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 急激に冷えてゆく室内に、水蒸気が満ちて白く煙る。
 グルージャの一撃に巨大な鱗が砕かれ、熱源を失ったホムラミズチのシルエットが霧の中に身悶え叫んだ。もはや魔物の領域(テリトリー)を熱気で覆っていた、炎の障壁は破壊されたのだ。
 同時に、今が勝機とポラーレが駆け出す。
 背後で新たな方陣をファレーナが練り上げた、その時だった。
 視界を遮る白い霧は、突如吹き荒れる烈火に薙ぎ払われた。
「くっ、弱らせてもこの力っ……ファレーナ、僕の後ろにっ」
 咄嗟に後列を庇った、その瞬間。
 灼熱の業火がポラーレの表面を(あぶ)り、あまりの高熱に全身が泡立ち煮え滾る。
 高い耐火(レジスト)能力を誇るポラーレの肉体は今、まるで獣油の固まりのように沸騰していた。自身を構成する物質が、次から次へと零れ落ちてゆくのを感じて、意識が遠のく。
「ポラーレ、無茶を! 酷い手傷だ……わたしを(かば)って?」
「う、ぐ……いや、身体が自然と、ね……」
 ずるりとファレーナの腕の中で、自分がぐじゃぐじゃに崩れてゆくのをポラーレは感じた。そして、気付いた。
「僕は……どうして、笑って」
「それはわたしの台詞です! どうしてわたしなどを……そして、そんな寂しい笑みを」
「いや、それは……多分、滑稽(こっけい)だから、かな」
 あらゆる生命を凌駕する、無敵の錬金生命体。虚ろなる禁忌で駆動する戦闘装置。そんな自分が今、仲間を庇ってその活動を停止しようとしている。
 それが死とはまだ言えないくらいには、自分を生き抜いたとも思えないのに。
 だが、そんな彼を胸の中に抱き寄せ、白い影が引きずるようにホムラミズチから距離を取った。ファレーナはまだ冷静だったが、その声音は初めて焦りと驚きを滲ませている。
「滑稽なものか……なにもおかしくはない! それをあなたはわかっていない」
「そう、かもね……グルージャは無事、だろう、か。最後にせめて、娘と、君だけは」
 はつれてゆく意識がとぎれとぎれになり、ノイズの交じる周囲の音が遠ざかる。
 霞んでぼやける視界には今、晴れゆく霧の中に爆炎を彩るホムラミズチの巨躯。その口から再び炎が放たれると、すぐ近くで新たな悲鳴があがった。
 それは、人が人であるがゆえの悲劇で、自分もまたそうだったのかとポラーレに自問自答を跳ね返らせる。
「姉様! どうして私などを……姉者! 姉者なら今の攻撃、たやすく」
「ぴーぴー泣くでないわ、しょうのない愚妹じゃあ……いちち、これはしかし、やばいのう」
 なずなを庇って尾の一撃を受けたしきみが、そのまま崩れ落ちて動かなくなった。そんな姉を抱き寄せるなずなの涙も、放たれた轟炎の中へと消えていった。
 火の海と化したホムラミズチの玉座は今、ゆらめく陽炎の中に主の威容を浮き立たせる。
 全滅する……その最悪の予感すらも、ポラーレの思惟が薄れて消える中に溶けていった。
「あらあら、これはまずいわ。やっぱりワールウィンドの言った通りね」
「ファルファラ、すぐにこの人を連れて引いてくれ。わたしはしきみとなずなを……ファルファラ?」
 ファレーナの声が聞こえて、それを引き剥がすようなファルファラの声色だけがいつも通り。
 そう、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した今も、ファルファラだけが泰然としていた。
「あなたたちならもしやと思ったけど、やっぱりホムラミズチは倒せないわよねえ? ふふ、しょうがないわ……巨人の心臓はワールウィンドがなんとかするしかないじゃない」
「ファルファラ、なにを……どこへ!? 待て、仲間を……わたしが最後尾に立つ、だから」
「察しが悪いんじゃないかしら、ファレーナ。あなた、もっと賢い女でしょう? ……こう言わないとわからないかしら。敗色濃厚だからこの辺で失礼させてもらうの。わかる?」
「ファル、ファラ……?」
 ファルファラの気配が徐々に薄く遠ざかる。声だけはしかし、嫌に鮮明にポラーレの脳裏に響いていた。彼女は「お宝も頂戴してきたしね」と、腰の太刀を鳴らして笑う。
 なんということだろう、二人の射手がやられ、自分も戦闘不能だというのに……ファレーナただ一人を残して、ファルファラは逃げるというのだ。何が起こったかわからぬまま、それでも途切れかけの意識を必死でポラーレは繋ぎ止める。
