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 巨大な石の水道橋(アーチ)が、その向こうに帝都の朝を閉じ込めている。
 それでも、僅かに聞こえ伝わる都会の喧騒が、東の空に登った太陽に照らされ届いた。
 遥か彼方、絶壁にも似た水道橋へと目を細めて、ラミューは窓からの風に頭巾を抑える。
「いい朝だぜ、ヘッ……辺境伯の旦那ぁ、大丈夫なんだろうな」
 ここは南の聖堂、帝国側が会談に指定してきた神聖なる地だ。寂れて魔物も跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しているが、今は甲冑姿の帝国兵たちが警備しているため、害意も影を潜めている。
 だが、ラミューにはその威圧的な雰囲気が気に食わない。
 鉄兜(フルヘルム)で顔を覆った兵士たちは、手に持つ槍を構えて扉という扉に立っている。そんな彼とも彼女とも知れぬ連中の、妙な視線を先程からラミューは感じるのだ。
「どうしたよ、アバズレ。何をさっきから苛立ってんだ?」
 隣であくびを噛み殺すのは、眠そうな目をこするクラッツだ。彼は辺境伯が消えた会談の場、奥の大広間へと視線を走らせる。そこへの扉もまた、二人並んだ兵士の槍と槍とが交差していて、出ることも入ることも拒んでいるかのよう。
 そしてやはり、ラミューは兵士たちの眼差しを感じて気持ちがささくれだった。
「なんでもねえよ、それよかクラッツ。例の奴が……旦那の自称弟がいねえ」
「ああ、見れば一発でわかるくらい似てるらしいからな。だが、そんな野郎は見当たらねえな」
 先ほど扉が開いて辺境伯が吸い込まれた瞬間、奥にエクレールとかいう女騎士はいた。だが、クラックスと名乗った金髪の男は、この聖堂のどこにも見当たらなかった。
「クソッ、焦れてきやがったぜ。何だ? 何故こうも胸がざわめきやがる」
 ――こんな時、側に義兄(あに)が……クアンがいてくれれば。
 だが、義理の兄を求めているのか、クアンという男を求めているのか……それが今の自分にはわからない。わからないなりにただ、側にいて欲しいという想いだけが確か。
「落ち着けラミュー。クラッツもだ」
(しか)り。こちらから殺気立っては、まとまる会談もまとまりますまい」
 ふと振り返れば、普段通りの無表情を凍らせたヨルンが壁に寄りかかっている。その横では、真紅の鎧に身を包んだレオーネも一緒だ。彼らは持ち寄った文庫本や新聞などを読みながら、実にゆったりと緊張感を解いている。
 そしてそれは、先ほどから黙って立ち尽くす黒衣の男も同じだった。
「ラミュー君、焦りは禁物だよ。まずは辺境伯を警護しつつ、無事に会談を終わらせてもらおう。その後で交渉してファレーナを……交渉次第では」
 今、ようやく普段の姿を取り戻したポラーレの表情が冷たく冴え渡る。その白い能面のような顔には、感情といえる全てが宿っていない。ただ、翡翠(アブサン)色の双眸だけが、まばたきすらせずに会談の間を睨んでいる。
 ラミューもまた腰の細剣を確かめるように柄を握って、しばし気を紛らわせる。
 その時、ガシャリと兵士たちが一斉に身を正した。
「……少しいいか、冒険者たちよ。確か、ポラーレ、だったな」
 誰もが首を巡らす先に、片手を上げて兵士たちに休めを促す騎士の姿がある。威風堂々たる甲冑姿には、以前と同じ無精髭の顔が険しい表情を作っていた。
 ラミューが言葉を発するよりも早く、ポラーレが一歩前へと歩み出た。
「ワールウィンド……いや、今は確か」
「帝国筆頭騎士、ローゲル。改めて見知りおいてもらおうか、冒険者たちよ」
 ローゲルは綺麗に撫で付けた髪を手でクシャリと掻きながら、無防備にも歩み寄ってくる。クラッツが腰の剣に手をかけたが、それをレオーネが制した。ラミューもただただ圧倒的な存在感を前に、身動きすら出来ずに見守るしかない。
 これが、あの飄々(ひょうひょう)としたワールウィンドと同一人物だろうか?
