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 たちこめる濃霧は、森の奥へと進むほどにポラーレ達を湿り気で締め付ける。そんな中でも、亜人の術師に守られた少女は、グルージャとラミューの手を引き迷いなく歩いた。その背を追って歩くポラーレは、時折鋭い視線を送ってくる術師の女性に戸惑いながら俯く。疎まれ蔑まれるのには慣れているが、平気でいられない自分を弱くなったと心の中で彼は笑った。
 そうして一同は、北へと南進して東西に真っ直ぐ歩き、左への右折を繰り返す。
 サジタリオがそっと耳打ちしてきたのは、そんな時だった。
「よう相棒……気付いてるんだろ? この森は少しおかしいぜ。俺の方向感覚が戸惑いやがる」
「結界、って言うのかな。特殊な力場が折り重なって、事象が歪曲してるみたいだ」
 サジタリオは闇から闇へと影を狩る、生粋の狩人(イェーガー)だ。そしてポラーレは、彼のような人間達を数えきれず屠ってきた闇そのもの。そんな二人が、たかだか霧の森で道に迷うなどありえない。だが現に、単独では来た道を認識できないほどに彼等の感覚は麻痺していた。周囲を包む霧そのものが、幻惑の効果を封じた術式の産物……先日の瘴気の森同様、もしかしたら眼前の術師達が施した結界なのかもしれない。
「そっか、グルージャとラミューかぁ。ふふ、素敵なお名前。わたしはね、えっと――」
「巫女、みだりに外界の人間に名乗ってはなりません」
「そ、そうなの? うぅ、ウーファンが言うなら……ごめんね、グルージャ。ごめん、ラミュー」
 少し残念そうに、少女はグルージャとラミューの腕を抱き込み身を寄せる。すっかり懐かれたようだが、どうして彼女が巫女と呼ばれているのだろうか? そして、どうしてこんな亜人の住む森に一人、人間の彼女がいるのだろう? その謎へと探りを入れるようにポラーレが思案を巡らしていると、突然視界がパッと開かれた。
「着いたぞ、人間。ここが我等ウロビトの里……巫女の恩人たるお前達を歓迎しよう」
 年頃の少女らしくはしゃぐ巫女の横で、ウーファンと呼ばれる術師の女は振り返った。
 ポラーレ達の前に今、生い茂る木々の合間に幻想的な集落が広がっていた。ところどころに立つ朱塗りの柱は、見事な装飾で儀礼的な縄が巻かれており、あちこちにタルシスとは全く違う文化圏の様式が見て取れる。ヨルンが見れば喜んだだろうなと思いつつ、その好奇心が理解できるほどにポラーレも感嘆していた。
 文化的な興奮と感動を感じるなんて、自分でも己がなんだかおかしい。
 だが同時に、どこまで自分らしい残酷な能力が殺気を拾っていた。
「ウロビト、それがお前達亜人の総称って訳かよ。で? そのウロビト様の歓迎がこれかい?」
 皮肉たっぷりに唇を歪めるサジタリオの声が、ポラーレと同じ認識で殺意を拾っている。見れば、集落の家々へと女子供は駆け込み去って、代わって男達が弓に矢を番えてこちらへと鏃を向けていた。どう見ても歓迎という雰囲気ではないが、軽挙妄動を控えてくれるサジタリオには流石の思慮深さが、なにより警戒心としたたかさがあった。彼は武器を手にすることはなく、しかしいつでも臨戦態勢をとれる構えで周囲を見渡す。
 ポラーレも気配を硬くして目の前のグルージャ達を近くに呼び戻そうとした、その時だった。
「みんな、武器を収めて欲しい。この人間達は以前、ウーファン様とわたしが助けた者達だ」
 居並ぶウロビト達の中から、一人の女性が歩み出た。その装束はウーファンと同じ術師のもので、すらりと細身のスレンダーな長身はポラーレ達よりも幾分か目線が高い。まるで異教の女神のような美貌は、それ自体が白亜に輝く神像のようだった。端正な細面(ほそおもて)で彼女は、そっと手を伸べ男達の弓を下げさせる。
