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 その森は薄暗く煙って、舞い降りたポラーレ達を異様な雰囲気で出迎えた。後に瘴気(しょうき)の森と冒険者達が恐れる、第二大地で初めて巡りあった小迷宮。歩けば小一時間で一周できる広さを、誰もがしかし魔宮と恐れることになる。
 だが、まだそのことを無邪気で無垢な少女達は知らない。
「大丈夫、こっちはオッケー! ラミュー、そっちは?」
「いいぜ、メテオーラ。しっかし臭ぇな、鼻が曲がっちまう」
 二人の剣士が互いに死角をカバーしあって、進路上の曲がり角から顔を出す。階段を降りてすぐのフロアに敵意はなく、それはポラーレにはすぐにわかる。闇から闇へ影の中を生きてきた男には、本能にも似た鋭敏な感覚が備わっていた。だが、こういう時は若い仲間に任せてみるものだと、相棒を自称する狩人に言われたのだ。
 そして、ラミュー達はまだまだ未熟とは言え、ポラーレの目にもよくやっている。
「父さん、何か変……敵が、魔物がいないの。ううん、ちょっと違う」
 側で表情を僅かにかげらせた愛娘は、いつもの仏頂面(ぶっちょうづら)でポツリと呟く。
「……生き物の気配が、ない」
「うん。それにこの臭い。最初は硫黄(イオウ)かと思ったんだけども……少し厄介な場所らしいね」
 親子は警戒心を高めながら、扉の前で手を振る少女達に追いつく。
 一本道で導かれた小さなフロアには、奥へと続く扉が待っていた。そして、その先で異臭は強くなる気配が読み取れる。ラミューやメテオーラは若輩ながらも冒険者、警戒心も(あらわ)で手堅く周囲を調べ始める。だが、そんな彼女達とは裏腹に、鼻歌交じりでニコニコとマイペースな声があがる。
「わたくし、以前親友から聞いたことがありますわ。……きっと温泉ですの!」
「はぁ? おい姫、何言ってんだよ。こんな場所でか?」
「そうですわ。ふふ、楽しみですわね。ラミュー、一緒に入りましょう。皆様も! おじさまも」
 ふわふわと満面の笑みで振り返るリシュリーに、誰もが苦笑と溜息で緊張感を緩和させる。ポラーレさえも口元が緩んだし、隣のグルージャもそれは同じだ。だが、残念ながらここは隠れた秘湯(ひとう)などではないだろう。それも、この扉の奥を調べてみないことにはわからない。
 意を決してラミューが、メテオーラと一緒に扉を慎重に開け放つ。
 何があってもいいよう、四人の女の子を守れるように身構えてポラーレは妙だと笑った。今、考えるより先に身体が臨戦態勢に緊張感を高めている。それが自然に思えて、そうすることが自分にとって大事に思えるのだ。守りたいという気持ちが、愛娘以外に向いたことに小さな驚き。
 開け放たれた扉の中へと、抜剣と同時に二人の剣士が転がり込む。
 そして周囲を警戒、安全を確認して――すぐさま引き返して扉をバタン! と閉めた。
「ぐおお、鼻が! えうー、酷い臭い。戸棚の奥に忘れ去られた十年前のソーセージ、かな」
「まったくだぜ、おいおい……どうすんだ。この先はガスが充満してやがる」
 メテオーラは目がしょぼしょぼするのか、しきりに瞼を擦っている。だが、不思議とラミューはそこまで苦しそうではなかった。妙な違和感を感じて、ポラーレはしかしその正体に気付けない。扉が開け放たれた瞬間、この森に満ちる瘴気が天然のガスではないことはわかった。なぜなら、大地より吹き出す星の息吹(いぶき)にしては、その組成に術的な規則性を感じる。間違いない、どこかの誰かがこの森に毒を振りまき封じ込めたのだ。究極の錬金生物たるポラーレでさえ、危ういかもしれない。
 そんな危険な気体が充満する中から戻っても、ラミューは平然としていたのだ。
「わたくしにいい考えがありますの! そう、きっとデフィールおばさまならこうしますわ」
「ああ? ヨルンの旦那のかみさんか。んじゃ姫、エトリアの聖騎士ばりのお知恵を拝借すっかよ」
「はいですの! 吸込めば危ないのですから、息を吸わなければいいのです」