「ファル……ファ、ラ……何故、だ」
「あら、まだ生きてる。……死んでないだけかしら? どっちでもないわよね、人間じゃないもの、あなた。そうね……お仕事なのよ、ビジネス。以前のあなたと一緒、一緒よ――!?」
 それだけ言ってファルファラが立ち去ろうとした、その時だった。
 空気を引き裂く音を響かせ、何かが彼女へ向けて飛来した。
 ――それは、焦げてなお鈍色(にびいろ)に輝く、鋼の銀腕。ガシリとその手は、ファルファラの腰にぶら下がる太刀を鷲掴みにした。
「ちょ、ちょっと何? これ……まさか」
「ファルファラ殿……どちらへ行かれる? 姉者の弔い合戦、嫌でも付き合ってもらおうか」
「か、勝手に……殺すで、ないわ……ふふ、馬鹿な愚妹ぞ」
 その声のする先へと、ゆっくりとポラーレは首を巡らせる。
 業火の中より姿を現したのは、なずなだ。その右手から伸びるケーブルが今、ファルファラへと繋がっている。彼女の義手が伸びてきて、ファルファラを飾る装飾の一部と化していた太刀を引きちぎった。そのまま金属音がケーブルを巻き取り、再び機械の義手はなずなの腕に収まる。
 なずなは肩に、うごかなくなったしきみを担いで、確かに言った。……姉者、と。
「長い夢を見ていたようだ……あの氷嵐の最中、私は。そして今、今度は煉獄の最中で」
「あ、あなた、記憶が――」
「ファルファラ殿、後ほどゆっくり話を……だが、今は!」
 そっとしきみを降ろした瞬間、抜刀と同時になずなが風になる。それは炎すら切り裂き馳せる、疾風。
 そして、抜き放たれた刃から零れ出る異様な光に、ポラーレの意識も鮮明さを一瞬取り戻す。
 その、わずか一秒に満たぬ瞬間、ポラーレは抱いてくれるファレーナの上体をよじ登った。
「ファレー、ナ……力を、貸して、ほ、しい……君の、力が……君が、必要だ」
「ポラーレ! 動いては駄目だ、あなたが零れてしまう。もうこんなに」
「うん、だから、こそ……頼むよ、僕を――」
 最後のつぶやきは届いたと信じている。
 ファレーナが頷いてくれたと、もうポラーレにはわかっていた。
「幕を引こうぞ、ホムラミズチ! 姉者の無念、この一刀に……吼えろ、天羽々斬(アメノハバキリ)!」
 荒れ狂うホムラミズチへと、大上段に剣を構えてなずなが翔ぶ。掲げた刃が集まる光が、まるで周囲の炎を気圧してゆくように捻じ曲げた。炎嵐(バックドラフト)の最中、一刀両断の光が縦にホムラミズチを貫く。が――
「くっ、義手が限界か……浅い!? しまった、天羽々斬が」
 ホムラミズチの燃え盛る毛並みを切り裂き、確かになずなの一撃は致命傷を与えた。だが、同時に義手が爆発して滑落し、彼女自身もきりもみ失速して地に落ちる。
 突き立った剣だけが、まるで打ち込まれた(くさび)のようにホムラミズチを絶叫させていた。
 だが、僅かに垣間見えて消えたかに思えた勝機を、無理やりこじ開けるようにポラーレが立つ。
「ありが、とう……ファレーナ。僕は、まだ、戦え、る……」
「……このような無茶、長くは。でも、だから。わたしも一緒に」
 方陣の光の中心に、ゆらりとポラーレが立つ。普段から身を覆う漆黒のクロークも今はなく、しかし五体を形成する暗黒の身体には光が筋と走って駆け巡った。
 その異形の姿に、逃げることも忘れてファルファラが声をあげる。
「嘘……あなたたち、なんてことを。ファレーナ、その人を、仲間を術で」
「こうして、縛らないと……僕自身がどんどん、零れて、しまうからね」
 この身体で全力は出せない、それはわかっていた。だが、立つことができた。そして今、走り出す。ホムラミズチにトドメを穿(うが)つために。


 まるで倒れ込むかのように前傾した瞬間、弾丸のようにポラーレは飛び出した。
 彼自身が人の姿を維持していられるのは、全て術に精神力を擦り減らすファレーナのおかげ……ポラーレは、自分の全身を方陣で縛らせたのだ。そうすることで能力は落ちるものの、今の姿を維持できる。人の形をした獣となって疾駆し、仇敵の喉笛を今……噛みちぎるのだ。
「なずな君、あとは僕、が……」
 繰り出される爪と爪とをかいくぐりつつ、ホムラミズチの首筋に突き立つ天羽々斬を、その柄を両手で握って力を込めるポラーレ。彼はそのまま、一気に体重を乗せて払い抜けた。
 着地と同時に倒れ込むポラーレは、背後でずるりとホムラミズチの首が落ちる音を聞いた。

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