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 薄暗い中を濃密な霧が立ち込め、ひんやりと冷たい夜気はしっとりと四肢に絡みついてくる。まるでそう、この森の奥へと冒険者を絡め取るように。鬱蒼(うっそう)と茂る樹木の迷宮を、タルシスより訪れた者達は深霧ノ幽谷(シンムノユウコク)と呼んで恐れた。未だ地図には空白地が広がり、その調査は遅々として進まない。
 数歩先の愛娘ですらぼんやり霞んで見える、そんな中でポラーレは隣に感心したような声を聞いた。
「へへ、すっかり二人は打ち解けたみたいだなあ。おいクアン、何があったんだよ。はぐれ熊の茂みでよ」
 サジタリオの嬉しそうな声音に、メディックの青年は「秘密ですよ」と静かに笑う。
 そう、ポラーレも愛娘グルージャの些細な変化の機微に気付いていた。それは、はために見れば以前と変わらぬ二人なのだが。今、先をラミューと歩くグルージャの態度は、明らかに以前よりも柔らかく開かれている。ポラーレという黒い太陽の光にしか咲かぬ花は今、より広い空の下で全く違う彩りを見せているのだった。
 もっとも、その些細な変化を拾える人間は少ないようで、その点ではサジタリオは流石の慧眼(けいがん)だった。
「待って、ラミュー。その魔物は襲ってはこないわ。……きっと、あたし達の隙を伺ってる」
「なら、背後から不意をつくチャンスだぜ? でっけえ蝶だな、しかしよ」
「無用な戦闘は避けるべき。不用意なら尚更。……あと、これは蛾」
「ヘイヘイ、どう違うんだ?」
 二人のやりとりも相変わらずで、かみ合っていないようにも見える。だが、二人の間にあった微妙な温度差は綺麗になくなっていた。打ち解けたからこそ、素直に交わされる言葉。その中に入り混じるのは、僅かだが心を許し合い、これからそれを深めてゆこうという小さな意思。ポラーレは、同年代の少女に並んで喋る娘に新鮮な感覚を感じていた。
 そう、グルージャもまた年頃の少女、もうそんなに大きくなってしまったのだ。
「グルージャももう、そんな歳なんだね」
「おいおい、老け込むなよ相棒? ……幾つくらいなんだよ、実際のところ」
「正確にはわからない。僕と出会った頃は、こんなに小さかったのに」
 膝の辺りに手を伸べて、そこを見下ろすポラーレの眉が僅かに下る。この男もまた、些細な表情の変化を拾える者は少ない。だが、妙に老成して懐かしむそのまなざしに、隣のサジタリオが肘でつついてくる。
「グルージャちゃんはラミューより二つか三つ下、くらいでしょうか。パッセロさんと健康診断しましたから」
「そ、そうなのかい? クアン君。ああ、そういえば……グルージャに病気とかはなかっただろうか」
 ぼそぼそと喋るポラーレの声が、急に早口になって背後を振り向く。
 パーティの最後尾を歩くクアンは、真面目な医者の顔を作って応えてくれた。
「健康体そのものです。少し痩せ気味なのが気になりますが、栄養失調ではありませんし」
「うん、それは僕も気にして……でも、そのことを言うと怒るんだ。すねてしまうというか」
 クアンはサジタリオと顔を見合わせ、プッと吹き出すや大きな声で笑った。その声が湿った空気の中へと溶け消えて、前を歩く少女達の影を振り向かせる。それでもサジタリオは声を上げて腹を抱え、クアンも肩を震わせ顔をそむけてしまう。
「傑作だぜ相棒、お嬢ちゃんだってもう年頃なんだろ? そらあまずいぜ」
「流石の僕でもわかります、ポラーレさん。思春期の女の子に、あいたっ! サジタリオさん、痛いですよ」
「おめーが言うなっ、この三馬鹿朴念仁(ぼくねんじんトリオ)の一角が。わかりますだなんてな、十年はええよ」
