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 扉の奥に待ち受けていたのは、濃密な霧のヴェールに包まれた玉座。ファレーナ達を出迎えたのは、かしずくホロウを従えた虚無の女王だった。威厳を湛えた姿を守るように、左右二体のホロウは武器を揺らめかせて立ち上がる。まるでそう、女王を守る騎士だ。その発する冷たい敵意に、ファレーナも人間達と並んで錫杖を身構える。
 だが、そんなファレーナ達の前に一人の男が躍り出た。
「ポラーレ、サジタリオ、ウロビト達と先に行け。ここは俺が引き受けよう」
 周囲にバチバチと蒼いプラズマを瞬かせ、真っ赤なマフラーを逆立てながら。その男は油断なく二体のホロウを牽制して術式を構築してゆく。その恐るべき処理速度は、系統は違えどファレーナに驚愕をもたらした。瞬く間に組み上げられた印術が励起するや、その顕現する力は余剰出力となって術師の背に巨大なルーンを浮かび上がらせる。
 氷雷(オーロラ)錬金術師(アルケミスト)ヨルンは、襲い来る女王の守護者達(ガードナー)を電撃の爆光で薙ぎ払った。
 周囲の水分が気化する湯気に包まれる中、目元を庇うファレーナ。その時、彼女の細い手首を握る手があった。
 それは己の白すぎる肌とは対照的に、露出の全くない黒い手袋。全く光を反射しない漆黒が強くファレーナを引っ張る。
「ヨルンに任せれば大丈夫。行こう……君達の巫女を、助け出す。どうか僕に、僕達に……手伝わせて、ほしい」
 ぼそぼそと喋る白い顔が、モノクロームの影となってファレーナをさらう。共に走ればあっという間に、混乱に叫ぶホロウ達の脇をすり抜けた。その先へと、まるで先導するように矢が注ぐ。隣で走りながら弓を引き絞る射手(スナイパー)の目は、さながら森の獣のようにギラついていた。
 引っ張られるまま振り返るファレーナは、ヨルンと呼ばれた男と共に立ち止まる声を聞く。
「行け、ファレーナ。ここは私が引き受けよう。行ってくれ……今は人と共に、人ならぬモノと戦う時!」
 ウーファンの言葉が、続いて舞う吹雪の中へと消えてゆく。数を増やして女王を守ろうとするホロウ達を、その脚を封じて縛る方陣の光だけが朧気に光った。それも、再び場を満たし始めた霧の中へと消えてゆく。
 ちらりと見たが、ヨルンとウーファンの間には、言葉も視線も交えた様子がない。
 それなのに二人は、ただ黙って互いの隙を庇い、相手の技に連携を重ねてファレーナ達の背後を守る。
「ウーファン様、あなたは……迷いを振り切られたのですね。ならばわたしも、なすべきことを今」
 ただ引かれるだけの手を握って、小さな拳の中に誓う。
 ――必ず巫女を取り戻すと。
 そうしてホロウ達の群を抜けた三人の前に、ついにこの森の支配者が姿を表した。
 大いなる虚無の深淵より(きた)る、ホロウ達の女王……ホロウクィーン。その神々しくも寒々しい闇の姿は、心弱き者ならば直視しただけで精神の平静を失うだろう。ファレーナもまた、気持ちを強く持って己の意思を奮い立たせる。そんな時、まだ自分の腕を握ってくれてる手が不思議と心強い。全く体温を感じず、女の柔肌に触れてるという自覚もない大きな手。
 だが、そうして腕を握って先に立つ男は、黒衣を翻して背にファレーナを庇ってくれるのだ。
「……そろそろ離してもらってもいいだろうか」
「えっ? あ、ああ、ごめん……なさい。その、咄嗟に」
「怒ってはいないのだけども、そうも恐縮されてしまうとわたしも困る」
「す、すみま、せん。ええと」
 先ほどから謝ってばかりの男は、確か名をポラーレといったか。自分を人の影だとうそぶく男。彼はおずおずと手を離したが、ファレーナの前に立つことはやめない。むしろ、ファレーナから離れたことで前衛へてと歩み出た。その背中は妙に頼りないのに、不思議と視界に広がり安堵感を与えてくれる。
