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 煙る霧より尚白い、純白の影が森を疾駆する。ウロビトの方陣師(ミスティック)を示す装束に身を包んだ、長身の麗人だ。手にした錫杖(ロッド)を小さく鳴らして、ホロウや野生の獣が闊歩(かっぽ)する緑の樹海を、まるで自分の庭のように迷わず進む。その先に古びた巨大な扉が、うっすらと浮かび上がってきた。
 だが、その行く手で空気がゆらり陽炎(かげろう)のように揺らいで、無数のホロウが顕現する。
「すまないが通してもらえないだろうか。いや、押し通る」
 おどろおどろしい金切り声を張り上げるホロウの群れを前に、白亜の貴婦人は止めた脚を中心に光を走らせる。
 彼女の名は、ファレーナ。ウロビトの里でウーファンの右腕を務める方陣師だ。日頃巫女の世話や教育で忙しいウーファンに代わって、里の者達の相談を聞き、病気や怪我を見て回り、時には森を見まわり害獣やホロウとも戦う。だから、古今例を見ない大惨事に際して、彼女は迷わずその渦中へと飛び込んだ。巫女を救い、再び里の平和を取り戻すために。
 だが、白い炎となって静かに燃えるファレーナの瞳には、憎悪も嫌悪もない。
「あなた達も最近は静かだった筈……なにゆえ里に迷い出て、あまつさえ巫女をさらう?」
 ファレーナの問に応える言葉はなく、霧を揺るがす叫びはビリビリと周囲の樹木を震わせる。
 向けられる敵意に呼応するかのように、ファレーナが足元に広げる光が複雑な幾何学模様(きかがくもよう)を結び出した。たちまち巨大な方陣がホロウ達を一網打尽に囚える。そのことに群れなす虚影が気付いた時には、ファレーナの術は一際強力な輝きを灯していた。
 一部の方陣師だけが極めし奥義、破陣の光がホロウ達を飲み込んだ。
 全てを浄戒する光条が天へと昇って、虚空の彼方へとホロウ達を消し去る。
「逃げるなら追わない……あなた達の女王に拝謁し、巫女を返してもらう」
 だが、ファレーナの術に恐れも見せず、今度はホロウ達が数を頼りに包囲網を狭めてくる。じりじりと狭まる輪の中心でしかし、ファレーナの目に迷いはない。次の瞬間には、四方より殺到するホロウの闇に塗り潰されようとも……己がなにものにも染まらぬ白無垢でありつづけるかのように。それが必然で、あたかも当然であるかのように。
 事実、濃霧を震わせ乱舞するホロウ達の群れが、彼女を血の色に染めることはなかった。
 ――虚無の黒を拭い散らすのは、あらゆる光を吸い込む漆黒。
 最後の瞬間まで方陣を維持して目を見開くファレーナの視界に、闇より尚暗い影が走った。
「間に合った、ね。……怪我は、ない?」
 その影は両手に雌雄一対の刃を逆手に持ちながら、逆巻く旋風(つむじかぜ)となってファレーナの周囲を薙ぎ払う。それが人の姿をした風だと、ファレーナは目ではなく肌で感じた。そう、揺らぐ輪郭もおぼろげに馳せる、一陣の黒い風。
 気付いた時には周囲のホロウは、絶叫を連鎖させながら溶け消えていた。


 そして目の前に、一人の人間が振り向く。黒い髪に白い顔、モノクロームに翡翠色(アブサン)の瞳を灯した男だ。
「あなたは……すまない、助かる。しかし、ここは危険だ。すぐに引き返して――」
「うん、危ないから。だから、助けに来たんだ」
「……それが辺境伯の御意思か?」
「え、あ、いや、どうだろう……少なくとも、僕の、僕達の意思? だと思う、よ? た、多分」
 不思議な男だった。ファレーナの前で首を傾げつつも、上目遣いに眼差しを向けてきては、すぐに目を背けてしまう。どこか少年のような、あるいは幼子のような印象が垣間見えるが、その表情が感情を象ることはない。凍れる無表情の男は、ともすれば年寄りのように老成しても見えるのだが、やはりファレーナの中に無垢で無邪気な少年の印象を刻んだ。
「ポラーレ、そっちは片付いたか? 悪いが周囲を見ててくれ。ウーファンの様子がおかしい」
