遠くに風の音を聴きながら、クラックスは空を見上げていた。
クレーターに大の字で仰ぐ空は、抜けるようにどこまでも青い。
忘我の地平に投げ込まれた彼の思惟は今、「何故」と「どうして」を繰り返す。何故、負けた……どうして敗北を? その答は今、自分の中に見つけようがない。あたかも、存在しないものを探すかのようで、しかしそんな愚行にも似た矛盾にも気付けない。
敗因の全ては、自分ではなく相手に……兄にあったのだから。
「おやおや、無様にやられてきたみたいだねえ?」
ふと、頭の上に声を感じて、クラックスは身を起こす。
振り返ればそこには、腕組み自分を冷たく見下ろす白衣姿があった。
「……教授? カレン・カンナエ、教授」
どうにか絞り出した声が、目の前の女を認めて名前を象る。
だが、立とうとしてクラックスは、そのまま地べたにグシャリと崩れ落ちた。
それでも、見知った女性を前に、少しばかりの安堵感が込み上げる。
「は、はは……ヘマしちゃった。おかしいんだ、ねえ? 僕が、兄さんに、負ける、訳が……教授、助けて、よ」
どうにか震える手を前へと伸べた、その指が白衣の裾に引っかかった。
だが、降ってきたのは忌々しげな舌打ちだった。
そして気付けば、周囲を鉄兜の
「な、何を……教授? 僕、ボロボロなんだ。ほら、だから……ねえ、また気持よくしてあげるから。だから、優しくしてよ。クッ、再生が、おいつか、ない」
それが今、敗れた……そして、失おうとしている。
否、ようやくクラックスは理解しかけていた。
自分は最初から、何も持ち得てはいなかったのかもしれない、と。
「いい様だねえ、クラックス? 実験サンプルを逃した挙句、ボロ雑巾のようじゃないか」
「う、ああ……」
「フン、クソガキが! ちょっと優しく抱かれてやりゃあ、つけあがりやがって! ええ? まあいい、貴様が新しいサンプルだ。さぞかしいいデータが取れるだろうさ」
「ぼ、僕は、違……サンプル、なんか、じゃ」
歯を食いしばってどうにか上げた顔に、カレンは唾を吐き捨てた。
自分の身に起こったことが信じられずに、クラックスの思考が停止する。
「死ぬまで調べつくしてやる。覚悟するんだね。さあ、連れ帰るよ! 私のかわいいお前たち! ……抵抗するようなら、腕の一本も引き千切っておやり」
クラックスを囲む殺意が、精密機械のような正確さで身を拘束してくる。
ダメージを受け過ぎた身体には力が入らず、されるがままに引きずられかけた、その時。
――突如として
「なっ……!? 冒険者かっ!」
カレンの悲鳴と同時に、クラックスの身が自由になって、その場に無様にへたり込む。そんな彼の前に今、細い突剣を
ちらりと肩越しにクラックスを振り向いたのは、見るも美麗な女剣士だった。
同時に、周囲の兵士たちが悲鳴もあげずに飛び退く。その槍は全て断ち切られ、兜も鎧も鋭利な断面を見せながら両断されていた。
「本当にラミューさんと同じ顔をしてるのですね。……率直に言って、不愉快です」
その女性は端正な横顔を不快感に歪めつつ、まるでタクトを振るうように剣で一閃。奏でられる
カレンが血相を変えて金切り声をあげる。
「お前は……思い出した! フランツ王国の三銃士! アルマナ・ファルシネリ!」
クラックスはその時、確かに耳にして記憶した。
アルマナ、それが眼前の美しい人の名前。
アルマナはカレンの震える声に応えもせず、代わりに周囲で戦列を組み直す敵意へと宣言した。凛として堂々と、恐れも怯えも見せず一人で。
「この人を殺さぬことを、私の仲間たちが望んで選びました。故に今、彼は与えられた生を今度こそ、正しく使わねばならないのです!」
「綺麗事をッ!
ヒステリー気味に叫ばれたカレンの声に呼応して、鋼の兵団が迫り来る。
だが、
クラックスの目には、アルマナが指揮する風の楽団が見えるかのよう。
「ええいっ、
「無駄です。気持ちのこもらぬ攻撃では、私に触れることさえ――!?」
だが、その時アルマナを異変が襲った。
突如として剣を取り落とした彼女は、そのまま
瞬く間にアルマナは組み伏せられ、その
無数の槍に刺し貫かれて、地面に縫い付けられたクラックスの
「……おやぁ? さっきの威勢はどうした、三銃士!」
「クッ、こんな時に……腕が」
腕を逆関節に捻じりあげられ、アルマナは苦悶の表情に
「そういえば、娘たちの交配実験がまだだったか……うってつけのサンプルが手に入ったねえ? お前たち、ひん剥いておやり! 計画種がなにゆえ優良人類なのか……教えてやろうか」
クラックスの目の前で、衣服が引き裂かれる音が折り重なった。それはあたかも、たおやかな演奏を阻害するノイズのように耳に残る。そして、クラックスは思い出す……カレン・カンナエ教授の研究が生み出した、計画種の恐るべき本能を。
両性を併せ持ち、個々が完結した生命体であると同時に、恐るべき繁殖力を持つという事実。
だが、そんなおぞましい現実を吹き飛ばす光景が、クラックスの網膜に焼き付いた。
「ハハッ! なんだぁ? どうした、その身体は! 三銃士様ともあろうものが、醜い! 醜いじゃないかあ……んん?」
裸体を曝け出したアルマナの姿に、クラックスも言葉を失った。
その白い柔肌には、まるで呪縛の獄鎖の如く、黒い
「これは……何かの呪いだねえ。アハハッ、こんな身体でよく剣が振れたものだ。……お前たち、遠慮はいらないよ? 新世界の主たる所以、この女に刻みつけておやり!」
拘束されたまま動けないアルマナと、クラックスは目が合った。
その時、瞳が真っ直ぐ投げかけてくる、無言の言葉が彼には意外だった。
「逃げろ、って……どうして? どうして、さ……どうして、僕を? ふ、ふふ……ははっ!」
気付けばクラックスは、込み上げる笑いが抑えられず身をそらす。そうして彼は、無数に突き刺さる槍も意に返さず、群がる雑兵たちを振り払って立ち上がった。
立てたと自分でも驚いた、次の瞬間には人の姿が輪郭を崩す。
「教授、お人形遊びは目障りだな……それに、生きろ? 命を正しく使え? 笑える冗談だなあ。……そんなことはね、もうどうでもいいじゃないか」
その言葉を吐き捨てた時にはもう、クラックスの身体は巨大な
流石の威容に、カレンは呆気に取られながらも悲鳴を上げて逃げ出した。
「おっ、お前たち! 時間を稼ぐのよ、私を守りなさい! いいから行け、行くんだよっ!」
そして、場を満たす音楽は一変する。
風の調べは荒々しい嵐となって、暴力という名の音符を並べ始めた。吠え荒ぶ黄金獣と化したクラックスが歌うは、流血の紅い
身動き一つ出来ぬまま、半裸のアルマナを、その身体を返り血が染めてゆく。
あたかも、呪われたその身を覆い隠すように。
「ミツミネ様、あそこですわ! アルマナ殿が」
「アルマナ殿っ! ……むう!? こっ、このバケモノは……先ほどの?」
再び冒険者の二人組が現れた時には、クラックスの周囲に呼吸と鼓動は一つしかなかった。
白い肌を真っ赤に塗られたアルマナは、その時再度「逃げて」と呟く。
手負いの金月蜥蜴は空へと吠えると、あっという間に森の闇へと飛び去り消えたのだった。