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 その森は、太陽の光さえ届かぬ深海にも似て……暗黒(スターレス)。まして青白い月の光では、生い茂る樹木の陰影すら闇へと同化させてしまう。そんな辺境に広がる未開の樹海を、マントを棚引かせて疾駆する姿があった。
 羽飾りの揺れる帽子を目深にかぶった、彼女の名はアルマナ。
「振り切れない? 三銃士の一角である、この私が。……追いつかれるっ!」
 耳は既に追いすがる翼の音を反響させている。夜空を侵蝕しきった枝葉の上にはもう、アルマナが発散する負の匂いを追う爪と牙が迫っていた。本来のアルマナの脚力であれば、あるいは逃げおおせたかもしれない。その四肢に鍛えた騎士の力が普段通りならば、切り結んで斬り伏せることとて不可能ではないだろう。
 だが、その可能性は実現しない。
 目指す辺境の集落、開拓民の村へ向けてアルマナは逃げる。ただただ、重く冷たい己を引きずるように。
「くっ、これ以上は……私はここで終わる訳には!」
 減速と同時にアルマナの靴底が大地を削る。土煙を立てて草花を散らしながら止まった彼女は、腰の細剣を抜き放った。ヒュン、と(しな)る刃の輝きは今、周囲に逃げ惑う虫の残した蛍光を僅かに拾っていた。
 そして、黒く塗り潰された空を引き裂き、巨大な脅威がアルマナの前へと舞い降りた。
 ――それは、万物の頂点にして摂理の代行者。竜の眷属に連なる巨大な暴君(タイラント)
「飛竜……やはり、ワイバーン! なんて大きい……私を狙って? きっと、そうでしょうね」
 この世界に確認されている竜は三匹、人はそれを三竜と呼び恐れた。灼熱を司る赤竜、稲妻を統べる雷竜、そして絶対零度の氷竜だ。この三種の他に、未確認だが神竜なる個体を見たとの報告もあるが、真偽の程は定かではない。ともあれ、大自然の絶対強者である竜への遭遇は、不可避の死を意味する。それは、下位の存在にして知性を持たぬ飛竜でも同じだ。まして未確認の黒き翼は、アルマナの故国を灰燼(かいじん)に帰したのだ。
 アルマナの目の前に翼を広げたワイバーンは、大きく見開いた眼を血走らせて吠えた。
 その咆哮を合図に、アルマナも震える脚に鞭打って駆け出す。
「突破口を。離脱する糸口さえ掴めれば……参ります!」
 手にする剣が風を切る。その腕を引き絞って身を低く、アルマナは全力でワイバーンの間合いへと踏み込んだ。
 同時に、ワイバーンの顎門(アギト)が真っ赤に開かれ、その奥から煌々と燃える灼熱がせり上がってきた。
 跳躍、アルマナが全力で地を蹴ると同時に、烈火の炎が周囲の森を朱に染めた。瞬く間に紅蓮の焔が周囲を焼き払う。轟音を響かせ燃え落ちる木々が、ようやく星空と浮かぶ月をアルマナの視界へと放り込んだ。肌を灼く熱気の上昇気流に乗って、天駆するアルマナの一閃がワイバーンを払い抜ける。
 絶叫が響いて、ワイバーンの角が切り落とされた。
 同時に着地するアルマナが、納刀と同時に踵を返す。
「今のうちに! ごめんなさい、偉大なる空の王。貴方は今、惑わされているのです……()()()()宿()()()()()
 一度だけアルマナは、苦悶に長い首をのたうち回すワイバーンを振り返る。
 だが、躊躇(ちゅうちょ)している暇はない。既にもう、アルマナの身は全力を出し切って余力も乏しいから。同じ一撃を放つことはもうできないし、万全の身体だったとしてもその選択はありえない。ワイバーンの討伐が目的ではないし、()の者が襲い来る理由は自分にあるのだから。
 悲鳴を上げるワイバーンを努めて見ないように、その絶叫だけを耳にとどめて、アルマナは再び走り出す。
