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 タルシスに夜の帳が降りて、街明かりの星達が瞬き始める。セフリムの宿は帰り着く旅人や冒険者を、温かな夕餉の香りで迎えていた。踊る孔雀亭からは音楽と踊りのリズムに載せて、酒と美女とが一日の労働をねぎらうべく待っている。
 そんなタルシスの穏やかな夜の顔に、そっと背をそむけて宵闇に溶け消える親子があった。
「父さん、よかったのかな……お礼、言わなくて」
 保護者を見上げてグルージャは今、真っ白な無表情に問い掛ける。
 不満も不安もない。だが、自分の中に芽生えたモノを今、グルージャは運命共同体(ふたりぼっち)である父の中に探してしまう。ないとわかっていてさえ、探さずにはいられない。
 二人はゆきずりの関わりを捨てて、闇夜に紛れてタルシスを出ようとしていた。
「診療所にお金は置いてきたから大丈夫。……グルージャが稼いできたお金だけどね。残りは」
「いいの、父さんが持ってて。って言っても、困るか。あたしが預かっておくね。あたし達のお金」
 完全無欠の錬金生命体であるポラーレは、どういう訳か生活力が決定的に欠如している。いつだったかグルージャが熱を出して寝込んだ時など、各種料金の支払いは滞るわ炊事洗濯なにをやってもとっちらかるわ……しかし、悲しいことにその全ての失敗がポラーレ自身に微塵も損害も不利益も与えない。ただ彼は、自分の娘の力になれない自分に打ちのめされてうちひしがれるだけなのだった。
 だが、往々にしてもだもだと面倒くさくネガティブな一面がある頼りない父に、グルージャは懐いていた。
「行こう、追手が来る前に。大丈夫、グルージャは僕が守る。仕事は、その、また探さないといけないけど」
「……うん。次の土地ではきっとうまくやれるわ」
 グルージャは父の手を強く握って、もう片方の手で小さなトランクを持ち上げる。
 なにも変わらない、放浪の暮らしは安息の定住地を二人に許さない。だから、この土地を吹き抜ける風に乗って、今宵ポラーレとグルージャは出てゆくのだ。思い出一つ残さず、この街から消え失せる。
 ――筈、だった。
「……っ、遅かったみたいだね。グルージャ、下がってて。もう、捕まったみたいだ」
 不意にポラーレの覇気に欠ける表情が、緊張感を帯びて暗い瞳に光を灯す。そのゆらりと揺らめく翡翠色(アブサン)の輝きは今、警戒心も顕に虚空を睨んでいた。暗がりの路地裏、左右に壁となってそびえる家屋は、光さす窓辺に笑いが満ちていた。そんな団欒の上から向けられる殺意が、ポラーレの眼差しの先から飛来した。
 突如夜気を切り裂いてい、鋭い鏃がポラーレの足元に突き立った。
 そして空の月に雲がかかり、本物の闇が喋りだす。
「よぉ、ひさしぶりだなバケモノ……その娘を離せよ。獲って食おうったって、そうはいかねえぜ?」
 ゆらりと気配も読ませずに、一人のスナイパーが現れた。その手には飾り気の皆無なコンポジットボウが握られている。小ぶりに作られた弓はよく使い込まれて、ピンと貼った弦でしなっていた。その弓に矢をいかけながら、無精髭の不敵な面構えが目元を険しくポラーレを睨んでいる。
 その顔に見覚えがあり、嫌な記憶しかないらしく、ポラーレは珍しく焦りに表情を狼狽させた。
 逆にグルージャは、やはり先日助けた商隊(キャラバン)の男がそうなのだと確信を得る。父が折に触れて語ってくれたから、その容貌は脳裏に常に像を結んでいた。猛禽のごとく鋭い目付きに、まるで生ける気配を感じさせず無音で忍び寄る手練。なにより、天性の嗅覚を持った生まれながらの狩人(イェーガー)……そして、その恐ろしさを周囲にまるで感じさせないことこそ、その男の恐ろしさだと聞いている。
 闇から闇へ影を生きる親子の前に現れたのは、裏社会のお尋ね者を狩る凄腕の射手(しゃしゅ)
 直接見るのは初めてだが、グルージャにはこの男の恐ろしさが父の語った通りだと即座に理解できた。
「よくもまぁ、点々と逃げてくれたなあ? ええ、おい。だが、チェックメイトだ。終わりだよ、終わり」