「……悪ぃ、オレが馬鹿だった。ポラーレの旦那! 小休止でいいかな? みんなも」
 瞳に星を散りばめ、不思議そうに小首をかしげてぱちくりとまばたきを繰り返すリシュリー。そんな彼女の横でやれやれと肩をすくめて、ラミューはポラーレとグルージャに振り返った。
 だが、冒険者には慎重さと共に大胆さが求められる。石橋を叩く時もあれば、一足飛びに跳ぶ勇気も必要だ。
「リシュリーちゃんの案でいってみよう、と思う。この瘴気、吸い込まなければ害はない」
 扉が開かれた僅かな時間、漏れ出た臭気に触れた瞬間にポラーレは読み取っていた。ポラーレは少女達に並んで歩み出ると、扉にそっと触れる。腐食は経年以外に見て取れない、やはり呼吸器系へのダメージでこの先への道を阻む罠だ。誰かがこの場を閉ざしているのだ。
「いいかい? 僕は毒に耐性があるから、先に立つ。……僕は呼吸も、形式的なものだし」
 不必要という訳ではないが、なくても困らないようにできている。そんなポラーレの提案を、即座に少女達は理解した。
「旦那に周囲を警戒してもらって、オレ等は息の続く範囲で周囲を調べっぞ。ヘマこくなよ?」
「任せてガッテン! 行きと戻り、往復を考えるんだよね。無理せず引き返して、ここで息継ぎ」
「わかりましたわ、メテオーラ。……行きの息……まあ、シャレになってますの。ね、グルージャ」
 グルージャがすっごい微妙(フラット)な顔に眉根を寄せた。ニコニコ笑ってるリシュリーは、どうやらツボだったらしく上品に口元を手で覆って肩を震わせている。メテオーラがふざけて「瘴気に正気を失うなよー」とキメたが、今度はリシュリーまで真顔になった。
「っしゃ、しまっていこうぜ。開けるぞ!」
 こうして、改めて息を吸い込み肺腑に留めて、ポラーレを先頭に扉の先へと進む。ポラーレに索敵を全て任せて、少女達は四方に気を配っては目を凝らし、無理せず扉へと引き返した。ポラーレも人間を超える耐性があるとはいえ、自分にも危険な場所だと瞬時に悟って無理はしない。
 そんな忙しい調査を三往復ほどして、ガスの満ちたフロアがかなり広いことがわかってきた。
 だが、進む先にちゃんと次の扉も確認できたし、そこまで息は持ちそうだ。
「じゃあ、あの扉へ向けて全速力で。息を切らさないで走ろう。大丈夫、みんななら届くよ」
 人を励ますのは、なんだか初めてなポラーレ。だが、仲間達は神妙な面持ちで頷いてくれる。彼女達より息の続くポラーレは、次の扉の先には清浄な空気があることを一足先に確かめていた。
「っしゃ、行くぜっ!」
 一斉にスタートを切って、若き冒険者が走る。その前を先導して、モンスターの気配を探りながらポラーレが真っ先に扉へと到達。開け放って後続を招き入れようとした、そうして振り向いた時に背筋を電撃が走り抜けた。
 ――このフロアに、何か巨大な害意が潜んでいる。その存在を拾った時、不運が舞い込む。
「きゃっ! ……いけませんの、息か。ええと、吸ってはいけませんわ、吸っては……うう、ネバネバしますの〜」
 リシュリーが派手に転倒した。彼女の脚をもつれさせたのは、地面を濡らして澱む奇妙な粘液。そこからは強い毒性が感じられて、倒れたリシュリーの露出した肌をベタベタと汚している。立ち上がろうとして悪戦苦闘の彼女を、容赦なくガスが襲った。
 咄嗟に飛び出したポラーレはその時、意外な光景を見る。
「メテオーラ、肩を貸して! 急いで、早く! ラミュー、周囲を……何か、来る」
 珍しくグルージャが大きな声を張り上げたのだ。そして、自ら率先してリシュリーを助けだす。奇妙な毒液に自分が汚れることも構わず。あのグルージャが、自発的に。それも、考えるより先に動いている。そして、その気持ちに気持ちで答える少女達が仲間へ手を差し伸べた。当然、ポラーレも(きびす)を返して戻り出す。
 その時、ぬっと巨大な悪意が五人の前に現れた。
「まずい、彼女達は息が……僕がやるしか。って、ラミューくんっ!?」
 友人達を庇うように、ラミューは剣を抜くや跳躍した。その先に今、見るも禍々しい巨大な毒蜥蜴(どくとかげ)が舌を踊らせている。
