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 ファレーナが見上げる帝都の空は、四角い。
 帝国へと連れ去られて一週間、王宮の一室に閉じ込められた彼女にとっては、窓だけが外との繋がりだった。灰色の空はどんよりと低く、時折行き交う気球艇の黒光りが物々しい。尖塔(せんとう)の並ぶ周囲の建築様式は、故郷ともタルシスとも違うし、イクサビトの里とも異なって物珍しかったが……尽きぬ興味を向けている余裕も今は持てないファレーナだった。
 何故なら、豪奢(ごうしゃ)な調度品が並ぶこの部屋に幽閉されてから、常に監視されていたから。
 監視というにはあまりに無邪気でなれなれしく、言えば席を外してくれる男によって。


「ほら、ファレーナ。見てよ! これがラジオだよ。帝国の短波放送が拾えるんだ」
 今日もファレーナの部屋に現れた青年は、手にした小箱のダイヤルをいじりながら耳に当てては微笑む。まるで少年のようにあどけなく、ドアの外の物々しい気配も忘れさせてくれる。
 だが、何を忘れようともファレーナは記憶するだろう。
 この男、クラックスは仲間を襲った敵なのだと。
「気分がすぐれないんだ。悪いけど出ていってほしい」
「おかしいな、どのチャンネルも緊急放送ばかりだ……ん? 大丈夫? 平気?」
 敵意を込めて冷ややかに眇めつつも、努めて目を合わせないようにファレーナは視線を外す。そうしてまた窓の外を見やるのだが、クラックス本人がじゃれる子犬のように視界に割り込んできた。
 軟禁のストレスで強張った神経を、クラックスの一挙手一投足が逆撫でしてくる。
「えっと、熱……は、ないね」
「気安く触らないでもらえるだろうか。……君は、温かいのだな」
「ん? ああ、僕は兄さんと違うからね。面倒なもんだよ、体温があるのって」
 ファレーナは額へ当てられた手を払い除けつつも、触れた温かさに意外な驚きを感じた。
 見慣れた無色(モノクローム)を悪趣味に塗り染めたかのような、全く同じ輪郭を持つクラックス。彼はファレーナの知る人物と瓜二つなのに、驚くほどに表情豊かだ。彼が兄とうそぶく人物は、決して笑ったり泣いたりはしないし、能面のような白い無表情しか見せてくれないから。
「だいたい、おかしいんだ。完全体たる僕になぜ、父さんは人間の機能なんかを」
「父さん? 父、とは」
「メルクーリオ博士。僕と兄さんの創造主さ。今はどこにいるのかわからないけど」
 さして感慨がある様子も見せずに、クラックスはラジオとやらをいじくりまわす作業に戻った。彼の手の中で小箱は、ノイズ混じりに若い演説の声を垂れ流してくる。そのこと自体には全く興味を示さず、クラックスは小箱を揺すったり叩いたりしながら言葉を続けた。
「父さんにも見せたかったな。僕の完全勝利さ、演算通りだったよ。スペック上、もっと抵抗できるとも思ってたけど。まあ、想定の範囲内だったね」
「それは……あの人は、私を……守ったから」
「守った? 君を? ……どうしてだろう。君に戦術的な価値があるとは思えないんだけど」
 そこまで言って顔をあげたクラックスは、ラジオを放り出してファレーナに向き直った。そうして強引に彼女の手を握りながら顔を近付けてくる。
「あ、でも無価値じゃないよ! 君は、綺麗だ。美しいよ、本当に。だから僕、嬉しいんだ」
「――ッ!」
「その、怒った顔も素敵。ねえ、ファレーナ……そろそろ僕のものになってよ」
「答えは昨日と同じだよ、クラックス君。明日も、明後日も、未来永劫ずっとだ」
「ちぇっ、つれないなあ……ふふ、でもそんなとこも好きだよ、ファレーナ」
 クラックスは屈託なく笑って、そっとファレーナの手を離す。そうして腕組み窓辺に立った彼は、不思議そうに小首を傾げた。
「でも、理解できないよ。僕は兄さんより優れてることを証明してみせたんだ。どうして?」
 心底理解しがたいと言わんばかりに、やれやれとクラックスは肩を竦めてみせる。
 ファレーナは生理的な嫌悪感を感じると同時に、どこかこの男が憎めずにいた。憎しみという感情を向けるに値しないほどに、未成熟で無垢……からっぽなのだから。
「わたしは優れているものだけを好むわけではないよ。それとも、もう一つ」
 ファレーナは肘を抱くと、ため息混じりに吐き捨てた。
「君が彼より優れているとは思えない。……あの人は、戦うだけが全てではないのだから」
 後半、消え入るように零れた言葉が自分に跳ね返る。そうだと確信しているし、そうであれと祈り願う自分が気付けば存在していたから。だから、ファレーナは毎日執拗に関係を迫るクラックスに、頑として首を縦に振らなかった。それが敵地の真っ直中で、どんな結末を呼び寄せてるかをうすうす感じながら。