「そう、だね。君は僕を逃さないだろう。君の腕は嫌というほど知ってる。でも、ね……」
 不意にざわざわとポラーレの肉体が身震いに沸き立つ。漆黒のコートを纏ったその腕からは、ずるりと生え出た二本の剣が握られていた。そのまま彼は、まるで重力の条理を無視するかのようにトンと地を蹴り、ふわりと屋根の上へと跳ねる。
 追手の男もまた、ちらりとグルージャを見てから後に続いた。
 視界から消えた二人の気配が、殺気を漲らせて膨れ上がるのがグルージャには感じられた。


「僕はもう、逃げない。捕まえたのは……僕の方だ」
「言うじゃねえか。ようやく本性を見せたか。それが手前ぇの真の姿。いいぜ、狩ってやる……来やがれバケモノ!」
 グルージャが見上げる狭い夜空は、星も月も見えず暗雲が低く速く流れる。
 その漆黒を挟んで、獣のような咆哮に弓を引き絞る音が入り混じる。
「父さん、逃げてっ! あたしは平気……構わない! あたしを置いて逃げてっ!」
 身を声にしてグルージャは夜空へ叫んだ。懇願に声を張り上げて、同時にその哀切(あいせつ)が伝わらないと知る。自分がポラーレを第一に思うように、ポラーレもまた自分を唯一に思ってくれているから。それがわかるからこそ必死で叫んだ。
 だが、無数の投刃が空を斬り、父の身に銀の鏃が突き刺さる音だけが響く。
 頭上で今、屋根の下に平和な団欒の数々を踏みしめて……一匹の魔獣が一人の狩人と死闘を繰り広げていた。
「随分と足掻(あが)いてくれるじゃねえか……どうしてそこまで戦える? なにがそうまでさせるっ!」
 闇の狩人の名は伊達ではない。その手から放たれる必殺の一矢が、百発百中の精度でポラーレを追い詰めてゆく。
 グルージャは(かわら)をガラガラとほじくりかえしながら荒れ狂う戦いを追って、暗い路地を必死で走った。
「僕はここでは死ねない。死んではいけないんだ」
「命が惜しいか? 惜しむ命もない分際でよ」
生命(いのち)ではない僕でも、それよりも大事なものを知っている。だから」
「……くっ、こいつぁヤベェな。オーケィ、全身全霊で相手をしてやる。まさしく手前ぇが、過去最強の獲物だ」
 更に激しさを増して加速する影と影とが、グルージャの頭上に煉瓦(れんが)や鉢植えを降らせる。
 思わず頭を覆ったグルージャは、キンと耳の奥が鳴るのを感じた。
「あ、貴方は……どうしてここに?」
 闇夜に稲妻を走らせ、死闘が振り撒く瓦礫を粉微塵に砕いた音が前髪をかきあげる。包帯姿で上半身裸の美丈夫は、手に酒瓶を持って物憂げに夜空を見上げていた。
 グルージャは目の前に再び、氷雷(オーロラ)錬金術師(アルケミスト)の姿を見る。
 だが、旅先でよく吟遊詩人が歌っていた姿とはどこか違う……心底面倒くさそうで目付きも悪く、やれやれと首をコキコキ鳴らしながら屈む。長身の目線が並んできて、その氷河のように冷たい瞳がグルージャを覗きこんできた。
「酒が悪酔いばかりだと覚えられては目覚めが悪いからな。だがどうだ、ベッドはもぬけの空で」
「……え、あ、あの」
「しかも、街医者は治療費が過払いだと俺に怒る始末だ。……なにがあった?」
 現れたヨルンが目元を僅かに緩めた、恐らく不器用に微笑んだのだろう。だが、それだけでも伝わる気遣いに、思わず震えるグルージャの視界が滲んで歪んだ。だが、まだ泣いてはいけないと拳を握ってグッと上を向く。
「父さんが、追っ手に……父さんには莫大な賞金が。あちこちで仕事したから、膨れ上がってて」
「フン、どうりで街が騒がしい訳だ。止めねばおちおち酒も飲めんという訳か」
「あっ、あのっ! 氷雷の錬金術師、ヨルン、さん……どうか、どうかあたしの」
「俺はプロの冒険者だ、お嬢さん。最低でも10,000エン、凄腕同士に割って入るならそれでも足りない」
 ヨルンの言葉に慌ててグルージャは財布を取り出し、紙幣も貨幣もありったけを差し出す。おぼつかない手付きで突き出されたしわくちゃの全財産は、提示された最低額にすら届かない。それが知っててもグルージャは、頼らずにはいられなかった。
