囚われのファレーナは今、気配を殺しながら走る。
南の聖堂での事件を語ってくれたファルファラが、部屋の鍵を掛けずに去ったから。それが故意かはわからないが、
軟禁されていた部屋の外は広く、回廊には履かされたヒールの音が響く。
深夜だからか、人の行き来は皆無だ。窓の外の月だけが、影をファレーナに追わせていた。
「とにかく、ここを脱出しないことには……しかし、この格好は人目につきすぎる」
ドレスの裾を摘んで走るファレーナは、苛立ちを口にして溜息を零した。
そんな彼女の前から、談笑する声が近づいてくる。
「まずい、巡回の騎士か? ……迷っている時間は」
咄嗟にファレーナは、手近なドアを押し開く。そして、ぽっかり口を開けた暗闇の中へと身を躍らせた。そうして背中で再びドアを閉じれば、壁の向こうで足あとが通り過ぎる。
その二人組の会話が、緊張感で押し黙るファレーナの耳に突き刺さった。
「殿下は? また今宵もエクレールと一緒か……夜の
「不敬だぞ、卿。帝国騎士にあるまじき発言だ。撤回しろ」
「へいへい。しかし、ローゲル卿が復帰なさったんだ、いよいよ殿下も動かれる」
「うむ……全ては救国のため。我ら帝国騎士も、命を賭して殿下を支えねばならん」
二人の騎士が話す声は、徐々に遠ざかっていった。
ドアによりかかり、薄い胸をなでおろすファレーナ。
だが、その時……不意に部屋の明かりが灯った。ファレーナ自身、すでに帝国式の電気灯には慣れていたが、突然の光に思わず手で目を庇う。
ようやく明かりに目が慣れてきた時、彼女の前に信じられない光景が広がっていた。
「!? ……こ、これは」
その部屋は、大小様々な機器が並べられ、そのどれもがランプを明滅させながら微動に震えている。そんな雑多な機械群から伸びるパイプやコードは全て、部屋に鎮座する巨大な水槽に繋がれていた。
ファレーナが目を見張って声を失ったのは、その水槽の中だった。
「ラミュー……まさか、君なのか? いや、だが……これは」
水槽の中には、見知った顔の少女が浮かんでいた。
それも、無数に。
はっきり見て取れる、
思わずあとずさるファレーナは、その時背後で冷たい声を聞く。
「ようこそ、私の研究室へ。実験体から来てもらえるなんて、手間が省けて嬉しいわ」
ぞっとするような、嫌悪を禁じ得ない、その声。
恐る恐るファレーナが振り返ると、そこには半裸の女が白衣を羽織って立っていた。
「はじめましてだな、ウロビト。私はカレン・カンナエ。ここでは教授と呼ばれている」
カレンは自ら名乗ると、白衣のポケットに両手を突っ込み、タバコとライターを取り出しながら歩み寄る。身を硬くするファレーナの横を通り過ぎると、彼女は水槽を背に振り返った。
「説明して欲しそうな顔をしているな? ウロビト」
「……これは、いったい」
「私のかわいい娘たちさ。……
「計画種、だと? では、この娘たちは」
思わずファレーナの言葉に熱がこもり、握った手の平に爪が食い込む。
だが、カレンは気だるげに
「雌雄の機能を併せ持ち、単種での生存、繁殖が可能……知力や体力、全てにおいて既存の人類を凌駕する存在。今は殿下の
カレンの言葉にファレーナは息を飲んだ。
ヒトがヒトを創る……その
「では、ラミューは」
「プロト・ゼロのことかい? 私も驚いたねえ。昔、飼育ケージから持ちだされた個体……初めて成長過程が安定した赤子が、まさか生きていたなんて」
そう言ってカレンは「非常に興味深い」と、眼鏡に光を反射させながら唇を歪める。
その時ファレーナは、形容しがたい怒りに心身が震えるのを感じた。
「
だが、ファレーナの言葉に淡白な答が返ってくる。