 今、目の前にいるのは筆頭騎士の名に恥じない一人の(オトコ)、武門の徒だ。それも凄腕の。静かに今は闘気を潜めているが、それでもラミュー程度では身動きすらできない。
「少し話がしたい。殿下が今、辺境伯と語らっているように」
「先ずは言葉を、という訳だね。だけどローゲル、僕が欲しているのは君の言葉でもないし、皇子殿下とやらの言葉でもないんだ」
 それは、とても冷ややかで平坦(フラット)な声だった。
 ラミューは戦慄した……あまりにも冴え冴えとしたポラーレのその声音に。
「ファレーナはどうした? 彼女は、僕の……僕たちの、仲間だ。何かあったら」
「帝国の賓客としてもてなしている。……どうやら手違いがあったようでな。詫びよう」
 意外なことに、ローゲルが頭を下げた。
 しかし、謝罪の誠意をポラーレは受け取ろうとはせず、受け止めようともしない。
 ただ黙って冷ややかに、じっとローゲルを見下ろす、その瞳は剃刀(カミソリ)のよう。
「……殿下は今、必死で繋ぎとめようとしておられる。人の、帝国の未来を、今へ」
 頭をあげたローゲルの顔には、ポラーレとは対照的に苦渋の表情が浮かんでいた。


 思わずラミューは、敵も味方も忘れて思うままに言葉を反芻(はんすう)する。
「未来を、今へ……? 人の、帝国の……未来?」
「そうだ。この国は今、滅亡の危機に瀕している」
 ローゲルは眉間に深いシワを作りながら語り出した。
「世界樹のたもとに開かれたこの帝国にも、呪いの病は蔓延し始めている。そればかりか、土は腐り作物が育たず、年々生まれる赤子も減るばかり。そこで――」
 ローゲルの言葉が突然、押し開かれた扉の音に遮られた。
 見れば、顔を真っ赤にして湯気を吹き出す辺境伯が、奥の間から飛び出してきた。彼は大股で歩きながら、天井を仰いで開口一番に怒鳴った。
「話にならん! 殿下、なぜそうも事を急ぐのか! 殿下には調和と共存の精神が欠けておる」
 声を荒らげて辺境伯が振り向く先、重々しいドアの向こうから一人の青年が現れた。
 そしてラミューは初めて目にする……金髪の女騎士エクレールを従えた、この国の皇子を。帝国第一皇子バルドゥール、事実上の国の支配者。
 彼は静かに、しかし毅然と一同を睨めつけ言い放った。
「これは我が大義……要請ではない、命令なのだ、辺境伯よ。我が計画に参加し、失われようとしている人の未来を切り開くのだ!」
 だが、辺境伯も負けじと声を張り上げる。
 そして、その一言がラミューを衝撃で揺さぶった。
「いかな大義とはいえ、犠牲を強いれば悪逆は免れぬ! 殿下、殿下は我ら人の世のため国のため……ウロビトやイクサビトが滅んでもいいと申すのか!」
 ウロビトやイクサビトが……滅ぶ? それはいかなる所業と言えども、非道の悪行にほかならない。辺境伯の言葉は清廉潔白な正論だったが、相対するバルドゥールは平然と表情を変えなかった。
 代わりに、その背後でエクレールが巨大な砲剣の鞘を払った。
 そして再度、バルドゥールの言葉が空気を震わせる。
「ならば、辺境伯……残念だが生かしては返さぬ。我が計画を知ったからには、この場に首を置いていってもらおうか! ……エクレール! 皆の者も!」
 バルドゥールの声を皮切りに、周囲の兵士たちが一斉に槍を構えて殺到してきた。
 辺境伯を背に守りつつ、円陣を組むようにラミューは仲間たちと剣を抜く。
「おっ、お待ちください殿下! まだ話を、どうか言葉を!」
 ローゲルの声だけが、重々しくなる甲冑の走る音に掻き消えてゆく。たちまち大広間前の控室は鉄火場と化した。そんな中、ポラーレがヨルンと目配せして、互いに友をフォローし合いながら歩み出てゆく。その先には、あのエクレールが砲剣を構えてバルドゥールを守っていた。
 咄嗟にラミューは理解した……あの女が、エクレールがヨルンの探し求めていた、妻。
 以前見せられた写真と同じ顔が、全く違う無表情を浮かべてマントを棚引かせている。
「ヘイ、クラッツ! 雑魚はオレとレオーネのあんちゃんで引き受ける。手前ぇはヨルンの旦那を援護するんだ、行けっ!」
 同時に、しなる細剣を振るって、ラミューは次から次に兵士を切り伏せてゆく。
 だが、流石にここは帝国領(てきち)……南の聖堂には今、次から次へと帝国の兵士たちが湧いて出て、辺境伯の命を狙って槍を繰り出してきた。フォートレスの技をも駆使して辺境伯を守るレオーネを背に、ラミューが出口への突破を試み踏み込んだ。
 その時、向こうから突出してきた兵士とかち合い、刹那の瞬間に切り結ぶ。
 鋼鉄の兜を両断する手応えと同時に、はらりとラミューの頭巾が解けて舞った。
「いけねっ! 大事な頭巾が! ……ッ!? うっ、な、何だ? う、そ……」
 慌てて頭巾を拾い上げたラミューは、次の瞬間には呼吸も鼓動も忘れて静止した。
 そして、眼前で鉄兜を割られて額から血を流す顔に、思わず絶叫を張り上げるのだった。

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