 ――筈だった。
「……っ、ああ! こ、こんな時に! くぅ、あ、脚が」
 不意にアルマナは転倒して、爛れた大地へと身を投げ出した。ブーツとタイツで覆われた脚が痙攣に震えて、その感覚が急激に遠ざかる。まるでそう、突然両脚を切り離されたような錯覚にアルマナは唇を噛んだ。
 それを人は呪いと呼んだ。
 フランツ王国の至宝たる三銃士、その一翼であるアルマナが単身国元を離れて旅する理由。それが彼女の身に宿った呪いである。それは、かつてフランツ王国を襲った災禍に起因していた。その禍根を断って己を取り戻すため、孤独な旅へとアルマナは挑んでいるのだった。全ては国家と王家への忠誠のため……騎士であると同時に政治の中枢、官僚機構の頂点でもある三銃士としての責務がそうさせた。
 だが、その気高い決意も虚しく、その場にへたり込んだアルマナは一歩も動けない。
「脚を、封じられて……くっ、逃げられない」
 その時、アルマナは見た。激昂に燃えて鱗を輝かせる、ワイバーンの巨躯が目の前に迫るのを。
 角を片方切り落とされたワイバーンは、瞳から血涙を流し牙を剥く。覚悟を決めて立ち上がろうとしながら、再び剣を抜くアルマナの眼差しは澄んでいた。目をそらさず、飛竜の激怒を正面から受け止める。並みの騎士であれば、自害を(いさぎよ)しと自らに刃を突き立てるだろう。だが、フランツ王国の生ける宝である彼女には、自ら選ぶ尊厳死すら許されない。這いつくばって足掻き藻掻きながらでも、国土と国民のために生き続けねばならないのだ。
 立ち上がろうと懸命に身体をよじるも、両足はまるで縫い付けられたように動かない。
 そして頭上を影が覆って鼻先に竜の吐息を感じた瞬間……不意にアルマナとワイバーンの間で大地が裂けた。
 舞い上がる岩盤と土砂の中にアルマナは、一本の槍が突き立っているのを見る。
「どうも森が騒がしいと思ったらこれだ。飛竜とは穏やかじゃないな。旅の方! ご無事か?」
 その声は頭上から降ってきた。見上げれば、天へと伸びる古木の上に人影がいる。淡い光で浮かぶ月を背負って、盾をかざした一人の騎士が立っていた。その手から放たれたであろう豪槍が今、ワイバーンの一撃を退かせたのだ。
 ワイバーンも突如として割って入った人間の存在に、唸り声をあげて数歩下がる。
 アルマナは初めて、竜の眷属が一人の人間に退く姿を目の当たりにする。それこそ彼女が求めていた力……人は、世界は、わずか十人足らずと言われる英雄たちを、畏怖と畏敬の念を込めてこう呼んだ。
「ド、ドラゴンスレイヤー……では、もしや」
「我が君よりの言葉を空の王へ伝える! 村への客人を守るは、自警団団長たるわたしの使命と知れ!」
 ガシャリ! と重装甲を鳴らして、高らかに謳った騎士がアルマナの前に舞い降りる。総髪を右に寄せてリボンで結った、女騎士だ。彼女は盾でアルマナを守って庇いながら、怒れる飛竜を前に臆することなく相克する。


「私は動けません! お情け無用、ドラゴンスレイヤーたる者がこんなことで」
「それだよ、それ。そういう()ばかり独り歩きしてね……わたしはでもっ、そんなの関係ない!」
 再びワイバーンからブレスが放たれ、あっという間にアルマナの周囲で空気が沸騰する。
 だが、目の前の女騎士は盾で真正面から火炎のブレスを弾き返した。高レベルのパラディンやファランクスだけが使いこなすという、属性攻撃を弾いて無効化する技だ。アルマナの母国でも、完全に無効化してみせるだなんて芸当をこなせる者はいやしない。
 目の前で火炎のブレスは真っ二つに割れて、アルマナを避けるように左右へ流れて森を焦がした。
「す、凄い……これほどの力を持つ騎士は」