「巫女の御前で(いさか)いは避けるべきだ。それに、一度救った命へ刃を向けるは、我等ウロビトのなすことではない」
 毅然とした物言いに、男達は顔を見合わせ口々に不満を呟きながら武器をおろした。
 それでポラーレも、隣で彼にしか伝わらぬ警戒心と闘争心を燻らしていたサジタリオの気配が軟化するのを感じる。
「あっ、お姉さんは……ラミュー、この人にも御礼をしなきゃ」
「ああ、瘴気の森では世話になったな! ええと」
「わたしの名はファレーナ。礼ならばウーファン様に、そして巫女に言いなさい」
 ぺこりと頭を下げるグルージャの前で、頭をかきつつそれに倣うラミューの前で、その麗人は涼しげに微笑んだ。微笑んだんだと思う、僅かに唇が柔らかさを見せたから。それを見てポラーレは、やはり綺麗だと思った。まるでそう、闇夜に溶け込み凍える夜気に同化して見上げる、真冬の月のようだ。
 自分も以前の礼を言わねばと思ったが、ファレーナと名乗った女性は巫女に(うやうや)しく頭を垂れ、ウーファンとニ、三の言葉を交わすと行ってしまった。その嫌に細くて華奢な背は、おっかなびっくり見守っていたウロビトの子供達に囲まれて集落の奥へと消えてゆく。
 ぼーっとその姿を見送っていたポラーレは、肘でサジタリオに突かれ我に返った。
「どうした、おい。あれか? お前やっぱ色気づいてんのか?」
「まさか。ただ、僕は驚いているんだ。こんな僕でも、美しいものが揺さぶるだけの感情を持ってるみたいで」
「あほくさ……普通のことだろ? やめろよな、そうやって毎度バケモノぶるのはよ」
 まあいいさ、とそれでもサジタリオは笑って肩を竦める。
 そうこうしていると、ウーファンはパンパンと手を叩いて周囲に集まり始めたウロビトのますらお達に呼びかける。どうやら彼女は、このウロビトの里では相応の地位にいるらしい。多くの村人から尊敬の眼差しを集めるウーファンは、手早く男達に宴の準備を命じて解散させた。
 その間もずっと、巫女は嬉しそうにグルージャとラミューの回りをぐるぐると回りながら微笑み話しかけている。
「ねえグルージャ、ラミューも。今夜は泊まっていきなよ。外のお話、沢山聞かせて?」
「ええと、それは……」
「ヘイヘイ、お嬢ちゃん。ちょっと待ちなって、こっちにも事情が」
「ねえウーファン! お客様だもの、もうすぐ日も暮れるし。いいでしょ!」
 少し困ったような笑顔で、ウーファンは頷きを巫女に返した。
 それで巫女は、満面の笑みを咲かせてグルージャとラミューの手を取る。三人は転がるように村の奥へと駆け出した。巫女が二人の少女を引っ張りながら、はしゃいだ声を黄色く響かせ遠ざかる。それを追うウーファンの視線が、戸惑いに彩られながらも優しさを秘めているのがポラーレにもわかった。


 それはひょっとしたら、似たもの同士が同じ匂いを感じていたのかもしれない。
 同じ人の子、人間の少女を守り育てるモノ同士……人間ならざる存在でありながら、時に人間以上に保護者としての自分を望まずにはいられない生き方。もっとも、ポラーレは生きてすらいない錬金工学の人外(クリーチャー)だが。生きているというのは定義にもよるが、その議論を尽くせば尽くすほどに自分の分類は人間から遠ざかるような気がして、ポラーレは溜息をこぼした。
「さて人間達よ……どうして再びこの地に来てしまったのだ」
 ウーファンは他にも、ようやく家々から出てきた女達に手早く指示を飛ばす傍ら、ちらりと鋭い視線をポラーレ達に向けてくる。
 その声に応えたのはクアンだった。
「僕達に害意はありません。ただ、タルシスの辺境伯の依頼で世界樹を目指しているのです。その手がかりを――」
「……今、世界樹と言ったか? 人間よ、どの口が聖なる神木の名を軽々しく!」
 クアンに非礼はなかったように思えたが、突如としてウーファンの表情が険しくなる。その周囲でウロビトの女性達もひそひそと声を影に落としては囁き合った。
