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 風馳ノ草原(カゼハセノソウゲン)を吹き抜ける季節風が、今日も北へと雲を運んで流れてゆく。遥か空の高みに国境はなく、どこまでも自由に。だが、地に満ちた人間達には、空への視界を覆う絶壁が立ちふさがっていた。唯一切り開かれた岩盤の回廊は、その深い渓谷に強烈な旋風(つむじかぜ)を渦巻かせている。気球艇で侵入を試みても弾かれ、無理に舵を切ればたちまち船体はバラバラにされてしまうだろう。
 吹き荒れる烈風の回廊を見上げて、ポラーレは改めて大自然の脅威に胸の底が冷えた。
「これが例の石版か。なるほど、確かに同じ紋様(もんよう)が刻まれているな」
 先日ファルファラがもたらした石版を手に、隣でヨルンがフムと唸る。
 二人の前には今、石版と同じ文様が穿(うが)たれたレリーフがあった。()(しげ)った草や(つた)をそっと払って、細かな文字に走る虫達を追い払う。顕になるのは、ちょうど石版の大きさにへこんだ窪みだ。まるで、そこへ石版を収めるために、石版の形で待っているようにすら思える。
「……はめこめ、ということだろうか」
「恐らくな。試してみるか?」
 ヨルンはそう言ってポラーレへと石版を戻す。その重みを片手でつまむように持ち上げて、ポラーレはしばしじっと石版を見詰めた。
「せめて、文字が読めたらよかったんだけども」
「随分と古い文字のようだな。俺にもさっぱり解読できん」
「クアン君やパッセロ君もお手上げみたいだった。あ、その二人で思い出した」
 ポラーレは石版から視線をあげて、隣で腕組み佇む印術師を見やる。
 ヨルンは風に髪を抑えながら、錬金術師の頃からトレードマークとしている真っ赤なスカーフを棚引かせていた。
「怪我、もういいのかい? ……僕は、その、殺す気で刻んだんだけども」
「ああ、もう治った。もともと、じっと寝ていられる性分(しょうぶん)でもなくてな」
 あの日の激闘(デュエル)で両者は、致命的な一撃を刻み合った。ポラーレは錬金術で生み出された錬成生物なれば、自分を構成する物質が補填されれば自己再生を果たすことが可能だ。だが、目の前の男は紛いなりにも人間なのだ。その肉体を切り刻み圧縮して、全神経を捻り絞ってやったのをポラーレは思い出す。
 だが、涼しい顔でヨルンは平然と、
「気にするな。二十年も冒険者をしていれば、多少のことでは死ななくなる」
「そ、そういう理屈なのかな」
 医者のパッセロも閉口していた回復力だが、それでも彼はことあるごとに病室を抜け出てはお小言と共に連れ戻されていた。とんだ不良患者だが、それも今日で張れてお役御免というところだろうか。僅か数週間で完治したとは思えないが、ヨルンにとってはもう充分ということだろう。
 それに、冒険者ならずともこの光景を見上げればじっとしてはいられない。
 そして、頭上に広がる幾重ものエンジン音が、ポラーレへと輪唱で唱え伝えてくる。
 高鳴る胸に光を秘めた、お前も既に冒険者だと。
「上の連中を待たせるのも悪い。ポラーレ、さっさと済ませてしまおう」
「う、うん」
 頭上では、既に百をくだらない気球艇が待機していた。大小様々な気嚢(きのう)をふくらませて、プロペラの音を互いに響かせ合っている。ポラーレ達が獣王ベルゼルケルを倒し、その玉座から石版を持ち帰ったことは既に知れ渡っていた。そして、それが北へと続く道を切り開くのではという噂が、この場所にタルシス中の冒険者を集めていた。
 意を決して、ポラーレは石版を目の前のレリーフへと埋め込む。
「……なにも、起きないみたいだ」
「だな」
 寸分違わず石版はピタリと収まって、しかしなにも起こらない。
 だが、変化は石版とレリーフに訪れた訳ではなかった。
「旦那っ! 北の裂け目が!」
 すぐ側に着陸していた、ヴィアラッテアの気球艇エスプロラーレから声があがる。同乗していたラミューが声を張り上げ、船首へと身を乗り出して指差す先に……轟音と共に集束して天へと昇る大気の層が逆巻(さかま)いていた。
 今まで渓谷に満ちていた風の障壁が、空気を(こす)る音を引き連れ消えてゆく。
 頭上の気球艇から無数の歓声が上がった。
「なるほど、これで北を……世界樹を目指せるという訳か」


 さして驚いた風にも見えないが、ポラーレには隣のヨルンが心なしか気持ちを高揚させているように見える。それはどこか、小さな子供のように瞳を輝かせていた。そして多分、自分も同じなのではと思い、すぐに襲い来る諦観(ていかん)に応じた。
 自分は人間とは違う、なにもかもが仮初(かりそめ)(うつ)ろな生物(イキモノ)だ。
「父さん、これで北に進めそう。一度気球艇に戻って。ヨルンさんも」
「ヘイ旦那! ぼやぼやしてくと置いてくぜ。ファルファラの姐御、(いかり)をあげてくれっ」
 タラップから娘のグルージャが叫ぶ声も、心なしか弾んで聞こえる。
