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 雲海を疾駆する気球艇を、冷たい月明かりが照らす。
 船上の人となったポラーレたちの誰もが、寒風へ身を晒していた。
 見も凍るような寒ささえ今、忘れるほどの緊張感。先程から黙して語らぬポラーレとは対照的に、舳先(へさき)に立つサジタリオとヨルンだけが言葉を交わす。
「っしゃあ、野郎いやがったぜ! 前方にワールウィンドの船だ」
「流石に目が利くな、サジタリオ。レオーネ、寄せてくれ。両舷減速だ」
 船尾で舵輪を握るレオーネが、ヨルンの言葉に小さく頷いた。
 ヴィアラッテアの快速艇、エスプロラーレが徐々にスピードを緩める。その先、雲の波間に浮かぶのは小さく古い一隻の気球艇だ。今はエンジンを止めて風に揺られている。緑色の気嚢(きのう)まではっきり見える距離で、ふとファレーナは肩に触れるぬくもりに気付いた。
「……夜は、冷えるよ。これを」
 ふと目を落とせば、小さなギルドマスターことポラーレが黒いマフラーを自分へとかけてくれた。宴会の席からそのまま飛び出してきたファレーナは、肌も(あらわ)なドレス姿だったから。無意識に肩を抱いていたのが、寒そうに見えたのだろう。
 ポラーレは自分を構成する貴重な一部で、優しくファレーナの素肌を覆った。
 その伸びゆく先で、彼の白い横顔が無機質に尖っている。それがもう、異常事態にいらついているのだとわかるくらいにはファレーナは近い。身体の距離も、気持ちの距離も。
「ありがとう、ポラーレ」
「うん。その、こんな時だけど」
「こんな時、だけど?」
「ええと……そのドレス、凄く――」
 真っ直ぐ見上げてくるポラーレの視線が、その時二重にぶれて揺らいだ。
 自分が、そして船が揺れたのだと気付いた時には、ファレーナは細い腰をポラーレに支えられていた。
 交わす眼差しに濡れた想いを巡らせる間もなく、サジタリオとヨルンの声が響く。
「クソッ、なんだ!? 空で座礁(ざしょう)たぁ笑えねえ!」
「まて、下に船が……大きい。浮上してくるぞ」
 その時、甲板上にいたファレーナたちを闇が覆った。正確には、浮上してきた巨大な船が、その絶壁のような船体で月光を遮ったのだ。その時ファレーナは見る……せり上がり圧してくる漆黒の中に、赤く塗られた巨大な紋章を。
 それを誰もが目にして絶句した、次の瞬間にはレオーネが叫んでいた。
「これは……帝国近衛艦隊! 艦番1301……旗艦フォルテギガス!」
 漆黒の巨船は、ワールウィンドの気球艇への航路を遮るように浮上、そのまま並んだ大砲をこちらへと向けてきた。鋼鉄の装甲を張り巡らせた軍船、戦艦だと一目で知れる。だが、そんな技術はタルシスはおろか、ウロビトにもイクサビトにも覚えがなかった。
 正体不明の大戦艦に押しやられる形で、傾くエスプロラーレ。
 誰もが甲板上で何かにしがみつく中、今尚ファレーナはポラーレに身体を支えられていた。
 そして見る……強行接舷してきた謎の軍艦から、一人の影が跳躍するのを。
 ようやく距離を取って安定したエスプロラーレを、再び月光が照らす時……ファレーナは仲間たちと共に見た。機械細工の鎧に身を包んだ、見目麗しい金髪の騎士を。
「そこまでだ、動くな冒険者。動かば我が砲剣の(さび)となること、覚えておくがいい」
 凛とした女の声が響いた。有無を言わさぬ高圧的な、強い意思を秘めた声音。
 そう、舞い降りた騎士は女だった。彼女はその手に握った異形の大剣を、ガツン! と甲板へと突き立てる。黄金の鞘に覆われたその剣は、奇妙な唸り声を上げながら白い煙を(くゆ)らしていた。
 女騎士に表情はなく、ただ(うろ)のように仄暗(ほのぐら)い瞳だけが一同をねめつけてくる。
 誰がも言葉を失ったが、同時に察した。動けば斬られる……この女の発する言葉はハッタリの(たぐい)ではないと。身も凍るような殺気を全身から発散させる、抜身の刃のような美貌が時間を静止させていた。
 ――ただ一人、ヨルンを除いでは。
「……生きていたな、デフィール」
 ヨルンの声に、誰もが驚きの声をあげた。
 ファレーナもまた、ポラーレと顔を見合わせる。
 デフィール、それはヨルンにとって妻の名だ。彼にとっての半身であり、全てであるかもしれない名なのだ。言われてみれば確かに、眼前の女騎士は以前見せられた写真というものにそっくりだが……時折ヨルンが語ってくれた人となりは、微塵も感じられない。
 触れる全てを切り裂くような、冷徹な意思が伝わってくるだけだ。
 それでもヨルンは、無防備にゆっくりと歩み寄る。
 そんな彼を引き千切る、言葉。
「貴様は……誰だ? 名乗れ、冒険者」
 女騎士は片眉を釣り上げ、見下すように背を僅かに反らした。
 ファレーナは初めて見る……氷雷(オーロラ)錬金術士(アルケミスト)の無表情に動揺が走るのを。そして、そのことにポラーレやサジタリオといった百戦錬磨の男たちでさえ、驚きを隠せない。
 ヨルンへと突き立てられた言葉の刃は、そのまま彼を抉って刺し貫いた。
「私の名はエクレール! 栄えあるバルドゥール皇子殿下の下僕(しもべ)、帝国筆頭騎士代理である!」
 ――エクレール、それが非情な現実の名。
 彼女は、ヨルンが心身を削って探し求めた伴侶ではないのか?