「本当に忘れてしまったようだな、人間達よ。かつて我等ウロビトと人間の間に何があったか」
「無知をお許し願えないでしょうか、ウーファン様。僕達のタルシスは今、低迷と停滞に(さいな)まれています。その打開のためにも、どうしても新たなフロンティアが必要だと辺境伯はお考えになったんです。だから」
 思えば、あの食えない辺境伯の目的をはっきりと聞いたのは初めてのような気がする。そしてそれが、表向きに掲げられた御旗(みはた)、お題目かもしれないということも。だが、それを隣のサジタリオと確認しつつ、ポラーレは口を挟まない。クアンという純真で誠実な青年は、故郷の領主を信じているようだったから。
「ふん、ならば教えてやろう……かつてあの世界樹で何があったかを」
 ウーファンが忌々しげに鼻を鳴らして、木々の枝葉が支える空を見上げる。あの濃霧が嘘のように晴れた里の空には、夕焼けに燃える遠景の世界樹がかすかに見えた。やはりあの霧は呪術的な術式で作られたもので、それに守られた里の中には及ばないようだ。ポラーレも改めて世界樹を眺め、その壮大さに吸い込まれる。
 おかしい、こんなにも自分は情緒的(センチメンタル)な人間だっただろうか?
 亜人の異性を美しいと思い、世界樹のある風景に感動して、共に女の子を育て守る者に共感する。
 おかしなものだと冷静でいられる分、まだ僕は生きた機械なんだとポラーレは自分に言い聞かせた。
「遥か太古の昔、世界樹の(ふもと)に人間は我々ウロビト達を生み出し、共に栄えた。忘却の彼方へ消えた安息の日々だ」
「……! そんな記録は、タルシスには少しも」
 驚愕の事実にクアンは驚いたが、ポラーレは動じる素振りを隠し通せた。勿論驚いたし興味も湧いたが、それを表現する必要を感じなかったのだ。それに、平然としている方がクアンのフォローに回れるような気もしたから。
「記録は失せて久しく、記憶のみが血を通して世代を渡ってきたのだ。それがまだ、この里には息づいている」
「では、僕達人間と貴女達ウロビトは」
「共に力を合わせ、世界樹の加護の下で幸せに暮らしていた。……裏切りの瞬間が訪れるまでは!」
「うっ、裏切り!? それは」
 インテリほど不測の事態に弱く、その代名詞たるクアンはまだまだ場数の足りない坊やだった。まだラミューの方が冒険者としてキモが座ってたかもしれない。だが、まだ世界の綺麗さと豊かさしか知らぬ青年は、研ぎ澄まされた憎悪を向けられ狼狽していた。
「災厄の巨人が世界樹を襲ったのだ……その時、我等ウロビトは他の亜人と共に戦った! だが!」
「災厄の巨人……それは。待ってください、それじゃあ当時の人間達は」
「人間は……逃げ出したのだ! 我々ウロビトが同胞と巨人に立ち向かった、あの日に!」
 ――それを人は、伝承の巨人と呼んで恐れたという。
 そして、その大災厄以降、全ての命は世界樹の麓を追われたのだ。
 驚愕の事実を前に、顔の色を失ってしまうクアン。その白衣の背を眼差しでささえつつ、ポラーレが助け舟を出す。
「では、先程の巫女は……あの娘はどうしてこの場所に? 彼女はいったい」
 その問に応えようとして、ウーファンが一度は開いた口を(つぐ)む。それは、使いの者が宴の準備ができたことを告げに来るのと同時だった。
「……話はまた後でだ。まずはもてなしの宴、受けてもらう。巫女を助けてくれた恩義、忘れはしない」
 堅い言葉に謝辞を秘めて、ウーファンは付いて来るよう言うなり黙って歩き出してしまった。お招きにあずかりながらも、ポラーレの中に広がる不安……伝承の巨人。それはまだ、暗く冷たいイメージでしかなく、漠然と心胆を寒からしめた。

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