 かつて失われた人との絆が、人ならぬモノの中にさえ感じられるなら。
 それは、人の中にも見いだせるに違いないとファレーナは奇妙な確信を得られるのだった。
「いちゃつくのはいいけどよ、お二人さん。……やるぜ? この邪気、只者じゃねえ。それに!」
 隣で矢を番えて弓をしならせるサジタリオの視線の、その先に小さな光が灯っている。それは、ホロウクィーンの背後に寝かされた巫女の身体からふわりと浮かび上がっている光だった。その薄い胸が小さく上下しているのを見て、ファレーナも錫杖を手に精神力を集中させる。巫女は無事……ならばあとは救い出すのみ。
 その時、ホロウクィーンが両手を広げて絶叫を歌った。
 瞬間、周囲に満ちた霧が凍りついて、ファレーナ達へと牙を剥く。大反響するホロウクィーンの歌声は、それ自体が圧縮言語へと凝縮された術式の塊だ。朗々と響く氷結のアリアに、周囲はたちまちマイナスの世界へと凍結してゆく。吹き荒れる吹雪となった濃霧は渦を巻いて、サジタリオを、次いでファレーナを飲み込んでいった。
 凍てつく竜巻の中でしかし、ファレーナの細められた目は見る。
 氷片に侵されながらも輝きを振りまき、漆黒の影が抜刀と同時に()ぶのを。
「効かない訳じゃないけど、僕の抵抗値は計算上……この程度じゃ、凍らないよ」
 ポラーレは真正面から凍気の塊へと飛び込んで、その全てを身に受けながらもホロウクィーンに迫る。ぱらぱらと舞い散るのは、彼を凍らせるべく(むしば)んでゆく冷たい霜の層。だが、全く意に介さず雌雄一対の剣でポラーレは、繰り出す左右の剣閃をホロウクィーンへと重ねて放つ。
 だが、ゆらり揺らめくホロウクィーンは、空間の位相をずらして必殺の一撃を避けた。ずしゃりと着地、というよりは落下して起き上がるポラーレへと、ホロウクィーンがゆらめかせる影が襲い来る。それは体勢を崩したポラーレを、宵闇の翼となって包み翻弄した。流石のポラーレも大地を転がりもんどり打って、部屋の隅へと叩きつけられる。
 それでもゆらりと起き上がる姿は、漆黒の四肢に翡翠色の光が毛細血管のように走るのがファレーナには見えた。
「おい、無茶すんじゃねえ! ちゃんと避けやがれ、アホッ!」
「アホは、酷いな、サジタリオ。僕の計算では、このダメージは、許容の範囲内、だよ」
「ったく、あきれたバケモノだな、ええ? なら立てよ、反撃といこうぜ」
「ああ、うん……でも、攻撃が当たらない。このまま長引けば消耗戦になる」
 サジタリオは当たらぬと知ってさえ、相棒の立ち上がる時間を稼ぐために矢をばらまく。ホロウクィーンのゆらめく姿は、時に透けて透明になりながらも、右に左にと幻惑(げんわく)しながら全ての矢を避けきった。流石にホロウの女王だけあって、その力は絶大……振るわれるだけで余波が周囲の空気を震わせ、空間は歪曲してファレーナの視界を滲ませる。
 さながら異界と化した玉座の間でしかし、ファレーナは錫杖を支えに立ち上がる。
 そんな彼女の隣で、かじかむ指を揉みしだきながら、白い息を吐く男の声が熱い。
「よぉ、ねーさん……俺ぁ奴の脚を封じる。ちょこまか避けやがって、鬱陶しいったらねえからよ」
「ならばわたしが、精神と知性を司る頭を。それでこの吹雪は止む筈」
「いいねえ、俺らは俺らの仕事をしようじゃねえか。あとは相棒次第、出たとこ勝負ってな」
「……あの男を信用しているのだな。そういうところは人間もウロビトも変わりはしない」
 サジタリオは応える代わりにニヤリと笑って、必殺の矢を引き絞る。それは、ファレーナが最後の力で方陣を広げるのと同時だった。この道中での消耗で、ファレーナが全力で術を行使できるのはあと一度きり。それも、ホロウを()べる女王へ干渉するとなれば、成功率は五割(はんぶん)を切るだろう。それでも今、なにかをせずにはいられない。そのためにこの場へ来て、立ち上がったのだから。そして、それを支えるために仲間が戦っているから。無数のホロウを堰き止める背中で。極寒地獄と化した隣で。
