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 辺境伯からの親書を携え、ポラーレは霧に煙る中でウロビトの里を目指す。だが、歓迎が期待できないと知っててさえ、出迎えてくれた混乱には驚いた。
 以前、巫女を襲っていた影が大挙して里を襲っていた。
 逃げ惑うウロビト達の嘆きが悲鳴を呼んで、まさしく阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図とはこのことだ。
「パッセロ君、怪我人を頼むよ。……この虚無には、明確な意思を感じる。それは、殺意と敵意」
 ヒュン、と手の中に生まれた剣が風を切る。その刃を(ひるがえ)してポラーレが風になる。
 目の前では今、赤子を抱いて逃げる婦人に襲いかからんとする黒い影。確かウロビト達はホロウと呼んでいた。その正体は不明だが、ウロビト達に危害を加えるのであれば躊躇わない。事情は知らないが、これから交渉を持って友好的関係を築こうとタルシスは思っているのだ。ならば、代表者にして全件代理人たる冒険者の取る道は一つだ。
 以前なら恐らく、恩を売るという打算的な考えが脳裏に閃いていただろう。
 だが、ポラーレがそれを思い出して改めて考えるよりも前に、胸の奥に従う剣が光を連れて走る。
「ああ、避けられた。けど、まだ」
 一撃を振り下ろした瞬間、手応えのなさにポラーレはぼそりと呟く。。
 ホロウは輪郭を滲ませながら、まるで(かすみ)のようにゆらりと斬撃を避ける。それは予想外と言うには少し足りない。闇から闇へと影(アウトサイダー)の中を生きるポラーレには、人外の術ですら驚くに値しない。
 だから、再び虚像を結んで人の姿を象るホロウの、その実体化する場所にもう片方の剣を()()()()()()
 そう、ポラーレは避けられたと感じる前に避けられると察知し、左の手にも剣を呼んでいたのだ。
 耳をつんざく悲鳴と共に、ホロウが切り裂かれて空気に溶け消える。直後、背後で稲妻が敵意を掻き消した。
「位相をずらして短距離転移するようだな。俺の印術も避けられた」
「ヨルン。そっちは?」
「あらかた片付けたが、里全体の混乱が酷いな。パッセロにはエミットが付いていったが」
 仲間の医者が消えた路地を見やって、氷雷(オーロラ)錬金術師(アルケミスト)は油断なく術式を複数同時に演算して待機させる。冷気と電光をおぼろげに纏って、その姿はポラーレには周囲のホロウ以上に恐ろしくも見える。同時に、そんな彼が背を守ってくれる安心感が頼もしい。
 だが、安堵を更なる悲鳴が引き裂いた。
「……子供の声が」
「ヨルン、あそこだっ! ……間に合う、か?」
 周囲のホロウに対応するヨルンを置いてポラーレは馳せる。その速度に輪郭がぼやけて、身を覆う黒衣とマントが空気の抵抗を受けて変形していった。たちまちトップスピードに達した彼の目に、へたりこむ女児が飛び込んでくる。
 その姿が幼いころのグルージャに重なった瞬間、彼の肉体は限界値を更新して尚も加速した。
 だが、漆黒の疾風(かぜ)と化したポラーレを、甲冑の重さも感じさせない機動が追い越してゆく。
「くっ、あれを使うしか……否! 今の私にその資格など!」
 まるで弾丸のように真っ直ぐに、マントを棚引かせて走るのはレオーネだ。直線勝負とはいえ、重装備に巨大な盾を構えているのに、そのスピードはポラーレをも凌駕する。人の姿と形にまだ因われてるとはいえ、あのポラーレを、である。
 そのレオーネだが、盾の中へ何かを探すように手を伸べつつも、迷うように腰のハンマーを手に取った。
 振りかぶる一撃でホロウを追い散らして、レオーネは大地をえぐるターンで女の子の前に立ちはだかる。
「レオーネ君、奴等は回避に長けてる。なら、ここは」
「連携攻撃と参りましょう、ポラーレ殿!」
 叫ぶなりレオーネは、大振りな一撃で周囲のホロウを誘導する。そのゆらゆらと揺れる影が霧散して再び集う場所へと向けて、ポラーレは身をバネに地を蹴った。霧に浮かぶ朧月(イルムーン)の光を遮り、黒いマントをなびかせて。両手に翼と掲げた雌雄一対の剣を翻し、逆落しにポラーレは全てを引き裂いた。
 断末魔の絶叫が断続的に叫ばれ、その不協和音が去ると静寂が周囲を支配する。
 泣くことさえ忘れて絶望していた子供が、抱き上げたレオーネの腕の中で火が付いたように泣き出した。
「流石です、ポラーレ殿」
「いや、隙を作ってくれなかったら危なかったよ。こういう時にサジタリオがいてくれたら」
 そう、こうした厄介な敵に対する術を冒険者達は持ち合わせている。スナイパーがいてくれれば、その正確無比な狙撃(スナイプ)で相手の機動力を削いで封じることができるのだ。そればかりか、頭部を狙い撃てば術式等を事前に防げるし、腕部への一撃は強烈なパワーを沈黙させることもできる。
 だが、こういう時に限ってスナイパーは全員小迷宮へと出払っているのだった。
「っと、無駄話をしている時ではないね。レオーネ君、その子を連れて逃げるんだ」
「しかしポラーレ殿! お一人では」
「ヨルンが追い付いてくるよ。追い付いてくれるさ。だから、ね」


