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 第一大地、風馳ノ草原(カゼハセノソウゲン)を吹き抜ける風は今、冷たい。
 しかし、漆黒の闇を渡ってくる空気もポラーレの体温を奪い去ることはできなかった。もとよりないものは奪えない道理で、必定(ひつじょう)彼が凍えて震えることもない。
 ポラーレは今、タルシスの巨大な大風車の屋根にぼんやり座っていた。腰に下げた太刀から流入する力で、どうにか普段の姿を保っている。だが、心なしかその背中はいつにも増して頼りない。
 見上げる先にぼんやり輝く蒼月(おぼろづき)は、大風車の羽根に隠れては現れ、また隠れる。
「こんなところにいたのか、ポラーレ」
 ふと声がして、ポラーレは這い出てきた窓の方を振り向いた。
 そこには、自分を追って屋根の瓦へと降りる氷雷(オーロラ)錬金術師(アルケミスト)が立っている。白い無表情はいつも通りなのだが、なぜだかポラーレにはヨルンが別人に見えた。
 否、今の彼こそがヨルンその人なのだ……氷雷の錬金術士ではなく、彼本人なのだ。
 そう思えるくらいには親しく、そのことが不思議でも不快でもない。
 ただ、初めてみるであろう友の素顔が、どこか寂しげなのは残念だった。
「月を、見ていたんだ」
「月か」
「うん」
 ポラーレの隣にヨルンも腰を下ろした。
 黙って二人は、月を見上げる。


 (きら)めく星々の瞬きに比べれば、今宵の月は(おぼろげ)に揺れて不確かにさえ思える。その姿は不安を誘う一方で、ポラーレのような人間には……バケモノには、不思議と心地よく見えた。
 月はいつでも、闇を等しく照らして揺れる。夜の闇も、人の闇も。
 二人は随分と無言で、並んで月を見ていた。
 だが、ヨルンは思い出したように胸元から小瓶を取り出す。
「コニャックだ。やるか?」
「……うん」
 ヨルンは瓶から直接蒸留酒を飲むと、口元を拭いながら差し出してくる。
 受け取るポラーレもまた、それを流しこむように煽って少しむせた。
 だが、喉を焼いて体内に染みわたる酒精の熱さに、自然と感傷的な気持ちが和らいでゆく。
 そう、自分でも笑える話だと思いつつ笑えない、今のポラーレはセンチメンタルなのだった。そのこともまた不思議でもなく、不快でもない。そんな自分になって随分経つのに……そうあるように無意識に促してくれた人が、今は側にいない。
 自分の弟を名乗る同族、錬金生物兵器クラックスにファレーナはさらわれたのだ。
 その事実を思い出して噛み締めつつ、ポラーレは小瓶を返しつつ言葉を選ぶ。
「変な話だけどね、ヨルン。僕は……君の気持ちが、なんだか、その。わかる。気が、する」
「そうか」
「うん。妙なんだ……胸にこう、ぽっかり穴が空いたような。おかしいね、僕には思考と反射だけで、感情なんてない筈なのに」
 だが、ヨルンはいつもの無表情でコニャックを煽ると、その瓶をまたポラーレの胸に押し付けてくる。
「俺は錬金術士、科学の信徒だからな。ないものに穴が空くという話なぞ、聞いたことがない」
 そして、一度言葉を切ってからヨルンは声に真剣さを滲ませた。
「逆説的に言えば、だ。穴が空いたと感じるだけのものを、お前は持っていた……そういう理屈ならわかるのだがな。どうなんだ?」
「……僕に、かい? その、心……とか?」
何か(こころ)はわからん。だが、『何か(きもち)』があって、そこに穴が空いたのだろう?」
 何故、どうして穴が空いたかまではヨルンは語らなかった。
 だが、代わりに首元のマフラーで鼻まで覆うと、小声でモニョモニョと語り出す。それは、彼らしからぬ珍しい独り言で、小瓶を傾けるポラーレには以外な告白だった。
「ついにあいつを見つけたが、俺は動揺した。俺のことを覚えていないのだからな」
「デフィールさん、奥さんのこと、だよね。あのエクレールという騎士は」
「間違い様がない、あれはデフィールだ……」
「でも、記憶が? 洗脳? どっちにしろ、君を覚えてはいなかった。その痛みがね……想像でも知覚でもなく、実感として僕には今」