「仲間、か。かつてはこうして並び立っていたのだろうな。……悪くはない。かつてと、これからのために!」
 一際苛烈な光が大地に走り、巨大な方陣がホロウクィーンを包んでゆく。その輝きから逃れようとしたホロウクィーンが、苦しげに呻いて脚を止めた。もはや空間内で虚実をずらして逃げることもかなわない。
 ホロウクィーンの影を射抜く一本の矢が、深々と大地に突き立っていた。
「っし、今だ相棒! ……おうこら、立てぇ! 何やってやがる、立って戦え! ああクソッ、あいつ」
 叱咤するサジタリオの言葉に応えるように、ポラーレは立ち上がったが……その次のアクションにファレーナは驚いた。頭と脚、攻撃と防御を封じられたホロウクィーンを前に、絶好の反撃のチャンス。それなのにポラーレは、ファレーナ達の前へと身を投げ出したのだ。
 それは、ホロウクィーンがタクトを振るうように両手を振り上げるのと同時だった。
 そしてファレーナの世界が暗転の後にひっくり返る。
 強力な斬撃に斬り伏せられたのだと知った時には、自身の流血でできた(あか)の海に沈んでいた。
「今のは。……そうか、クィーンの……術のみに警戒して、わたしは……? い、生きてる、のか? 何故」
 直撃だった筈だ。ホロウクィーンは唯一封じられていない両手で、位相を歪めてずらす力をそのままファレーナ達へとぶつけてきたのだ。次元を切り裂く虚無の刃が炸裂して、ファレーナの身体は感覚を失っている。張り巡らせた方陣が虚しく霧散する中でしかし、彼女は同じく血塗れで自分を抱き起こすサジタリオを見上げていた。
 そして、サジタリオの見据える先に、全身を広げて立ち尽くすボロボロの影を見る。
「こっちは無事だ、いい判断だったぜ……相棒っ!」
「よかった。歪みがね、見えたんだ。だから、しかけてくるって。守れて、よかっ、た」
「おうよ、じゃあ……やっちまえよ、喰っちまえ! もう遠慮はいらねえ……手前ぇを解き放て!」
「うん、そうする……今、ここで全てを出しきらないと。彼女に、お礼を言うこともできなくなるから」
 礼を? わたしに? ファレーナはサジタリオの腕の中でじっとポラーレを見詰める。
「礼を言うのはわたしの方だ。あなた達はこうまでして巫女の為に、里の為に」
 だが、一度だけ肩越しに振り返ったポラーレの、翡翠(アブサン)の瞳が細められて無数に花咲く。その時、彼はもう人の輪郭を徐々に崩して捨てていた。周囲の凍えた空気さえも生ぬるいほどの殺気が、その闇より黒い中へと凝縮されてゆく。
 そしてファレーナは、ポラーレの言葉の意味を理解した。
 目の前でポラーレの姿が解けて霧散した、次の瞬間には……いつか瘴気の森で助けた一匹の竜が姿を現していた。
「あ、あなたは……あの時の」
「僕を、僕の娘達を……君は、助けて、くれた、から……今度は、僕の番。ああ、待って。野暮な女王様だな、今、大事なとこなんだ」


 ゆらりと巨躯をもたげた黒狼竜の姿に、絶叫を迸らせてホロウクィーンが襲いかかる。それは、絶対的な力を前にして、避けれれぬ死をつきつけられた者の本能。だが、並ぶ瞳の全てにファレーナを映す優しげな竜は、瞬時に顎門(アギト)を開け放つや躍動した。
 ホロウクィーンの半身が消滅し、喰い千切られた残りが断末魔の悲鳴と共に空気に溶けてゆく。
 消え去ることさえ許さぬ猛追で、続いて振るわれた牙と爪が哀れな女王を蹂躙して消滅させた。
 あまりに恐ろしい暴力の権化をしかし、ファレーナは不思議な感動で見詰めて手を伸べる。……美しい、と。

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