 だが、ヨルンはグルージャの手をそっと押し返すと立ち上がる。
「それと、悪いがプライベートの時間に仕事は持ち込まない主義でな。ふむ、これが給水管か」
 ヨルンは壁に近づき手を伸べると、複雑に絡み合って這い上がる鉄の管を選び出す。そうして呆気にとられるグルージャの手を引き、試すように静かに言葉を選んだ。
「大金でさえ助けが得られない、そんな厳しさの中に生きてきた筈だな? ならば、答えは既にお前の中にある」
「……自分で。あ、あたしが……あたしが、止めなきゃ」
「そういうことだ。やってみろ、お前の中に眠る力を解き放て。(ルーン)(つむ)いで結ぶこと自体は、きっかけに過ぎん」
 ピシリ、とヨルンの手から発せられたプラズマがスパークして、音を立てて壁からボルトがはじけ飛ぶ。固定されていた水道管が強力な電流によってねじ曲がった。
 その瞬間、両手を夜空に突き出しグルージャが叫ぶ。
「父さんはやらせないっ! 父さんにも、もう……やらせないっ!」
 吹き出した真水へと、グルージャの研ぎ澄ました精神力と集中力が干渉してゆく。印術の行使で、水道管から溢れ出る水はたちまち凍結して周囲に氷の結晶を振りまきながら天へと聳え立った。周囲の家々から悲鳴が聞こえる中、雪の降り注ぐ路地裏にグルージャは膝をつく。彼女が作り出した巨大な樹氷は今、その凍れる枝葉で夜空を覆って、屋根から屋根へと霜を走らせた。
「……これ程とはな。さながら氷の世界樹、か」
「クッ、足場が! どういうこった、お嬢ちゃん! どうして……」
「グルージャッ、無事かい? どうして……ここで追っ手を潰さないと」
 狩人は自分の狩場が激変してしまったことに動揺も顕だったが、それでも難なくグルージャの目の前に舞い降りる。驚いたはずだ、突然季節外れの吹雪に見舞われたばかりか、その原因が魔物の連れていた子供だったのだから。ポラーレもまた、しゅるしゅると人の身に姿を集束させて戻ってくる。
 グルージャは最後の力で懸命に叫んだ。
「父さんは! ポラーレ・メルクーリオは、あたしの父さんは! 確かに魔物です、でも……初めてワインを飲んで倒れちゃうような、そんな当たり前に頼りない、でもかけがえのない……あたしの家族です」
 その言葉が狩人の殺意を上書きしていった。男はバツが悪そうにポラーレをちらりと見て、次いで倒れて気を失ったグルージャを抱えっるヨルンにも視線を走らせる。その目は既に、半ば呆れたように戦意を喪失していた。
「……ったく、なんだこりゃ。ええ? 茶番かよ……おい、手前ぇ! ええと、ポラーレつったか」
「そう名乗ってる」
「クソッ、ありえねえ……けど、このお嬢ちゃんに嘘はねえ、それくらいわからあ。……じゃあ、よっ!」
 男は完全に敵意を引っ込めたのに、目にも留まらぬ速さで弓に矢を(つが)える。そうして放たれた矢は、暗闇の中に吸い込まれて壁に突き立った。そして、全てを最初から見ていた傍観者が姿を現す。
「流石ね、裏社会でも名うての狩人……始末屋、サジタリオ。呼んでみて正解よ、ふふふ」
 女だ。褐色の肌も顕なダンサーの女が、妖艶(ようえん)な笑みを浮かべて闇に佇んでいる。
 彼女は説明を求める視線を全て吸い込み、一枚の封筒をポラーレへと投げつけてきた。
「これは? 君は以前、病室で見た……これはどういう……答えによっては」
「――ヴィアラッテア。どう? いい名前だと思わない?」
 女はすらりと見心地のいい細い腕をあげ、指で上をさす。
 雲の晴れた雪空には今、満点の星々が天の大河に無数の輝きを煌めかせていた。
 ポラーレが受け取った封筒の中には、冒険者ギルドと辺境伯が認めた正式なギルド登録証が入っていた。それを取り出し再び問い正そうとした時、ダンサーの姿は既にない。。
 後の世にタルシスの民が語り継ぐ一流冒険者の双璧ギルド、ヴィアラッテアが産声をあげた瞬間だった。

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