雲のすぐ下を流れる風は冷たく、吹きさらしの甲板を白く洗って吹き抜ける。
グルージャが手に入れた虹翼の欠片は、即座に交易所へと持ち込まれた。だが、依頼してきたダンサーの女は、最初に提示してきた報酬の代わりにこう持ちかけてきたのだ。
「これで気球艇が動けるから、それを元手にもっと稼がない、か。……どうなんだろ、それ」
グルージャは船尾で舵輪を手に取る件の女性を振り返った。
「改めてお礼を言うわ、グルージャちゃん? 私はそうね……ファルファラ、でいいかしら?」
「いいかしら、もなにも……それより、ファルファラ、さん。あたし、やっぱり――」
「ふふ、物入りなんでしょ? お父さん、まだ退院できてないじゃない」
「!? どうしてそれを」
グルージャの父親、ポラーレは未だ臥せっていた。街の診療所に運び込まれて、既に二日目……そして病状は二日酔い。どうも、初めて飲んだ酒が悪かったらしく、ワインのような発酵酒には極度に悪酔いしやすいらしい。父の意外な一面にも驚いたし、その父が酒を口にしたというのも未だに信じられない。
だが、厳然たる事実として、ポラーレは今も寝込んでるのだ。
そしてそれを知る人間は今、限られた者だけで。勿論、今しがた名乗った怪しげな美女は本来その枠内に入っていない。
「ま、それはおいおい……それよりグルージャちゃん。どう? 気球艇が手に入ったのよ? 少しは」
「あたしは、あたし達は! ……当分の糧があれば、事足ります。これを元手になんて」
「欲がないのね。でも、本当にこのままでいいのかしら? 考えたことはある? 明日、明後日、一年後、十年後」
グルージャには学がない。読み書きそろばんはできる方だが、わかっててやってる訳ではない。父子二人の放浪生活が、自然と必要技能を身につけさせた。動物を
明日をも知れぬその日暮らし、替えのケープ一枚買う余裕もない暮らし。
だが、父との日々は幸せで、それは定住の地を得れば追われることは明白だ。
父は異形の
だが、頭を動かしても言葉は出なかった。
「答、出ないでしょう? そゆものよ、でもいいの。考えること自体、意味があるから」
「……父さんはすぐに元気になります。そうしたら」
「あの街を、タルシスを出る? また逃げるのね。そうして逃亡のその日暮らし。それもいいけど」
ファルファラは器用に舵輪を保持して船体を維持しながら、吹き抜ける
「タルシスは冒険者の街、一攫千金のチャンスが眠る始まりの土地よ? どう、私と組まない?」
「あたしに、あたしと父さんにメリットは?」
「安定した収入、出生や身分を問わない冒険者としての地位。何より……名誉と尊厳」
「名誉と、尊厳……」
「そうよ。貴女、まさかパンとベッドだけで生きてく訳じゃないでしょ?」
考えもしなかった言葉に、思わずグルージャは目を逸らす。そのまま手すりに両肘を載せて、遠景へと視線を逸らした。
先日、森の廃鉱と呼ばれる小迷宮を歩いた時の高揚感。眠れる好奇心と探究心を刺激する、冒険の興奮と感動。
だが、グルージャは知ってしまった。その一瞬を連ねた豊かな日々に、欠かせぬものが自分にはないと。
「名誉に尊厳……あたしには無縁ね。きっと父さんにも。だって――」
だって、分かち合う友も、支え合う仲間もいないから。もし、先日の小さな大冒険のように、助けてくれる者達がいれば。親身に親切に、これからもずっと一緒の仲間がいてくれれば。
だが、それが無い物ねだりの高望みだという自覚がグルージャにはあった。
同時に、望む全てはポラーレが与えてくれた。父親という存在と共に。ずっと今まで。ずっとこれからも。
「冒険者、か。稼ぎはいいのかな。……暗殺や用心棒より、父さんの危険は減るのなら」
ふと眼下の草原をぼんやり眺めながら、グルージャが考えを巡らせていたその時だった。
視界の隅で何かが光った。
それを感じた次の瞬間、グルージャの瞳は違和感の正体へとフォーカスして、猫の目のように細められて脳裏に像を結ぶ。
グルージャが状況を把握して小さく叫んだのは、ガクンと船体が傾き増速したのと同時だった。
「ファルファラさんっ! あそこ、
「あらぁ、いい眼ね……さぁて、少し揺れるわよ! しっかり掴まってらっしゃいな」
グングン近づいてくる地表にはもう、先程まで点だった商隊の列が迫る。
その時グルージャは目撃した。
巨大な
「あたしと同じ女の子っ! ファルファラさんっ、もっと寄せてください!」
