その夜、ウロビト達の里を異変が襲っているとも知らず、グルージャ達は小迷宮の探索にでかけていた。薄闇の中に静かに今、巨大な
「いいか、お嬢ちゃん達……あまり物音を立てるなよ? こいつら、音に反応しやがるからな」
サジタリオの言葉に強く頷く、グルージャの手に分厚い本が握られている。立派な皮表紙で、ページの内容はまだ大半が
今日もまたその真っ白なページが埋まるのか、それとも己の血で染まるのか……それはグルージャ自身にもわからない。
「ヘイ、グルージャ……見たか? やっぱ間近で見るとデケェ蝶だな」
「
「わーってるよ、でもよ……蝶と蛾はどう違うんだ? なあ、おい。なにが違うんだよ」
隣に赤頭巾の友人を見上げて、クスリとグルージャは笑った。ラミューは難しい顔で腕組み首を傾げている。木の葉を踏む音さえ気をつける中での囁き合うひととき。グルージャは手持ちの図鑑を開きながらページをめくった。
「蝶は昼に飛び、蛾は夜に飛ぶらしいわ。迷宮では例外もあるって書いてるけど」
「だよな。
「……じゃあ、これは? 休めた羽を閉じてるのが蝶、開いてるのが蛾だって」
「それだ! なんだよもぉ、簡単じゃねえか! やっぱグルージャ、お前は……かし、こ、い……う、あ、お」
パシン! とグルージャの背を叩いたラミューが、頭の
「な、なあグルージャ。あれは……羽が閉じてるぜ。蝶か?」
「閉じたり開いたり、
「……オレか? なあ、オレだよな。ゴ、ゴメンッ!」
「来る、サジタリオさん! 後衛のお二人にも――」
慌てて鞄に図鑑をしまいつつ、グルージャは印術を行使するべく身構える。抜剣したラミューは、そんな彼女へ覆いかぶさるようにして押し倒してきた。今までグルージャが立っていた場所を、不吉な羽音と共に巨大な人喰い蛾が横断してゆく。ビッグモスは麻痺毒を含む
さらにその背後、霧の奥から無数の羽音が近付いて来る。
「おっと、お嬢ちゃん達。やっちまったなあ。ま、図鑑に記すならどのみち一匹はやらにゃならんしな」
不快な羽の不協和音を、空気を裂くような弦の響きが突き破る。僅か一度だけ空気を震わせるその調べは、無数の矢を瞬く間に目の前の敵へと撃ち込んだ。目にも留まらぬ早業、早撃ちの妙技にサジタリオが躍り出る。彼は脚を使って敵意を引きつけつつ、巧みに狙い
その手に握られたコンパクトなコンポジットボウが、奏でられる度に鉄の
「後ろもおっつけくるだろうよ。ラミューちゃん、グルージャちゃんも。無理せず援護頼まぁ!」
「お、おうっ! グルージャ、例の連携を試すぜ……ちゃんと合わせろよっ」
「任せて、ラミュー。あなた次第で上手くやってみせるわ」
かわいくねえな、と笑ったラミューの剣が火花を帯びる。それはやがて刀身を覆って
「っしゃあ、お見舞い、するぜっ!」
地を蹴るラミューの刺突が、灼熱の刃となって手負いの毒蛾を貫く。彼女はそのまま、全力で振り抜いた剣の火柱だけを敵へと残して払い抜けた。リンクフレイムのその業火へ目掛けて、グルージャは肺腑へ息を留めて必殺の印術を解き放った! 燃えて盛る火と火がぶつかり、炎となってビックモスを小さな太陽へと変える。耳障りな断末魔を残して、その毒々しい羽は燃え尽きた。
「おっし、見たかグルージャ! な、どうよハッハッハー!」
「ええ。……炎に弱いみたいね。あとで図鑑に記しておかなくちゃ」
「……そういうのはいいんだよ。息ピッタリだったじゃねえか、オレら。なあ?」
「そうふうにも見えたわね。いいんじゃな? 極めて限定的な状況下での有効打ってことで」
ラミューは口を尖らせ「かわいくねえ!」とブーたれたが、内心グルージャは会心の一撃に小さな確信を得ていた。それが今、昔の自分と今の自分を
――仲間がいるって、こんなにも頼もしい。
だが、それを口に出すのが
「上出来だぜ、レディ達。だがよ、ちょーっとまずいぜ? 数が増えてきやがった」
二人を褒めつつもサジタリオは
気合を入れ直すラミューの隣で、もう一度グルージャも大きく息を吸い込んだその時。轟! と濃霧を切り裂き貫いて、
何が起こったのか一瞬わからないのは、敵もグルージャも同じだったが、
「みんな、怪我はないか? すまない、姉者が採取と伐採に手間取ってな。遅れは取り戻させてもらう」
凛とした声が響いて、グルージャ達を庇うように一人の女性が片手で制して前に立つ。その腕は
サジタリオが口笛を吹く中、なずなは軽々と鉄弓を構えて鋼線の弦に矢を番える。
義手の肘から空薬莢が飛び出すや、機械仕掛の剛力が容易く
「記録は済んだな? ならば、あとは撃ち散らすのみ!」
ビュン、と風が唸る。空気が渦を巻く。慌てて帽子を抑えたグルージャは、隣で頭巾へ手をやるラミューと頭を低く目を瞑った。放たれた一撃は狙い違わず、今度は二匹のビックモスを同時に貫き霧散させる。余りの威力に、死体すら残らない。