 クアンの額を指で弾いて、サジタリオが言葉を続ける。
 ――三馬鹿朴念仁。
 それは、今やタルシスの双璧となったヴィアラッテアとトライマーチで、街中の女性が噂する殿方達の敬愛を込めたあだ名だ。一人はヴィアラッテアの若きギルドマスター、ポラーレ。うぶで純真純情な一面があって、商売女達は皆この少年のような若者に夢中だ。本人が興味を全く示さないのが、それに拍車をかけている。そしてもう一人が、街中の乙女を虜にする暁の騎士レオーネ。彼はしかし、プライベートが全く知れず、そのミステリアスな私生活に関心が集まっている。そしてもう一人、お姉さま方に大人気なのがクアンという訳だ。
 三者は三様に、女心に疎く世間から少しずれてるところが人気なのでこう呼ばれるのだった。
 初耳だったが、ポラーレとしてはぐうのねも出ない。反論の余地もないし、する気にもなれない。
「女心、かあ。クアン君、どうだい?」
「正直、お手上げですね。専門外なので」
 しかし心当たりがあるのか、霧の先へと見えなくなった妹を見やるクアンの目元が複雑な優しさに細められる。その視線に視線を重ねて、ポラーレもぽつりとこぼした。
「そうだね、ラミュー君がよく教えてくれるけど、正直よくわからない」
「ふふ、いつも仲良くしてもらって……多分、ポラーレさんに懐いてるのは、憧れと、あと」
 クアンの言葉のその先は飲み込まれたが、流石のポラーレでも気付いていた。あの娘は、父と同じ一流の冒険者である自分に憧憬にも似た念を注いでくるのだ。ポラーレも気付けば、後輩ができたみたいでつい構ってしまい、よくお茶を一緒に飲んだり、晩酌に付きあわせたりしてしまう。そのことでクアンは、改めて礼を言ってくるのだった。
 だが、そのことでサジタリオは鼻を鳴らしてやれやれと肩をすくめた。
「そうそう、ラミューちゃんとお前なあ。なぁにいつも、酒場で青臭ぇ話してんだよ」
「失敬だなあ。僕だって冒険者としてやってけるか不安なんだよ。……これでも、不安なんだ」
「誰だってそうなんだよ、それを十代のガキ同士みてえに。ま、ラミューちゃんは事実そうだがよ」
 それにしても、とサジタリオの手つきがわきわきと怪しげに指をぞわつかせる。彼は「ラミューちゃんのあの躰は、まだまだ十代の娘っ子とは思えぬ」まで言って、クアンの咳払いに言葉を引っ込めた。
 そうして大人達が探索の合間に和んでいた、その時だった。
「ラミュー。今、悲鳴が……こっち!」
「先走るのは俺の仕事だろっ、グルージャ! ガキの、それも女の子の声だ」
 少し前のぼんやりとした霧影(シルエット)が、駆け出した次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そして、彼女達と同時に察知していたポラーレもまた、二人の仲間達と走りだ出す。
 彼等の耳が拾ったのは、霧の奥でくぐもり響いた少女の悲鳴。
「まさに"絹を裂くような"って奴だぜ……ぜってえに聞きたくない声だな! こういう悲鳴はよ!」
「ラミュー、また突出して。ポラーレさん、サジタリオさんも! こっちです!」
 視界は狭く、白く煙ってポラーレ達の行く手を阻む。人喰い毒蛾が虎視眈々と見下ろす中で、三人は仲間を追って小さな広間へと飛び出した。そこで見たのは、目を疑うような光景だった。
「旦那っ、クアンも! こいつらやべぇ、攻撃が当たらねえんだ。……オバケじゃねえよな」
「ラミュー、そゆの駄目なんだ。ふぅん、意外。ふふ、それどころじゃないのに、変なの、あたし」
 ラミューとグルージャは、小さな一人の女の子をかばいながら臨戦態勢だ。そして、二人を幾重にも囲んで虚ろな敵意が連なり並んでいた。その姿に、流石のポラーレも絶句する。