「……ファレーナのことか」
 黙ってポラーレは頷く。
 自分の中でも定義は曖昧な、だが存在感だけは確かな人物。その温もりも気配も今はなく、清水のように鼓膜へ伝搬(でんぱん)してくる声も聞こえない。その全てがなくても、いてくれるだけでよかったのに……それすら今は望めないのだ。
 二人の間に沈黙がたゆたったが、その間も風鳴りに(きし)む大風車の音と、その合間から月光を注ぐ月だけがあり続ける。小瓶の中はとうに空で、しかし二人とも酔えずに夜空を見上げていた。
「知っているか、ポラーレ。あの月は……自ら光る星ではないという」
「天文学かい?」
「ああ。アーモロードで少し占星術をかじってな。あれは、太陽の残滓を集めて反射する光だそうだ」
「そうか。それでも、月がどれだけの闇を照らしてきたか。僕にはあの冷たい光でさえ、あたたかい」
 とりとめのない言葉と言葉が行き来する中、ヨルンの不器用な気遣いにポラーレは感謝した。同時にまた、自分も友を気遣いはじめてることに小さな驚きを感じる。
「太陽に背を向け、グルージャと二人で生きてきた、けど。そんな僕を照らす月があるとすれば……守り、たい」
「ああ」
「守りたい……いや、でも冒険者風に言うなら――」
 ポラーレは立ち上がって、空へと浮かぶ月へと手を伸べた。
「奪いたい、奪い返したいんだ。例え自分以上の後継種(ハイモデル)と刺し違えても」
 ヨルンも立ち上がると、ポンとポラーレの背を叩いてくる。
「それは俺も同じこと。……奪い返すぞ。力ずくでもな。そして」
「うん。僕らの見上げる星を奪った者には……相応の報いを」
 二人には今、取り戻したい存在があった。それを渇望する望みが不思議と、今のポラーレにはわかる。理解を超えた場所で感じるのだ。その更に先に、何があるかもわからないままに。
 同時に、今までずっとこんな想いを抱えてきたヨルンの、衝撃の再会を思えば胸が痛む。
 穴が空いたと空虚を感じて、軋るように痛むとまで思わせる……それがもう、自分にはあるのだろうか? その答もまた、ポラーレだけの月が知っているような気がした。
「よう、お二人さん。こっそりちびちび月見酒かい?」
「オイラたちも混ぜちゃくれないかい。たまには野郎同士で飲む酒もいいだろうさ」
 ふと振り向けば、窓から降りてくるサジタリオとコッペペがニヤニヤ笑っている。二人の手には酒と料理があって、ポラーレはようやく虚脱感にひたる自分を虚無の海から引き上げた。人に寄り添い生きると決めた、人の闇に影となって暮らすとも覚悟したのに……今は人の横に、前にいるほうが心地よい。
 今は月夜と見上げるあの人にも、いつか同じように接することができたらと。
 そう思うポラーレは自然と、気負って緊張した肩の力が抜けるような気がした。
 同時に、実際に力が抜けて再びポラーレの姿は少年とも少女ともつかぬ矮躯(わいく)に縮む。
「あっ……ま、まあいいか。少し力を節約しておきたいし」
「なんだ相棒! まだ全回復って訳じゃねえんだな。……すげえ相手だったもんな、あの金髪蜥蜴(トカゲ)野郎」
 コッペペが「蜥蜴野郎?」とサジタリオに聞き返す。
「だってよ、なんか陽気に陰湿っていうか、矛盾だけどよ。そういうとこが蜥蜴っぽいんだよ」
「なるほどな。まあ、次のミッションで会ったら言ってやれよ。オイラもイメージはそんな感じだしな」
 ミッションの話が出て、ポラーレはヨルンに視線で問い掛ける。
 ヨルンは既に新たな酒瓶へと手を伸ばして、その栓を抜きながら手短に語った。
「辺境伯が帝国側と対話を持つ。その護衛任務が俺たちのミッションだ……来るな? ポラーレ。いや、聞くまでもなかったな」
 ポラーレ無言で頷き、改めて相棒や悪友とも瓶と瓶とで乾杯を交わす。
 この日、ヴィアラッテアとトライマーチは、新たなミッションを受領し、再行動を開始したのだった。

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