 それと不思議な話だが、クラックスは力で無理にと迫ってはこなかった。だが、紳士的な態度を気取っている訳ではない……焦れるままに獲物をいたぶる肉食獣のような愉悦を楽しんでいるのだ。
「なんか、わからない話ばかりだ。でも、酷く興味をそそるよ」
「それはよかった。わたしもこの部屋に閉じ込められて退屈だからね。相手が選べぬとはいえお喋りの時間は嫌いじゃない」
「そう? よかった! だよね、うんうん……本当は外に連れ出せればいいんだけど。百貨店(デパート)、ってわかるかな? おっきなお店の塊があってね、何でも売ってて……連れて行きたいなあ」
 そう言って笑うクラックスは、本当に純朴な少年のようで。全く表情も顔色も違うのに、不思議とファレーナにはあの人に……ポラーレに重なって見えた。それも一瞬のことで、すぐにクラックスはポン! と手を叩くと、
「よし、じゃあ……行けばいいんだよね。行こう、ファレーナ! 僕、帝都を案内するよ。勝手に出歩くと教授が怒るんだけど、大丈夫。ふふ、教授だって本当はわかってるんだから」
「教授?」
 一週間目にして、クラックスとの会話に初登場の名前が湧いて出た。
 そのことを問いただそうとした時、ノックと同時に背後で部屋のドアが開く。
 そしてしっとりと響く声に、香水の匂いが僅かに入り混じる。
「カレン・カンナエ教授。今のところ、クラックス君の飼い主よ。帝国で禁忌学(きんきがく)を研究しているわ」
 振り向くとそこには、ファルファラの姿があった。
 彼女には問いただしたいことが山ほどあったが、ファレーナは目元を冷ややかに細めて睨む。その尖った視線の刃を受けて尚、ファルファラは泰然と部屋へ歩み入ってきた。
「飼い主は酷いなあ、ファルファラ。僕は教授の恋人だよ? ……愛人? かも」
「そういうのはね、ボウヤ。君にはまだまだ早いわ。遊ばれてるんだから」
 喉の奥で笑うファルファラに、クラックスは「遊んでるんだよ! 僕が!」と唇を尖らせる。
 二人のやりとりを見やりながら、この停滞した幽閉生活に変化が訪れつつあることをファレーナは察した。今の今まで、この部屋にはクラックスしか訪れなかったから。
 ファルファラは、察したファレーナを満足気に見やると本題を切り出す。
「そのカレン教授から伝言よ。そろそろウロビトを引き渡せって。実験したいそうよ?」
 瞬間、ゾクリとファレーナの背筋を冷たいものが走った。
 気丈に振る舞って、自分に平静を戒めつつ一週間を耐えてきたつもりだった。だが、こうなることも覚悟はしていた。(とりこ)の身なれば、生殺与奪は全て帝国に委ねられているのだから。
 それでも、今まで正気を保てていたのは、信じているから。仲間を、友を……あの人を。
 改めてそれを胸の奥に確かめ、ファレーナが深呼吸したその時。空気が引き裂かれた。
「嫌だっ! 嫌だ嫌だ、ダメだっ! ファレーナはわたさない、教授の言いつけでもだ。実験なんかに使ったら、ファレーナがめちゃめちゃにされちゃう。そんなの、嫌だね」
「じゃあどうするの? 君ね、クラックス君。子供みたいなこと言ってもダメよ」
 だが、クラックスは駄々っ子のように、嫌だ嫌だダメだダメだと聞き分けがない。そうまでして自分に執着してくるのは、なんだか気味が悪くてファレーナの肌が粟立つ。
「これは僕のだ! ファレーナは、僕が勝ち取ったんだ。……もういい、僕から教授に言うよ。大丈夫、僕がお願いすればわかってくれるんだから」
 それだけ言うと、大股に歩いてクラックスは部屋を出て行った。バン! と乱暴にドアが閉じられ、そして静寂が訪れる。
 緊迫の時間が過ぎ去った余韻に、ファレーナが安堵の溜息を零していると、
「彼、子供でしょ? ……でも、暫く時間は稼いでくれると思うわ」
 ファルファラは意味深な笑みを浮かべた。まるでファレーナを安心させるように呟き、同時に不安を煽るような視線で貫いてくる。
 だが、ファレーナの覚悟は変わらない。助けが来るまで、なんとしてでも身を守る。身も心も……勿論、貞操も。そしてそれは、ファルファラに見透かされているようだった。
「とりあえず報告よ、ファレーナ。帝国側がタルシスの辺境伯と会談を持つの」
「!? ……話し合いを、するのか。では」
「ふふ、一方的な最後通牒になるかもしれないけど?」
「帝国はいったいなにを……知っているのではないのか、ファルファラ」
 問い詰めるもファルファラはただ、肯定とも否定とも取れるアルカイックスマイルを浮かべるだけだった。

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