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 小さくも豊かなその土地は、ネの国の隅にひっそりと広がっていた。なずなが訪れるのは数年ぶりで、しかしいつ来ても変わらぬのどかな風景が賑わっていた。オンディーヌ伯領は今日も、活気に溢れる領民達の息遣いに満ちている。
 数年前に家督を継いだリュクスの手腕で、この小さな自治領は平和を甘受していた。
 なずなが訪れた領主の館も、半分以上が村の役場として使われ、忙しく領民達が出入りしている。
「本当によく来てくださいました、なずなさん。あの人も喜びます」
 出迎えてくれたのは、領主夫人であるつくねだ。アーモロードで共に冒険して戦った昔、彼女はまだ小さな少女だったのに。今はもう、夫の仕事を支えて民と共に生きる大人の顔をしている。そのお腹の目立ち始めた膨らみに、自然となずなも頬を綻ばせる。
「元気そうだな、つくね。それに、幸せそうだ。うん、よかった」
「なずなさん……あのっ、先日お義父様(とうさま)から文が。その、まだ――」
 僅かに表情を(かげ)らせ、先を歩くつくねが振り返る。その肩にそっと手を置き、なずなは静かに首を横に振った。
 未だエトリアの聖騎士ことデフィール・オンディーヌの消息は掴めてはいない。
 そしてそれは、同行したレンジャーのエルトリウスもまた、生死不明であるということだった。
 だが、なずなには確信にも似た予感があった。そしてそれを疑う理由を知らない。あの男は、自分が愛した男は生きている。今も大陸の奥地、辺境のタルシスへと向かったその先で。ただそれだけで、なずなにとっては充分に過ぎる。それに、ただ座して帰りを待つだけの女ではないという自負もあった。会いたい、逢いたいから……自ら探して求める旅に出ればよいのだ。
「心配は無用だ、つくね。エルは、生きてる。山河広がる野の中で、あの男が死ぬ道理はない」
「なずなさん……信じてらっしゃるんですね」
「ああ。デフィール殿の生還を待つお前達と同じようにな」
 そっと目尻を白い指で拭って、ようやくつくねが笑顔に戻った。その表情に安心して頷いた時、向かう先で大きな扉が開かれる。
 現れたのは、つくねの夫でもある現オンディーヌ伯リュクス。そしてもう一人。旅装のマントを羽織った細い影が、手に羽根付き帽子を持ってゆっくりと歩み出た。腰には細い突剣を履いて、男装に身を固めているが間違いなく女性だ。それも、見目麗しい妙齢の美人である。
 向こうもなずなに気付いて、軽く会釈を交わす。
 交差した視線の中で瞬時に、互いの力量を測る眼力が人知れず行き来した。そしてなずなは、この女剣士がただならぬ使い手であると悟った。それは相手も同じようで、しかし互いに顔にも言葉にも出さない。
「オンディーヌ伯、今日はお忙しい中ありがとうございました」
 女剣士は恭しく、リュクスへと(こうべ)を垂れる。完璧な所作で、無言で彼女の生まれと育ちを物語っていた。だが、同時になずなは妙な違和感を感じる。まだまだ暑い季節だというのに、女は首元まできっちりと衣服を着込み、手袋をしている。そして、(いぶか)しむなずなの視線を避けるように、そそくさと羽根付き帽子をかぶった。


 そんな彼女に、リュクスが申し訳なさそうに言葉をかける。
「お力になれず申し訳ありません、ファルシネリ卿。母がいてくれればよかったのですが」
「いいえ。……その剣の存在を知れただけでも希望を、勇気を得られました」
 ――ドラゴンは、人の手で、倒せる。
 まるで呪詛(じゅそ)か祈りのように小さく呟いて、女剣士は弱々しく微笑んだ。
 その視線を吸い込む先、リュクスの手に一振りの宝剣がある。なずなはその業物(わざもの)が伝説として産声を上げ、神話となって世界を駆け巡る時代を共に過ごした身だ。だから忘れようとも忘れられない……今は古びた鞘に収まり静かに沈黙している、竜の鱗より削り出した神器の威力を。真竜の剣は、エトリアの聖騎士と共に数々の(ほまれ)(いさおし)を歴史に刻んできた聖剣だ。