 ポラーレ、それが目の前の男の名前だろうか? 不思議と心に響く言葉で、ファレーナは意味深に何かを言いかけては口を噤むポーラレを改めて見やる。だが、背後から届く声が逼迫した内容を伝えてくるので、振り返って驚き駆け寄った。
 そこには、印術師らしき美丈夫に抱きかかえられるウーファンの姿があった。
 ファレーナは初めて見る……自分が長らく支えてきた、里一番の方陣師の弱った姿を。そこはもう、常に凛として気丈に振舞ってきたウーファンの姿はなかった。自らの脚で立っていられず、彼女は印術師の胸で震えている。この女王の玉座に至るまでは、決して楽な道のりではなかっただろう……だが、ファレーナの知るウーファンは、その程度で根を上げるような同胞ではなかった。
 ウーファンはファレーナの視線に気付いて、わななく唇をぎゅむと噛み締め俯いてしまう。
「失礼、あなたは……」
「俺はヨルン、ポラーレと共に助力する者だ。道中、ホロウの群れとやりあったのだが」
「そうでしたか。ヨルン殿、そして……ポラーレ殿。お二人に感謝を、ありがとう」
「ヨルンで構わん。だな? ポラーレも」
 静かに頷くポラーレが、気付けば隣に立っていた。全く気配がなく、人の体温や鼓動、呼吸すらファレーナには感じ取れない。だが不思議と、この影のような男がファレーナには不快ではなかった。今もこうして、ウーファンの姿に動揺している自分を支えるように立っている。それはまさに、寄り添う影のようにさりげなく、ともすれば気付かぬような気遣いだ。
 意を決してファレーナは、ヨルンの腕が抱き上げるウーファンに語りかける。
「ウーファン様、ファレーナです。何が……何かあったのですね? ここに里の者はわたし以外おりません」
 そっとファレーナはウーファンの手を取る。だが、震えて冷たくなった手は握り返してはこない。
 血の気を失った唇を震わせ、ようやくウーファンはか細い声を発した。
「ホロウが……(ささや)くのだ。この私にはもう……巫女に接する資格がないと」
「……ホロウが言葉を? ウーファン様、それは」
「私は聞いたのだ! 嗚呼……あの虚無共は確かに言った。そう、巫女は私より人間に惹かれ……変わってしまった」
 ファレーナが促すと、そっとヨルンはウーファンを下ろす。彼女は自分では立てず、己の肩を抱いてその場にへたり込んでしまった。
 自分の法衣(ローブ)を脱いだヨルンが、震える彼女の背を包む。細身の引き締まった肉体は、無数の古傷が歴戦の冒険者を思わせた。隣のポラーレもそうだが、里の者達が束になってかかっても敵わぬ古強者(プロフェッショナル)の風格を感じる。そして恐ろしいことに、ファレーナが気をつけて慎重にそれを探らない限り、二人からは全くその覇気も気迫も伝わってはこないのだ。
 ファレーナは膝をつき、かけられた法衣を掴んで俯くウーファンに視線を重ねる。
「ウーファン様、気持ちをお強く……ホロウの言葉に惑わされてはなりません。例えそれが事実でも」
 だが、周囲を警戒しながらヨルンは油断なく両手に稲妻の閃きを集め始める。
「ファレーナとか言ったか? ホロウはこの地に根付くウロビト達の宿敵、災厄と聞く。ウーファンほどの術師が」
「その解釈は少し違うのです……彼等ホロウは、わたし達ウロビトの影。影はそれ自体、常にある光の形」
「つまり、その存在を完全に否定すべき邪悪ではないと?」
「少なくともわたし達は、方陣師はそう感じています。……長老会議の御老人達は違うようですが」
 ファレーナはそっとウーファンを抱き締め、その背を優しくさすりながら言葉を続ける。
「ホロウはわたし達ウロビトと対をなす者。虚無の深淵そのもの、それは誰の心にもある闇なのです」
「……君達は、虚無と共に生きているのかい? これほどに酷い仕打ちを受けても?」
 ファレーナの言葉に驚きの声をあげたのはポラーレだ。だが、そんな彼を振り向くファレーナは、どうして自分に穏やかな笑みが浮かぶのか、その時はわからずにいた。きっと、ウーファンを安心させるためだと抱き締める腕に力を込める。