 そう言ってポラーレは、レオーネにしがみつく子供にどうにか微笑みかけようとしてみる。安心させたかったのだが、どうにも顔面が不器用に過ぎて、泣いていた子供は今度は震え出した。どうやら、寒々しいまでに鋭い表情を向けてしまったらしい。
 そういえばグルージャによく言われたなと、零す苦笑だけがどんどん人間らしくなっていくポラーレだった。
 グルージャは父の作った笑顔を「少し、怖い」と言ったが、逃げたり泣いたりしない娘だった。
「さて、訳は知らないけど……ここは平和な里だったんだ。それは、とても大事な、大切なことなんだよ」
 足早に離脱してゆくレオーネを見送り、その退路を守るようにポラーレが二刀を構える。
 ゆらりとまるで陽炎(かげろう)のように、次から次へとホロウは浮かびくる。
 数で押されれば苦しいとわかっててさえ、不退転の決意でポラーレは身構えた。戦況の有利不利には敏感で、その片方である場合は逃げることに躊躇(ちゅうちょ)がなかった昔の自分。だが、ポラーレには今、不利でも戦わなければいけない事例があると感じていた。それは今この瞬間で、戦わなければいけないというのは語弊がある。
 弱々しい月の光に気付けば笑っていたので、ポラーレは気付いた。
 ――戦いたいのだ、自分は。
「とは言え、掴まえるのに骨が折れる。交渉を前にこういう姿は……出したく、なかったんだ、けど」
 人の姿をやめて劇的な決定力を得ようとしたその時。
 足元から光がホロウ達へと広がっていった。水面に波紋が伝搬してゆくように、輝く方陣が虚栄の幻像を包み込む。ホロウ達がそれに気付いて取り乱した時にはもう、一匹残らずその回避力を奪われていた。
 以前も見たが、ウロビト達が使う不思議な術で、スナイパー同様に敵の戦闘力を大きく制限する。
 しかも、スナイパーの狙撃と違って、一度に複数の目標を一網打尽だ。
「今だ、タルシスの冒険者よ。私の力でさえ、これだけの数を封じて縛るには限界がある……急げ!」
「っ! 君は……それよりも、今は先にっ!」
 身動きが取れずにいるホロウを(ほふ)るのは、ポラーレにとっては容易かった。一匹、また一匹と叫びながら空気の中へと散り消える。最後の一匹を切り捨てると同時に、地面に広がる巨大な方陣もその輝きを収束させていった。
 そして振り向けば、美貌の麗人がズシャリと膝をつく。
「助かったぞ。……先に礼を言っておく」
 汗に上気した頬で呼吸を貪るのは、以前も里を案内してくれたウーファンだった。彼女は苦しげに肩で息をしながら、薄い胸に手を当て呼吸を落ち着かせている。どうやら先程の術はかなり高レベルなものを行使したらしく、ウーファンの表情は疲労に翳っている。
「礼にはおよばないよ。それより、先に、というのは」
「厄介ついでに頼まれて欲しい。さらわれた巫女を、助けて欲しいのだ」
「巫女が、さらわれた!? あの娘がかい?」
「ああ……巫女を、シウアンを……助けて欲しい。この通りだ!」
 助け起こそうと伸べたポラーレの手を振り払い、ウーファンは深々と頭を下げた。
 先日のどこか頑なな、儀礼的な中に猜疑心を潜ませた声ではなかった。切実さが露呈した声音は今、震えながら尖っていた。そこにはもう、打算も駆け引きもありはしない。目の前の女性はこの瞬間、心と口とが繋がったように心境を吐露(とろ)する。
「お前を見た時、私は感じた……似ている、同じ匂いがすると」
「そ、それは」
「その手練の技、人間のものではあるまい? 私もそう……私達は、人間ではない。違うか?」
 流石に舌鋒鋭く、ポラーレは言葉を奪われる。
 だが、ウーファンのかすれた声は懇願へと変わっていった。自分へと言い聞かせるような懺悔(ざんげ)にも似て。
「だが、人間を、人を大事に思う気持ちに偽りはないはず。それを証明したい私だが、この身体では」
「それは、僕を助けるのに力を」
「違う! お前を助けた訳では……里が、民が。それ以前に、連戦で術を使い過ぎた。それでも!」
 ウーファンは泣いていた。ただただ、巫女を助けて欲しいと泣いていた。
 だからポラーレは黙って、その細い身体へ肩を貸して寄り添い起こす。
「人を思う、想う気持ち。それを僕は、血と汗でしか証明できない。血も涙もない分際でもね」
「お、お前……助かる、悪いが付き合ってもらう。ファレーナも心配だ」
「ファレーナというのは、あの」
「私の補佐を務める方陣師だ。巫女の救出に単身谷の奥へ……女王の間へ」
 その時、ポラーレが支えるウーファンの身体が軽くなった。逆側から肩を貸したのはヨルンだ。
「共に行こう。流す血がなくとも、その温もりを知る者しかこの場にはいないはず……違うか?」
 自分に負けず劣らずの仏頂面なのだが、こういう時に氷雷の錬金術士は頼もしい。
 ウーファンと二人でじっと見詰めてしまったので、どうやらヨルンは照れたようだ。
「……勘違いをするな。辺境伯の依頼もある。それに、その、うむ……そうだ。この女を知っているか」
 照れ隠しに彼が取り出した写真に今日も、一人の貴婦人が大勢の仲間達と微笑んでいる。
 だが、今までがそうだったように思い出を閉じ込めたセピア色は、ウーファンに首を横へ振らせるだけだった。

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