹に、世界樹の迷宮につくまでが冒険という訳か」
エミットが不敵に笑うが、リシュリーは目を奪われたまま立ち尽くしていた。
「凄い……おばねーさまっ! あの世界樹は確か」
「ああ。この土地の古い言い伝えにある、
「伝承の、巨神。うーっ! おばねーさまっ、わたくしワクワクしてきましたの!」
身震いに己を抱きながらも、リシュリーはニッコリ微笑む。
想いはエミットも同じで、始まる冒険へと気持ちが昂ぶり胸が高鳴る。
「あっ、そうですわ。早速このことをジェラへの手紙へ書かなくては。ふふ、きっとビックリしま――」
リシュリーが慌てて手紙を広げた木箱に向き直った、その時だった。
リシュリーは突然の衝撃に小さく軽い身を宙へと躍らせ、大きく弾んだ馬車から放り出されていた。
「くっ、リシュリー!」
慌てて身を起こすエミットだったが、鍛えぬかれた騎士の肉体も今は荷物の下敷きで思うように動かない。周囲の者達が悲鳴を輪唱させる中、不意に風が巻き起こった。
風馳ノ草原を吹き抜ける風に逆らい、一陣の疾風が少女を抱き留め引き寄せる。
「よぉ、お嬢ちゃん。怪我ぁないかい? ちょいと揺れるからな、も少しおとなしく座ってな」
リシュリーを抱き上げ立ち上がったのは、無精髭の男だ。年の頃はエミットより少し上、三十代に入ったばかりだろうか。精悍な顔つきは今、くしゃりと笑顔で白い歯を見せている。旅装に身を固めたその姿に、抱き上げられるリシュリーもぽーっと頬を赤らめ瞳を潤ませていた。
そしてエミットは、気付けば自分もリシュリーと同じ熱量に頬を染めていて、慌てて大きく首を左右に振る。
「あっ、ありがとうございます、おじさま」
「ハハ、いいってことよ。元気のいいお嬢ちゃんだ、冒険者だな?」
「はいっ! おじさまは」
「俺は……
世が世ならお姫様なリシュリーを、本当にお姫様のように抱いたまま男が顎をしゃくる。その先を見れば、簡素な荷物と一緒に弓が置かれている。なるほど、この男はどうやら野の獣を追う生業らしい。だが、エミットは些細な違和感に陽気な笑顔を注視した。
この男は、不意に襲った揺れの中、放り出されたリシュリーを救ってくれた。
荷物が崩れてきたとはいえ、エミットが身動きできず、周囲が叫ぶ中で迷わずに。その卓越した身体能力は、とても一介の狩人とは思えない。野にモンスターは数多く、それを狩る者達は皆勇敢で屈強だ。それでも、長らく無頼の者達の中で渡世を生きてきたエミットにはわかる。否、感じるのだ。
この男は、底知れぬ恐ろしさを秘めている。
一番恐ろしいのは、それが全く周囲の者達に気取られないことだ。
「おっと、
「あ、ああ。すまない。改めて礼を言う、ありがとう」
「なぁに、いいってことよ」
だが、エミットの元へ戻ってきたリシュリーは、そんな男の背中に声をかける。
「おじさま、お名前を教えてくださいまし。わたくし、なにかお礼を」
「ん? お礼かあ。そうさなあ、じゃあ……おじさんのお嫁さんにしちゃうぞー! わはは!」
「きゃっ! それはちょっと難しいですわ。……だってわたくし、ちょっと普通と違いますもの」
冗談めかしてガオーと両手をあげた男に、リシュリーもにこやかに笑みを向ける。なんとも微笑ましい景色だったが、不意に男は表情を引き締めた。
「ま、俺だって普通じゃねえさ。……
自嘲気味に笑う男の横顔が、急に哀愁を帯びて鋭いカミソリのように輝きを放つ。エミットは背筋が寒くなると同時に、やはり只者ではないと思いながらも警戒より先に興味が湧いた。
商隊の先頭で声があがったのは、そんな時だった。
「モッ、モンスターだ! くそっ、こいつはええと……おいっ! 誰か!」
「黒檀ニンジンだ、持ってこ――お、おいっ! そこのガキ、一人で飛び出すんじゃねえ!」
「くそっ、積荷を守れ! モンスターの襲来だ!」
騒がしい悲鳴と怒号を聞いた瞬間、エミットが身を固くする。その瞬間にはもう、男は荷物から弓を取り出していた。
「やれやれ、物騒な土地だなタルシスってなぁ……俺はサジタリオだ、姐さんは?」
「私はエミット、エミット・ミル・ファフナ……いや、エミットだけでいい」
「厄介事らしいが、あんたぁどうにかしようって顔してらあ。いけねえなあ、そういうのは」
「そうだろうか? ふふ、見過ごせん性格でな。リシュ、ここで待ってるんだ」
止まってしまった荷馬車から身を翻し、エミットは大地に脚を下ろす。
それは、頭上を巨大な気球艇の影が通り過ぎるのと同時だった。