「何かを思うような無粋はなしさ。私はただ、生命とはなにかを考えている。感情を省いた思考でね。……ウロビト、お前はどう考える? 生命とは……なんだ?」
質問に質問を返され、ファレーナは即答する。
澱みなく、常日頃思うところがそのまま言葉を纏った。
「生命とは、不偏不可侵の神秘。あまねく全ての生命は、尊い世界の一部だ」
だが、その真っ直ぐ過ぎる言葉にカレンは身をのけぞらせて笑い出す。
それでもファレーナは、視線を逸らさずカレンを、その背後に集まりだしたラミューの妹たちを見詰め続けた。
生命とは、それ自体が瞬く煌きなのだ。
そしてそれは、人の手が届かぬ天上の星にも似て……ただ巡りを占い、その行く末に祈り願うしか人間にはできない。そう知るからこそ、ヒトは最善を、努力を怠らないのだ。
少なくともファレーナはそう思うし、そう教えられて育ってきた。
だが、目の前のカレンは違うらしい。
「アッハッハ! はぁ、そうか……やはりウロビトの価値観もそこ止まりか。停滞だな」
「違う。わたしたちは自ら永い年月をかけて、生命を育む中に見出したのだ」
「
「不完全であることが、ただのデメリットではないと知っているから」
ファレーナはカレンを見詰めて静かに言葉を
カレンはつまらなそうに「あら、そう」とだけ零して視線を逸らした。
「まあいいわ。さ、新しい実験を始めましょう。被験者は貴女よ、ウロビト……安心して頂戴。簡単には死なせないわ。だって、貴重なサンプルなんですもの」
パチン! とカレンが指を弾くと、どこからともなく衛兵たちが現れた。その誰もが
「さあ! 私のかわいい貴女たち! このウロビトを拘束なさい。極力無傷で……極力、ね」
じりじりと槍の穂先がファレーナに迫る。表情の読めない鉄仮面の兵士たちからは、まるで人間味が感じられない。思わず後ずさるファレーナは、その時意外な声を聞いた。
「教授、困るなあ……それは、ファレーナは僕んだ。勝手は、許さない」
誰もが声のするほうを振り向き、ファレーナだけが顔を赤らめ視線を逸らした。
そこには、全裸で毛布を引きずるクラックスの姿があった。彼は大きなあくびをしながら、裸の自分に気付いたようで、瞬時に能力で着衣を形成する。
「クラックス! 殿下から許可はもらっているのよ? ウロビトのデータは今後の計画に――」
「うるさいなあ、教授? そんなことを言うなら、もう抱いてあげないよ?」
「なっ……このガキがっ!」
「おー、怖い怖い。年増のヒステリーって怖いねえ、ファレーナ。ねっ?」
馴れ馴れしくクラックスは、ファレーナの肩を抱いてニコニコと人懐っこい笑みを浮かべる。
逆に、顔を真っ赤にしたカレンは両の手を固く握って震えていた。
「言うことをお聞きっ、クラックス!」
「やだね、ベーッだ! 逃げよう、ファレーナ!」
クラックスに手を引かれて、慌ててファレーナは走り出す。
あまりにも無邪気にすぎるクラックスの
「クラックス君、私を助けてくれるのか?」
「とーぜんっ! ファレーナは僕の物なんだから。あ、そうだ! いいこと考えついた!」
不意にクラックスは、ファレーナを両手で抱き上げた。
その頃にはもう、建物の中にはサイレンが鳴り響き、騎士たちが具足を鳴らして大挙してくる。そんな中でも、へらりと笑顔でクラックスはこう言うのだ。
「ファレーナの目の前で証明するんだ、これから。兄さんと僕、どっちが優れてるかをさ!」
その時、ファレーナは戦慄した……クラックスの底なしの笑顔の、その奥の深い闇に。
同時にクラックスは窓をブチ破ると、月夜の空へとマントをはためかせて跳んだ。