 それは、周囲の霧より尚もあやふやな幻想体。透けて見える向こうに霧露(うたかた)の森を映して、ゆらゆらと幽鬼のように揺れる影。そう、影の悪意が武器を手にグルージャ達を取り囲んでいるのだ。
「二人を、二人が守る子を助ける。行くよ、サジタリオ、クアン君……クアン君?」
 両手に飛び出す剣を握ったポラーレはしかし、白衣の青年の様子がおかしいことに気付く。
 クアンは両手で耳を塞いでその場に屈みこんでしまった。
「悪ぃ、旦那! クアンの奴、昔から駄目なんだよ。こーゆーの。オレじゃなくてクアンな、グルージャ」
「……意外を通り越して予想外、そなんだ」
 口を動かしつつも、ラミューの剣が影を牽制して振るわれる。敵意に応じてグルージャも印を結んだ手から火球を迸らせた。だが、どれも虚しく虚空をすり抜けてしまう。ポラーレも一当(ひとあて)してみたが、痛撃の手応えを掴むことができなかった。ラミューやポラーレのスピードですら、ゆらゆらと揺らいで(うごめ)く影を捉えることができない。否、影を斬ることなど最初からできないのか?
 その時、ラミューの背に守られた小さな少女が声をあげた。
「あっ、ウーファン!」
 その名に心当たりがあって、しかしポラーレの中に真っ先に浮かぶ面影は白。その美しい記憶と一緒だった、あの女が長杖を手に飛び出してきた。その顔は逼迫(ひっぱく)に凍りついて、半ばラミューやグルージャを突き飛ばすようにして女の子へと駆け寄る。
「巫女様、ご無事ですか! ちぃ、こんな場所にももうホロウが……人間よ、すまぬが助力を!」
 ウーファンと呼ばれた女性は、その細過ぎる腕に握った長杖を空へとかざす。同時に針金のような両足が掴む大地が、ぼんやり光って不思議な術式を広げだした。光で描かれた方陣が浮かび上がるや、瞬く間に周囲の影へと広がってゆく。
 光の方陣に包まれた影は皆、その不規則な動きを絡めとられて脚を止めた。
「おいおい、なんて術だよ。いっぺんにこの数の脚を封じやがった。っしゃ、行くぜ相棒っ!」
「あ、ああ、うん。……あの人もこの術を使うんだろうか。はっ!? ぼ、僕は何を……」
 頭の中から今、最も美しいと感じた姿を追い払う。そうしていつもの戦闘マシーンへと切り替わったポラーレは、自分の振るう左右一対の刃が、いつも以上に冴え渡るのを感じた。あっという間に、ホロウと呼ばれた虚影を切り裂き斬り伏せる。
 耳障りな断末魔を輪唱させて、影は消え去った。
 戦闘が終わり、ラミューが慌ててクアンへと駆け寄る。どうにか調子を取り戻して立ち上がる青年の顔は、血の気が失せて真っ白だった。まだその華奢な身は震えている。
「助かった、礼を言うぞ人間。……だが、敢えて言おう。どうして来てしまったのだ」
 ポラーレも後から聞いていた話だが、彼女達第二大地の亜人達は忠告を残した。この場所に来てはならない、世界樹を目指してはならないと。あの瘴気の森で、治療を終えた少女達へと言伝(ことづて)したのだ。静かな拒絶の意思と共に。その理由が過去にあることと、その過去そのものを語らずに。
 だが、グルージャとラミューの間で意外な声があがった。
「駄目だよ、ウーファン。そんなの、いつもの優しいウーファンじゃない。失礼だよっ」
 助けだされた少女は、右手でグルージャの手を、左手でラミューの手を握って、左右を見上げてニコリと笑う。
 それは、白い亜人のウーファンとは違って、れっきとした人間……グルージャと同じ人間の女の子だった。

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