「影を否定することは、光をも否定すること。この森でホロウは、今まで小さな悪さをしても、こんなことは」
「それが、ホロウは確かに言った! 私が……私達が人間に触れて巫女を惑わしたからだと!」
 ファレーナの言葉を拾って、ウーファンが声を荒げる。だが、そんな彼女を、まるで幼子をあやすようにファレーナは優しく包む。
「ウーファン様。ホロウがそう囁くならば、それはあなたの心の闇に浮かぶ迷いなのかもしれません。しかし」
「しかし? しかしなんだというのだ、ファレーナ! 私は人間の力を借り、ウロビトの尊厳を犯したのやも……長老会議でも」
「今は御老人達のことはお忘れください。ホロウは確かにわたし達の影、共にこの地に生きる我らの内に潜む闇。それでも」
 ファレーナは言葉を一度切ると、周囲のヨルンやポラーレにも言って聞かせるように、静かにゆっくり言の葉を紡いだ。
「ホロウが影ならば、わたし達は巫女と共に民を照らす光。ウーファン様、あなたはあなた自身の心の言葉をこそ。そしてそれをわたしにもいただきたい。……ウーファン様、あなたはどうしたいのです? 本当に巫女の信頼を失ったとお思いですか?」
 縋るように濡れた視線で、瞳を潤ませウーファンは声を震わせる。
「……巫女を、助けたい。私の信頼が失せて絆が失われようとも……巫女をホロウ達の、好きには、させ、ない!」
「ならば、お立ち下さい。立てなくばわたしが支えましょう。わたしもまた、影に怯えて共に生きる、虚無を胸に抱く者」
「ファ、ファレーナ、私は」
「ホロウは決して消えぬ闇、我らウロビトの影……しかし、光で照らせば必ずや道は開けましょう。その時巫女は、必ずあなたに灯火を見出す筈です。今までがそうであったように。人間達も力を貸してくれます、が……巫女の心を救うのは、ウーファン様ただ一人」
 ファレーナは手を伸べ、そこに手を重ねてくるウーファンを引っ張り起こした。それでもよろけるウーファンを、意外な人物が支えてくれる。隣から飛び出したポラーレが、気付けばウーファンの肩を支えていた。
「ウロビトが影さえ内包して歩んできたなら……人の影である僕にも、手伝わせて欲しい。僕で、よければだけど」
 ウーファンは周囲を見渡し、最後にヨルンの頷きを拾って立ち上がった。
 ファレーナはその時、不思議な感覚に胸が熱くなる。ホロウはウロビトが抱える宿命(さだめ)宿業(うんめい)といってもいい。長らくこの地で、巫女が現れるまでウロビト達の宿敵として敵対してきた。だが同時に、同じ森に生きる己の影として暮らしてきたのだ。ホロウも今まで、ウロビトを惑わし悪さこそすれ、里を襲うことはなかったというのに。その元凶を長老会議は、巫女と冒険者達……人間達だと疑うだろう。だが、ファレーナにはそうは思えないのだ。
「……行こう、ファレーナ。人間達の力も借りて。ポラーレ、ヨルン……そちらの方も力を貸して頂けるのだな?」
 ようやく普段の冷静沈着さを取り戻したウーファンが、法衣をヨルンに返して立ち上がる。その視線の先には、後から追いついてきた一人の男が立っていた。手には弓を持ち、肩を上下させて汗に濡れている。恐らく、ポラーレ達に追い付くために無理をしたのだろう。だが、その目はまるでそう……狩人のように。狩人ですら狩る野の獣のうにギラついた光を灯していた。
「そうでなきゃ小迷宮からの強行軍が無駄にならあ。えっと、ウーファンだっけ? (あね)さんよぉ、あんたな」
 無精髭のスナイパーはばりぼりと頭を掻きながら、そっと奥の扉を指さす。
「難しい話はわかんねえけどよ……ありゃ、巫女があんたを呼ぶ光じゃねえか? 俺も道中、それを頼って来たんだがよ」
 サジタリオと名乗ったその男の指は、かすかに揺れて霧を照らす小さな光を示していた。
 ホロウの女王が住まうという玉座の前で、その光はウーファンを勇気付けるように瞬き、扉の奥へと消えた。

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