「ふふ、いいわネ……面白くなってきたじゃない。お手並み拝見って、とこっ、ねっ!」
気球艇がビリビリと震えて、まるで地表スレスレに見えない水面があるかのように低空飛行。空気の飛沫を巻き上げ、
その時もう、グルージャは身を乗り出して手すりを乗り越えていた。
「それじゃ、グルージャちゃん……さっきの話、いい返事を期待してるわよん?」
墜落一歩手前の超低空飛行で、商隊の
立ち上がると同時に、グルージャは目の前の有袋類へと視線を巡らせ、脳裏に印を結んで秘術を
「くっ、避けられたの!? 巨体の割に……素早いっ」
その獣は両の前肢で拳を作って、小刻みに上体を揺らしながらステップアウトして印術を避けた。グルージャが放った火球が虚しく空へと吸い込まれてゆく。
次の瞬間には、右に左にと揺れる跳獣が距離を詰めてきた。護身用のナイフを抜く暇もなく、大きな影が日光を遮りグルージャを包んだ。
「危なーいっ! どっ、りゃあああああっ!」
咄嗟に身を固くするグルージャへと、何かがブチ当たってきて草の上へと押し倒す。今までグルージャがいた空間を、風切り音と共に強烈な一撃がすり抜けた。それは昔、父が雇われた闇の
だが、視界を守ってかざした手の、指と指の間に立ち上がる少女の姿が見えた。
「怪我、ないよね? うん、良かった! さあて、じゃあこっちの番……ね、わたしに続いて!」
先ほどグルージャにぶつかり押し倒した少女は、剣と盾を構えてモンスターへと突貫してゆく。言われた意味もわからぬままに、どうにか次の術を行使して術式を巡らせるグルージャ。そして気付く……切り込み役を買って出た少女の、その言葉の真意に。
「そうか、ソードマンの牽制で動きが……これなら、当てられる」
「そゆことっ! いいね、わたし断然張り切っちゃう。そんじゃまー、片付けます、よっと」
剣士の少女はフェイント気味に袈裟斬りを繰り出し、モンスターへと横移動の回避を誘発させる。そこへバックハンドブローの要領で、シールドバッシュを叩き込んだ。簡素なバックラーが、メリリとモンスターの横っ面を張り飛ばして揺るがせる。怯んだその瞬間に、グルージャは渾身の一撃を発動させた。その手から放たれる稲光が、バチバチとプラズマをスパークさせて放たれる。
だが、周囲をモノクロに塗り潰して炸裂した稲妻も、モンスターへの致命打にはならなかった。
総じて草原を徘徊するモンスターは、迷宮内の要所を抑えてうろつく
だが、現実には
――筈だった。
「大丈夫か、君達。ふむ、珍しい種だな。この大陸の固有種か? リシュリー! 私の武器を」
目の前に今、突然割って入った長身の女性が立っていた。彼女はかざした左手で、素手でモンスターのパンチを受け止めている。微動だにせず。グルージャの目にも、今まで荒ぶり吠えていた
気付けばソードマンの少女と抱き合い互いを庇っていたグルージャは、場違いに優雅でほんわかした声を聞く。
「おばねーさまっ! 持って、来ました、わっ! お、重いですのぉ〜、おっ!」
華奢な少女が、引きずってきたハンマーをぐるぐる回して遠心力で放り投げる。
そしてそれを宙で追い越し、モンスターが反撃に振りかぶる左の拳を射抜く矢。腕封じの一撃に絶叫が迸った、その瞬間に壮麗な女性は
「怪我はないか? 二人とも礼を言う。商隊を守ってくれたのだな。余計な加勢かと思ったが」
「い、いえ……そんなことは。あたし、助けに入ったのに……なにも、できなかった」
グルージャへ優しく手を伸べてくる女性は、優雅な笑みをたたえている。片手で重そうな鉄塊を肩に遊ばせながら。
そして、真剣な表情を作るとグルージャ達を起こしてくれた。
「なにをしたか、なにができたかも大事だ。だが、私達には助けに来てくれたことが嬉しいのだ」
「……そうか、これが……こういう、仕事。それが、冒険者? あ、いえっ! あたしこそ――!?」
グルージャが慌てたのは、目の前の麗人が優雅に過ぎたから。それと、もう一つ。
驚愕に目を見張れば、瞳に映るのは最も恐ろしい天敵……先程の矢を放った、弓を手に持つ
「あーっ、死ぬかと思った! あ、わたしはメテオーラ。……お、お腹減ったあ。もーダメっ、ダメダメっ!」
緊張感に身を固くするグルージャはしかし、隣で大の字に身を横たえる少女に毒気を抜かれる。
だが、とうとう来てしまった……自分達を狩る者が。そのことがグルージャに芽生えた新たな可能性を縛り上げていた。