「なんて強弓、剛射だ。やるねえ、なずなちゃん! よくもそんな弓が引き絞れるものだ」
「この腕、すでに我が身も同じですゆえ。……サジタリオ殿、貴殿の助力あればこそ」
「へへ、気付かれてたかい?」
「貴殿の矢が一箇所に敵を集めてくれている。その正確な狙いが私に射線を」
無表情の仏頂面で、なずなの声は抑揚なく静かに響く。その間も視線を逸らさず、彼女は砲弾のような矢を射続けた。全てを貫き粉砕するその矢が剛ならば、針のように無数にばらまかれる正確なサジタリオの射撃は柔の矢だ。ビックモスは一箇所に意図的に集められた挙句、まとめて数匹ずつ減ってゆく。
淡々と弓矢を楽器のように奏でるなずなとサジタリオを、気付けばグルージャは魅入っていた。
「すげえな、なずなの姐御! 剛力無双たぁこのことだぜ……なあ、グルージャ」
「うん。それに、サジタリオさんがなずなさんの主旋律を拾って。弓が、歌ってる」
見とれてもいられず、自分達も手伝いをと思った瞬間。後ろでのほほんと呑気な声が響いた。
「
遅れて来たしきみをチラリと振り向いて、珍しくなずなが溜息を零すのをグルージャは見た。なるほど呆れてしまう、防具を着込んだなずなと違って、しきみは胸元をはだけた着流し姿だ。ともすれば寝巻き姿にすら見えるしどけなさで、自分がこんな格好をしていた心配性の父からお小言が飛んでくるだろう。
しきみは先ほど伐採してきたのだろうか、湾曲した樹の枝を握っており、それに小刀を当てている。
「サジタリオの弓はそれ、南蛮か西洋の弓じゃなあ。よくしなりよる……いいのう、欲しいのう!」
「おいおい、まってくれよしきみ。こいつぁ俺の商売道具だぜ? 昨日の夜、触らせてやっただろう」
「うむ、まっこと合理にかなったいい弓じゃあ。ワシはどれ……こんなもんでいいじゃろか」
呆れたことに、しきみは冒険に手ぶらで来て、伐採したばかりの枝に弦を張り出した。ぱさりと総髪に結っていた漆黒がほどけて、縛っていた紐を弓なりの枝へと結わえてゆく。グルージャの視線に気付いたしきみは、にんまりと子供のような笑みを浮かべた。
「武家の女は
「ぶ、物騒だな、しきみの姐御」
「でも、髪が……あ、あの、これ」
慌ててグルージャがポーチから取り出したリボンを、ニコリと笑ってしきみは受け取った。そうして再度髪を結んだ彼女は、今しがた作った弓を手に、弦の張りを確かめて前衛へと躍り出る。そのゆったりとした動作には気概も気負いもなく、力みがまったく感じられない。残った毒蛾達すら、新たに増えた恐るべき
「ちょいと拝借」
「お、おい、しきみ。ったく、本当に
なんとしきみは、サジタリオの矢筒から矢を拝借すると、それをなんとはなしに射掛けて……狙いを定めた様子も見せず解き放つ。案の定、即興で作った弓が妙な音を発して、矢はビッグモスを掠めもせずに遠くへ消えた。
「……姉者」
「あっはっは! こりゃいかん、もちっと真面目に作ればよかったかのう!」
だが、なずなとサジタリオがあらかた敵意を散らして片付けると、残った羽音は本能で危険を察知し飛び去った。
それは、霧の向こうから荷物を背負った人影が現れるのと同時だった。
「やあ、また会ったね。助かったよ。サジタリオ、だったかな? 君の矢のお陰で俺も命拾いさ」
ぼんやりとした口調で喋るのは、同じタルシスの冒険者。名前は確か、
「ワールウィンド、だっけか? いや、その矢は――ははぁん、なるほどねえ」
「君じゃないのかい? 人喰い蛾から逃げていたら、これが飛んできてね」
「よく俺の矢だってわかったな? ここには射手が三人いるが……よく見てるじゃねえか」
タルシスにスナイパーは腐るほどいるが、一人一人の矢は弓に合わせて一本一本異なる。値段も素材もばらばらだし、先ほどそれを射掛けたのはしきみだ。しかし、手にした矢をワールウィンドはサジタリオの物だと断言した。妙な違和感をグルージャも感じて、サジタリオの表情が真剣味を帯びるのを察した。
それを敏感に察知したのか、ワールウィンドウは言葉を続ける。
「ところで、こんな所で油を売っててもいいのかい? ウロビトの里に行ったとばかり」
「ああ、相棒がヨルンの旦那達と向かったぜ? 辺境伯の親書を持ってな」
「そのウロビトの里が今、大変なことになってるみたいだったけど……聞いてはいないのかな」
ウロビトの里が、ホロウと呼ばれる虚無に襲われた。
その事実を聞いた瞬間、グルージャは血の気が引く音を聞いたような気がした。父は仲間と、ウロビトの里に行っている。ヨルンやパッセロも心配だったし、レオーネとメテオーラのことも気がかりだ。
その時、どうしてわざわざそのことを伝えてくるのか……ワールウィンドに疑問を抱く余裕がグルージャには持てない。
それは、サジタリオとしきみ以外、皆が皆驚き焦るあまり同じだった。