 思えば、愛娘がこんなにいきいきと瑞々しい声を発するのも珍しい。それに頷き応えるポラーレもまた、戻る足取りが軽かった。何より、そそくさと石版の文字列をメモしつつも焦れるヨルンも嬉しそうだ。
「行こう、ヨルン」
「少し待て。……国元に便りをと思っていたが丁度いい。こいつを一応送っておく」
「……息子さんがいるんだっけか」
「ああ。……冒険の方ばかり順調で、いささか気が引けるがな」
 ヨルンの本当の目的は、この地方で消息を絶った妻を探すこと。
 だが、その姿はおろか、手掛かりすら得られてはいない。ポラーレも冒険の合間を縫って情報をかき集めたが、どれもこれも歯牙(しが)にもかからぬ話ばかりだった。今や生ける伝説にも等しいエトリアの聖騎士は、本当にこの地で煙のように消えてしまった。
 それでも、見えぬものをも追ってすがり、手にふれてみるまで納得しないのもまた冒険者。
 ヨルンの目には諦めはなかったが、僅かな焦りをいつも病室の隣でポラーレは感じていた。
 退院して復帰した今、そのヨルンの焦りが少しだけ以前よりも大きくなっているように感じる。
「お子さんも辛いだろうね。その、やっぱり親の安否が知れないというのは」
「あれの教育がよくてな。そんな素振りを見せはしないが……領主がおろおろしてては領民も落ち着くまい」
 それだけ言ってメモ帳を懐にしまうと、ヨルンは長い髪をさらう風に額を抑えながら歩き出す。
 続くポラーレの胸を、トンとヨルンの拳が叩いてきた。
「お前も肝に命じることだ。あの娘を悲しませるなよ」
「うん。わかってるさ。やってみせる……絶対にグルージャを、一人にしない」
「その気持ちがお前の生きる原動力となる。あとはせいぜい気張(きば)って稼ぐことだ」
「ヨルンもね。お互い死ねない理由があるなら、引き締めてかからないと」
 風馳ノ草原を渡る風が、緑の波間にさざなみを寄せては足元をすくう。その流れに逆らいながら、二人は揃って少女達の待つ気球艇へと戻る。その足取りは軽く、頭上では爆音と共に多くの翼が渓谷へと吸い込まれていった。
 それを見送りながらも、ポラーレはタラップを静かに駆け上がる。
「旦那! 早くいこうぜ!」
 迎えてくれたラミューは顔が高揚に上気して、その頬を朱に染めている。キラキラと空色の瞳を輝かせて、待ちきれない様子だ。
 だが、同じ気持ちを秘めながらも落ち着いた声音が響く。
「焦りは禁物、だと、思う。父さん、一度地図で確認したいことがあるの」
 グルージャは地図を広げつつ、肘でさりげなくラミューを押しのけながら歩み出た。
「ヘイヘイ、グルージャ! 連中に先を越されちまうぜ! 慎重なのもいいけどよ、ここは――」
「そっち、持って」
「おうっ! ……じゃねえよ、いいかグルージャ。冒険者ってなあ迅速(じんそく)(たっと)ぶもんだ。オヤジが――」
「見て、父さん。ヨルンさんも。あれだけの風が消えたのに、空は()いでる。ラミュー、ペンを」
「よしきた、ちょっと待ってろ。……ん? な、なんか、おかしくね?」
 ポラーレの自慢の娘は、浮足立つ他の冒険者に比べて何倍も慎重だった。恐らく、そうでなければ生きていけない闇の世界を、裏の社会を連れ回したせいかもしれない。だが、彼女はそのことに無自覚で、今も広げた地図に定規(スケール)を走らせペンで定点を刻み、コンパスで風の動きを計算している。
 手慣れた様子で計算を終えてから、グルージャは顔をあげた。
「不思議、まるでこの草原自体が周囲から隔絶されてるみたい。それともう一つ」
「なんだよ、勿体ぶるなよな、グルージャ」
「ラミュー、貴女も気付いてた筈……ううん、勘付いてた、っていう方が適切」
「ああ。旦那、ここを拔けりゃ世界樹! ……とは、いかないみたいだぜ?」
 グルージャの記した地図は、この風馳ノ草原のあらかたがマッピングされている。高低差も丁寧に記述してあり、気球艇の限界高度より上の山脈も仔細が知れた。そして、よくよく見ると、この窪地がきれいな正方形に象られているのに気付く。まるでそう、人為的に作られた箱庭だ。
「神は直線を引かない、という(ことわざ)もある……どう思う? ポラーレ」
「うん。僕の直感だけど、いいかな? この形で切り取られた大地の、ちょうど真ん中にあの谷が北へ……」
 グルージャが計算で気付き、ラミューが冒険者の経験で勘付いた憶測に、ポラーレもまた達する。
 それはもう、憶測ではなく事実にも等しい予想(カクシン)だ。
 ポラーレにはわかる、理解できるのだ。神ならぬ何者かが作ったこの舞台が。神をも恐れぬ人が作った身である故に。
「目算でも世界樹にはまだまだ遠い、とすれば。この先にまた、同じような大地が広がってるかもしれない」
「ああ。では、確かめに行くとしようか。コッペペ達もおいおい追いつくさ。ファルファラ、出してくれ」
 舵輪の前で頷く褐色美人が目配せして、気球艇エスプロラーレがエンジンの鼓動に小さく震え出す。
 ポラーレはヨルンや仲間達と共に、新たなる冒険が待ち受ける第二の大地へと飛び立った。

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