 それとも何か事情が、そう思えてファレーナは錫杖を構える。傍らではポラーレも矮躯を沈ませ腰の太刀に手をかけた。サジタリオに至ってはもう、弓に矢を(つが)えている。
 だが、ヨルンだけが呆然と立ち尽くし……再度一歩、エクレールへと歩み寄った。
「俺を忘れたか、デフィール」
「忘れるも何もない、知らぬと言っている。貴様らは我らが筆頭騎士殿の任務を阻む障害と認識した」
「筆頭騎士? 任務……」
「コードネーム、ワールウィンド……それが筆頭騎士ローゲル卿の仮初めの名」
 点と点でしかない符号が全て繋がり、その線はさらなる闇の彼方へと続いている。
 帝国、騎士、任務……だが、その全てが冒険者たちの日々に今まで散りばめられていた。その先にワールウィンドという男の影がちらついていたことも。
 だが、どうやらそんな謎解きも今はヨルンの思慮の埒外のようだ。
 彼はふらりと一歩、また一歩エクレールへと近づいてゆく。
 それは、エクレールが巨大な剣を引き抜き、黄金に輝く鞘を捨てるのと同時だった。
「愚か……我が剣を恐れぬか。ならば身を持って知るがいい! 帝国が誇る剣技を!」
 エクレールが両手で振り上げる大剣が、金切り声をメカニカルに歌い上げる。彼女を中心に空気は渦を巻き、ただならぬ闘気が凝縮されていった。繰り出されるはいかなる剛剣か、しかしそれを知るのは危険過ぎる。
 それでもヨルンは、無防備に妻を信じて歩み寄る。
 慌てて方陣を張り巡らせようとしたファレーナは、驚きに目を見張った。
「くっ、あの剣は……いけません、ヨルン殿! ええい、南無三(なむさん)っ!」
 誰よりも速く躍り出たのは、船尾で舵を取っていたレオーネだった。彼は巨大な盾を構えつつも、電光石火の早業でヨルンの前に立つ。普段の凡庸な、どこか野暮ったくうだつがあがらないフォートレスの技ではない。同じ城塞騎士のエミットがこの場にいたならば、疾風もかくやという俊敏性に驚嘆しただろう。
 己をエクレールとヨルンの間へ滑りこませて、レオーネが盾を身構えた。
 刹那、閃光がファレーナの視界から全てを奪って塗り潰した。
 一拍の間をおいて、轟音と爆風が吹き荒れ船が激震に揺れる。苛烈な光が迸り、その直撃を受けたレオーネが飲み込まれていった。
 そしてファレーナは見る……レオーネが大切にしている、あの重く分厚い大盾が、木っ端微塵に打ち砕かれるのを。だが、それよりも驚いたのは、
「くっ、アサルトドライブでこの威力……筆頭騎士代理の名に恥じぬ腕! しかぁし!」
 断ち割られて砕かれた盾の中から……一振りの剣が現れ、エクレールの一撃を受け止めていた。その柄を握るレオーネは、ゆっくりと両手でそれを構えて騎士の礼に捧げる。
 レオーネの手にもまた、エクレール同様に機械仕掛の巨大な剣が握られていた。


 その意味するところが解らず、混乱の船上でファレーナは情勢を油断なく見守る。
 傍らのポラーレに今、さらなる悲劇が襲いかかろうとしているとも知らずに。

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