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 女は夢を見ていた。
 淡く甘い、春の夢だ。
 野に花は咲き誇り、山は新緑に萌えている。広がる草原に吹き渡る風は涼やかで、そっと女の短く切り揃えた髪をさらう。豊かな大自然の中で、女は深呼吸。薄い胸いっぱいに吸い込んだ空気を(かお)りと共に吐き出す。
 そうしていると、ふと呼ばれたような気がして女は振り向いた。
『……貴公は。いや、あなたは』
 そこには、見るも流麗な金髪の男が立っていた。手には弓を持ち、帽子をかぶったレンジャーだ。彼はニコリと女に微笑み、その名を呼んだように思えた。だが、空気が震えて言葉が伝搬してくる、その声が音としてしか女に伝わらない。
 まるでそう、頭の中に(かすみ)がかかったかのように、男の言葉が認識できない。
 それでも女は、ゆっくり近づいてくる男の気配から一つ察した。
『私は、あなたを知っている。ように、感じる。そう、あなたは目が――』
 まっすぐ歩んでくる男の目は、静かに閉ざされていた。だが、穏やかな曲線で(まなじり)を下げた笑みに、自然と女も駆け寄り手を伸べた。
 ――筈だった。
 だが、伸ばした右手は掻き消えて、右腕自体が消滅してしまう。
 反動でつんのめって倒れた女は、思わず絶叫を張り上げた。
『私の腕が、右腕が……うっ、どうして! いや、違う……これは、過去の夢、なのか?』
 男は女の問に応えず、ただ黙って身を屈めて抱き起こしてくれた。
 その体温だけが無性に懐かしくて、しかしそこで全てが遠ざかった。
「待ってくれ! 私は、そしてあなたは! ――夢、か? これは……」
 覚醒と同時に飛び起きた女の、伸ばした右腕は虚空を掴んで虚しくキュインと鳴った。夢だった。現実では、望んで繋げた鋼の義手が今日も重い。その指一本一本の動作を確認するように動かしながら、女は冷たく黒光りする(てのひら)をじっと見詰めた。
「ここは……私はいったい」
 その時、今まで感じなかった気配が部屋の隅に突然現れた。
 否、その者は最初からそこに居たのだ……静かに気配を殺して部屋の空気に溶け込み、女を見守っていたのだ。
「まあ、お目覚めになりましたわね? 危うい怪我でしたが、もう大丈夫でしょう」
「あなたは……ここは、グッ!」
 女は首を巡らし、二重の衝撃に胸を抑えた。寝かされていた自分は今、包帯意外のなにものも纏わぬ裸だ。だが、包帯で真っ白な中に血の赤を散りばめた身は、激痛で覚醒した女の意識を激しく揺さぶった。
 同時に、驚愕に目を見張る……目の前に今、獣貌(じゅうぼう)の美しい亜人がいた。
「無理をなさってはいけませんわ、鉄腕の人。瀕死の重傷で一週間ほど昏睡状態でしたから」
「一週間……瀕死……わ、私はいったい」
「それは此方が聞きたいくらいです。ふふ、しかし人間が迷い込むなど何十年ぶりでしょう」
 そう言って美貌の獣人は笑った。兎の如き長い耳を揺らして。
 どこか自分にも似た雰囲気を感じ取って、女も痛みに歪めた口元に笑みを浮かべる。そう、目の前の獣人は自分と同じ女性、年も恐らく近く、幾つも違わないだろう。そして、同じ匂いがする……しかし、それが何なのかが思い出せない。
 そう、女は思い出せなかった。
 何を覚えていたかも分からない。
「私は、誰だ……どうして、このような傷を? それに、ここは……あなたは一体!」
「あら、そんなに一度に問われても困りますわ。そうですわね、では」
 兎の麗人は身を正すと、しゃんと背を伸ばして居住まいを整え(こうべ)を垂れる。
 それは見るも完璧な作法で、美しい所作(しょさ)の一挙手一投足が洗練されて眩しい。
「わたくしはイナンナ。世界樹の守り人たる、イクサビトのモノノフにて(そうろう)
「イクサビト……モノノフ。世界樹の、亜人? か……そうか、世界樹……うっ、頭が!」
「大丈夫ですか、鉄腕の人。もしや貴女様は」
「……何も、思い出せない。私は、誰だ……」
 女は戦慄に震えた。自分が何者かすらも思い出せない。ただ、世界樹という言葉を聞くと、脳裏にイメージが無数に弾ける。それら一つ一つは具体を結ばず、像はぼやけて何者も象らない。それでも、先ほど夢に出てきた金髪の男だけが酷く懐かしい。
 忘我にうろたえ毛布をぎゅむと掴んでいると、女はイナンナに突然抱きしめられた。
「大丈夫ですわ、お気を確かに」
「イナンナ、殿」
「我らイクサビトは、傷付いた武人を決して見捨てません。その傷は戦傷、恐らく相手は、あの恐るべき氷嵐の支配者」
「氷嵐の支配者、とは……私は、何と戦って、何のために」
「今は心身を休めて傷を癒やすことです。さあ、もう落ち着かれましたね? 何か温かいものをお持ちしましょう」
 イナンナはやさしくぽんぽんと背を叩いてくれる。そのふさふさと毛皮のつややかな温もりに、自然と女は安らぎ鎮まった。
 だが、空虚で空っぽになってしまった自分の中に、全てが思い出せなくて虚無感が広がってゆく。