 やはり妙だ、ラミューの身体能力は常人のそれより僅かに優れている。錬金術の集大成たる、異形の化け物であるポラーレに及ばないまでも、この瘴気の中であの動き……彼女は息を止めているのだ。
 剣閃(フラッシュエッジ)に獣が吠え荒び、続くポラーレの二刀一刃(かさねぎり)が巨躯を怯ませる。……だが、それまで。
「ラミューくん、無茶を! ……くっ、グルージャ達も。どうしたら」
 ラミューは奮闘虚しく息が切れて、動きが鈍ったところで巨大な尾に薙ぎ払われた。背後ではリシュリーを助けようと藻掻いて足掻き、扉へ走る少女達が次々に倒れる。助けなければ……愛娘を守らなければ。昔ならば、ただそれだけしか頭になかったのに。今、冷徹と冷酷を司る頭よりも、胸に何かが燃えている。
 全員助ける。瞬時に冒険者達を陥れた、この迷宮の悪意を踏破して。
 瞬間、ポラーレを構成する術式が全身に翡翠色(アブサン)の光を筋と走らせた。そして、異形の怪物がその力を開放する。
「……みんなに、見せたくはなかったんだけど。急いで片付ける! みんな、僕が守るんだ」
 ポラーレの輪郭が滲んで解け、その闇を凝縮したような漆黒が瞬く間に広がってゆく。人の身を模した躰が拡張してゆく中で、周囲の瘴気すら戦慄に凍る禍々しい光が明滅した。そして屈むと同時に地に手をついたポラーレが、巨大な獣へと変貌してゆく。
 究極の錬金生物にして万能亜生兵器であるポラーレは、光を吸い込む黒狼竜(こくろうりゅう)へと姿を変えた。


 その威容にすくんだ間隙を衝いて、一撃で貪欲(どんよく)な毒蜥蜴の喉元を引き千切る。舞い上がった鮮血がポラーレを濡らすべく雨と降り注いだが、その雫が地に落ちるよりも疾く彼は走った。倒れる少女達を順に口で拾って背負い、扉の奥へと転がり込む。
 だが、安全な場所に到達と同時に尾で扉を閉めて……ポラーレは動けなくなって崩れ落ちた。
 仲間達の手当を、姿を人の身に……だが、四肢に力が入らず視界がぼやけて霞む。瘴気はポラーレさえ(むしば)んだのだ。
 そんな時、酷く冷静な声が走った。
「ほう、人間か。それと、竜……どういう訳だ? 古の盟約が失われてより幾星霜(いくせいそう)……ふむ」
 細く白いシルエットが、狭くなってゆくポラーレの視界に立っていた。明らかに人間ではない、肉付きに乏しくスレンダー過ぎる女性だ。手にした長杖を置くと、彼女はポラーレが散らかした四人の少女に手当を始める。
「無茶をしたな、この呪われた森で先走り過ぎたと見える。ファレーナ、そっちはいい! 人の子は助ける義務もあろうし、一度は見逃す必要もあるからな。だが、もはや絆は失せて久しい……この再会、吉と出るか凶と出るか」
 淡々と話す女は、グルージャ達四人に施術しながら表情を陰らせる。
 自分よりも仲間を案じて、薄れゆく意識をポラーレが必死でつなぎとめていたその時。ひんやりとした心地良い手が触れた。血走る目が並ぶ頭を撫でてくれる手は、怯えることなく化物そのもののポラーレへ伸びてきた。
「ウーファン様、この竜はまだ生きています。生きる命は全て、等しく同じでは?」
「……我らが巫女のお言葉だな。いいだろう、そっちは任せる」
 亜人としか形容しがたい、しかし幻想的な美しさをまとった女性達の輪郭は滲んで見えた。ポラーレとてもう限界だった。だが、そんな彼を恐れることなく、優しい手が牙の並ぶ口元を僅かに押し上げて、薬を押しこんでくれる。唾液と毒蜥蜴の血に濡れるのも構わずに。
「さ、飲んで。いい子だから。この子達を守った、そうだね? そう、飲んで……生きるんだ」
 ファレーナと呼ばれた女性の声が、清涼にポラーレの意識を包んで響く。
 薬などなくとも、超常の再生力と抗体が時間と共に働き出すが……それを促すように漆黒の毛並みを撫でる白い手は心地よく、ポラーレはいつしか危機感も警戒心も忘れて気を失ってしまった。

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