「これからどうされるおつもりですか? ファルシネリ卿。フランツ王国にお戻りでしたら」
「いえ……国元にはまだ帰れません。先ほどのお話……そう、ドラゴンスレイヤーの騎士を訪ねて北へ」
「そうですか。うまくラプターさんに会えるといいのですが。今は北の大地を開拓して暮らしていると」
「縁があれば巡り会えましょう。では」
 颯爽(さっそう)と女剣士は歩き出した。その足取りはどこか、焦燥感が滲んで自然と歩幅が揺れる。華奢な背を見送りながらも、なずなは胸中にざわめきが伝搬してゆく寒さに凍えた。
 その胸騒ぎを感じ取ったのか、リュクスが執務室へなずなを招きながら一言添えてくれる。
「今の方はアルマナ・ファルシネリ卿。フランツ王国の三銃士です。さ、なずなさん。中へどうぞ」
「では、わたしはお茶を入れてまいります。サーシャ達もお呼びした方がいいですね」
「ああ、うん、お願いします。それと……あ、あの、あまりそう忙しくされると……つくねさんっ」
「ふふ、わかっています。本当に旦那様は心配症ですね。身体を動かしてた方が調子がいいのですけど」
 笑って一礼するや、ぼわんとつくねの輪郭が滲んで姿が(かす)み、瞬く間にその場から消えてしまう。シノビの技で生み出した分身だと気付いた時には、気配すら残さず霧散していた。腕をあげたものだと驚きつつも、なずなはリュクスを追って執務室へと戻る。
 リュクスは真竜の剣を壁に丁寧に戻すと、執務机の前で振り返った。
「お久しぶりです、なずなさん。大したおもてなしもできませんが」
「構わない。すぐに()つつもりだ……タルシスに向けて」
「……やはり、まだ諦めてはいませんね。僕も同じ想いです」
 偉大な英雄にして最古の仲間、デフィールが未開の地で消息を絶った。なずなの恋人であるエルトリウスを伴って。エルトリウスは凄腕のレンジャー、野に生き獣と共に暮らす大地の申し子だ。空と星が見える場所で、そんな熟練の冒険者が遭難するとは思えない。何より、この世でデフィール程の腕の騎士を消し去れる者など考えられない。例え伝説の竜とて、彼女は退けるかもしれないのだ。
 だが同時に、この世に絶対という理が存在しないことをもなずなは知っている。
 同じ冒険者としてそのことを痛感すれば、義手の右腕に握った拳がギリリと小さな音を立てた。
「先日、父から手紙が届きました。……タルシスから見えるそうです、世界樹が」
「まだ未踏破のものだな? そして二人は……エルは、その奥へと」
「それはわかりません。父はまだ、世界樹の迷宮にすら、その入口にすら到達できずにいると」
「そうか。私が出向く意味が強まったな」
 ひとりごちて小さく頷き、改めて己の旅立ちを決意。なずなはもう、国でじっとしていることには耐えられないのだ。そして、最愛の者が消えた地に世界樹があると知れば、じっとしていろと言う方が無理難題である。彼女は剣客(けんかく)にして武人(もののふ)である前に……誇り高きトライマーチの冒険者、それも初期メンバーの一人なのだから。
「そうそう、女性の一人旅では何かと物騒です。丁度いい人員がいますので――」
「いや、気遣いは無用だ。その……()()を連れてきてるので。まあ、ついてきてしまったのでな」
 あれ、とはなずなの姉のことで、察したリュクスが「ああ」と安心したような、困惑したような表情を浮かべる。
 背後でバン! と豪快に扉が押し開かれたのは、その時だった。同時に騒がしい声が二重に輪唱を響かせる。その喚いて(さえず)る若者を抱え担いで、大柄な長身の女性が現れた。艶めく漆黒の黒髪を総髪に結って、まるで悪童のように瞳をキラキラと輝かせている。
「なずな! 今夜は一泊していこうぞ。ワシはもう野宿には飽きた。ほれ、男も調達できておる」
「姉者……」
 思わずなずなは、げんなりとした顔で振り返る。滅多に表情を顔に出さない仏頂面のなずなが、露骨に眉を潜めていた。リュクスも流石に苦笑するが、その長身の女性は悪びれた様子もない。