「後で旅の方にもお礼を……瀕死の貴女様を抱えて、嵐の中をこの里まで辿り着いたのですから」
「その旅の方とは、もしや、こう、金髪の」
 イナンナは静かに首を横に振る。それは、背後でふすまが開け放たれたのと同時だった。
「イナンナ、客人は目覚められたか。こちらも話は終わった。キバガミ殿は様子を見るよう言っている」
 今度は、凛々しく雄々しい狼の獣人、それも男だ。僅かに牙の覗く口元を緩めると、目が合った女にその狼の美丈夫(びじょうぶ)は笑いかけてくれた。先ほどのイナンナと同じく、どこか緊張感を身に纏う武の趣が感じ取れた。


 その横には、自分と同じ人間がいた。羽根付き帽子にマント、旅装の女だ。
「よかった。意識が戻ったんですね、なずなさん」
「なずな……? それが、私の名か」
「東国のブシドー、草壁なずなの名は有名ですから。オンディーヌ伯リュクス殿からもお話を伺ってます」
「草壁、なずな……ブシドー? あ、あなたはいったい、グッ! あ、頭が……う、あぁ」
 自分がなずなという名だと知った。そして、そう言われて違和感がないのは、恐らくそれが真実だからだ。だが、思い出せないので現実だと認知できない。どこか遠く他人ごとのようなのに、頭はその都度額の奥から激痛を走らせる。
 なずなは頭を抱えたまま、布団の上にうずくまった。
「アルマナさん、鉄腕の人は……なずなさんは記憶喪失のようですわ」
「! ……これもまた、竜へと歯向かった代償ということでしょうか。いえ、まさか。でも――」
 アルマナと呼ばれたのは、先ほどの羽根付き帽子の女だ。今は旅装を解いて畳の上に上がると、そっとなずなの側で肩を抱いてくれる。だが、不思議なことにアルマナは決して手袋を脱がず、首から下を完全な着こなしで覆っていた。不自然なまでに肌の露出は、ない。
 それでも、伝わる体温と気遣いに、徐々になずなの呼吸は落ち着いていった。
 そして、アルマナが細剣とは別に腰に下げている太刀が目に入る。
「も、もう、大丈夫だ……すまない、アルマナ殿。イナンナ殿も、そちらの、ええと」
「この方はミツミネさん、イナンナさんの許嫁です。貴女を抱えて迷い込んだ私を、お二人は助けてくださいました」
「そ、そうか……」
「さ、もう少し休まれるといいでしょう。イナンナさん、改めてお礼を……私たちを受け入れてくれて、ありがとう」
 そっとなずなを布団の中へと横たえて、アルマナは深々とイナンナに、次いでミツミネにも同様の口上で頭を垂れる。
 その背を眺めて、腰に下がる太刀をやはり、なずなは気付けば見詰めていた。
 どこかで見覚えがあるような、簡素な鞘に収まった刀だ。だが、鞘の中に収まる刃から発せられる不思議な覇気に、不思議と懐かしさが感じられる。僅かに香るは潮の風、そして人ならぬ存在が入り交じる数多の血の臭いだ。
 なずなの視線に気付いたアルマナは、腰の太刀に手をやりニコリと微笑む。
「ふふ、やはりなずなさんはブシドーなのですね。気になりますか?」
「あ、いや……わからない。けど、その太刀は」
「旅の先で託されたものです。……なんでも、神魔も切り裂く邪滅の刃だとか。もしやこれがあれば、私は」
 一瞬、アルマナは思いつめた表情を見せた。
 だが、一瞬で笑顔になる。それはどこか、無理に絞り出したような切なさが滲んでいた。それを無言で察して、イナンナとミツミネは顔を見合わせる。なずなも、何か目の前の麗人が切実さに身を捩り悶えているように見えた。
 それは記憶を失い自分を無くしたなずなも同じだ。
「では、アルマナ殿。改めて引き止め申す……氷嵐の支配者はこの凍土を統べる暴君。挑まれるなどと」
「そうですわ。我らモノノフですら敵わぬのに、まして人間が。……挑めば、なずなさんのように」
「……確かに、今の私では勝てないでしょう。それに、あの氷竜も私の探している竜ではありませんでした」
 アルマナはどうやら、とある竜を探しているようだ。
 竜、それはこの世界で摂理を司る神威の代行者(コンクエスター)。恐るべき力で空を統べ、睥睨(へいげい)する全ての生殺与奪をその手に握る。
 竜へと立ち向かうことは、それだけで死に等しい。
 だが、人にはそれだけの理由を持つ戦いがあって、それはどうやらなずなも同じようだった。今は思い出せぬその戦う理由を胸の内に探して、なずなは一人思案にふける。
「それはそうと、アルマナ殿。里の者も最近見るのですが……人間は、空を飛ぶ術を持っているのですなあ」
「ミツミネさん、それはもしや」
「空に船を浮かべて、この里の付近にも最近はよく見られます。もしや、連中があの病を運んできたのでしょうか」
 あの病……その言葉を吐き出した時、ミツミネの表情が怒りと悲しみに陰った。
 不思議となずなの胸も、嫌な予感にざわめき黒い霧に覆われていった。

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