「さあて、どうするかね。槍はあそこに放り投げちまったし、あんたは動けそうもないな。どうする?」
「騎士殿、ご尊名を。どうか名乗って、お退き下さい。……この飛竜は私を狙って」
「それはできない。できないから、どうしようかなってね。決まるまでこうして、わたしは立ち塞がるのみ!」
 再度ブレスが放たれ、女騎士の盾が溶ける音を立てながらも二度目の灼熱を無効化する。
 耐えてはいるが八方塞がり、動けぬ自分が事態を悪化させていると感じるアルマナ。彼女はそしてわかっていた。名を問うたが、聞くまでもなく知っていた。世界で唯一、槍のドラゴンキラーを持つ者。三竜の試練を超えたドラゴンスレイヤー。
 その名を呼ぶ典雅な声が響いたのは、その時だった。
「下がれ、ラプター。お前になにかあっては、弟に向ける顔がないのでな」
 天から見下ろす月に影が舞った。
 声の主は月光を浴びて宙を舞い、抜刀と同時に……夜空に乱舞する星の光を刃に集める。
 見上げるアルマナは声を失い、呼吸をするのも忘れた。
「ミラージュ殿っ! かたじけない、けど、貴方の身を危険にさらしてはわたしが……なら、こうだっ!」
 まるで夜空を渡る流星のように、光の尾を引き剣を手に影が翔ぶ。
 その着地点へとなんと、ラプターと呼ばれた女騎士は突貫した。武器もなく、ただ盾を手に。
「とっとっと、やっぱりデフィール殿みたいに上手くはゆかぬなあ! ははっ、だが重心は崩した!」
「しからばあとは……ただ切り裂くのみ。斬り咲け、天羽々斬(アメノハバキリ)っ……!」
 ドン! とシールドバッシュの一撃で脚を止められたワイバーンへと、光の筋が静かに走る。小さくその線にそって血の花が咲いた。
 それだけの攻撃で、彫像のようにワイバーンはピタリと静止。
 静かに刀を擦過させた男は、見るも美麗な美丈夫だ。彼は静かに、手にした鞘へと剣を納める。
「旅のお方、ご無事か。ラプター、彼女を頼む。それと」
 男はラプターが最初に投擲した槍を引っこ抜くと、それをラプターへと放って返す。
 受け取るラプターは完璧な騎士の儀礼で一礼したあと、アルマナを抱き上げてくれた。
「あっ、あの、まだワイバーンが……お二人共、私のことより」
「ん? ああ、三銃士殿は心配性だなあ。わたしは貴殿の方が心配だ。……何か事情があるとみたけどな」
「それは……それよりも! 勝負はまだついては」
「随分着込んでるな、暑くないか? ああ、そのことなら」
 アルマナを抱きかかえたまま、ラプターが細いおとがいでクイとしゃくる。
 そのままワイバーンへと視線を戻したアルマナを驚愕の光景が待ち受けていた。
「フランツ王国三銃士、アルマナ殿とお見受けする。……この剣が(そよ)いでな、来てみてよかった」
 ミラージュが歩み寄る背後で、固まったままのワイバーンが縦に裂けた。静かに真っ二つになり、そのまま左右へぱたりと倒れた。恐るべきその剣氣(プレッシャー)に、ただただ圧倒されるアルマナ。
 目の前に今、伝説のドラゴンスレイヤーがいて、それすら超える神話レベルの剣士がいる。
 自分とて騎士道を信じて剣を修めた身なのに、なんと世界の広いことだろう。こんな辺境に、今まで見たこともない強者がいるのだ。
「あ、あの……その剣は。もしや……ならば、貴方様は」
「隠居の身なれば、私もラプターも開拓民の一人に過ぎんよ。だが……やはり剣が戦ぐ」
 アルマナはかつて耳にしたことがあった。遥か南海の地、アーモロードの世界樹で起こった冒険譚を。深海の孤独に封じられし世界樹の天敵を滅して、その核より神刀を得た者がいるという吟遊詩人達の歌う詩篇を。

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