「こっちはおなごの格好をしとるが、ちゃんと男ぞ? さっき確かめた」
「姉者、すぐに発とうと思うのですが。タルシスに」
「こっちも活きがいいのう! なずな、お主もたまには男と寝ねば駄目じゃあ。蜘蛛の巣がはるぞよ?」
「……はあ。言いたいことは、それだけですか」
 ことさら険しく作った声を滲ませても、目の前の姉は全く意に返さない。これが、故郷の倭国でも名を馳せた猛将にして鬼姫……草壁しきみという人間だった。自堕落が服を着ているような人間で、しかしその本領は服を脱いだ時に発揮される。無類の男好きで、男漁りに目がないのだ。
 哀れ今日も、十五、六程の年頃の少年が小脇に抱えられ、肩には少女のナリをした同年代が担がれている。
「おっ、おいこら姉ちゃん! 降ろせよ……この俺が本気の力を抑えていられるうちにな」
「あのぉ、ボクも降ろしてもらえると助かるなあ。まだ今日の仕事が終わってないから」
 白い目でじとりと眇めるなずなにも、全く動じた様子を見せないしきみ。その両手の中でそれぞれ、哀れにもさらわれてきた少年達が声を上げた。やれやれとリュクスが苦笑を交えつつフォローしてくれる。
「丁度よかった、しきみさん。お久しぶりです、リュクスです」
「おお、リュクス坊かあ。おおきくなったのう。かわいい幼妻まで(めと)りおって。ややこはもうすぐか?」
「ええ。来年には僕も父親になります。しきみさんは……その、相変わらずですね」
「おうてばよ! それなのになずなと来たら、一穴主義ならぬ一竿主義なのじゃ。あの異人以外とは」
 歯に衣着せぬ言葉に思わず、なずなが目元鋭く細めて睨む。
 だが、妹の扱いは心得てると言わんばかりにしきみは余裕の笑みだ。
「くっそー、おいリュクス! 俺様がモテんのはしかたねえ、けどこりゃなんだ!」
「ああ。ごめんよクラッツ。なずなさん、紹介します……傭兵団シャドウリンクスのクラッツ、僕の友人です」
 しきみの腰元で、やんちゃな声をあげた少年をリュクスが紹介してくれた。また、逆の腕で肩に担がれているのはフミヲと言う名で、スカートを履いているが男だそうだ。傭兵団と言えばなずなにとっては、戦がなければ野盗強盗なんでもやるならず者の印象がある。それが、年端もいかぬ十代の少年達にはどこか不釣合いな気がした。
 だが、今の御時世ではこれが現実かもしれない。世に戦乱は絶えた瞬間を持たず、生まれる数に倍する命が一瞬で消えてゆくのだ。そうした戦国乱世で生きてきたなずなはだから、冒険者という生き方に憧れる。何物にも縛られず、ただ己の力だけで生き抜くという、その矜持をなずなも持っていた。
「なずなさん、タルシスまでシャドウリンクスのみんなに送ってもらいます。よければその後も」
「ん、それはありがたいが……使えるのか? 姉者に手玉に取られてるようでは、いささか頼りない」
 そうは言っても、なずなの姉しきみは、倭国にその人ありと言われた戦国武将だ。女だてらに数多の婿と(ちぎ)って複雑な同盟関係をやりくりし、その数だけ夫を戦場で亡くしてきた。そうしてずっと、草壁一門の国を守ってきたのだ。
 その豪腕に抱えられた二人の少年は、じたばたと足掻くが全く抜け出せずにいる。
「まあ、これからの伸びしろに期待してください。それと……そうだ、この剣もお願いします」
 平和な場所にあるべきものではないと、リュクスは先ほどの古い剣を壁から取り外した。
 なずなは思わず息を呑んだが、差し出されるままに真竜の剣を受け取る。そして、この剣が消失した最初の主を、エトリアの聖騎士を探し当ててくれるのではと淡い希望を抱く。それは、最愛の者が仕える人間を探し、当の本人とも再会するということだ。
 なずなは黙って承知し、とりあえず粗野な姉から旅の仲間を開放してやることがら始めた。

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