黄金の鹿を追い回すラミューやグルージャたちの声が、遠く建物の奥から響いてくる。
ここは
「ねえ兄さん……なずなでも泣くことがあるんだねえ。……彼女も、好きな人がいたんだ」
「エルトリウス君の現場復帰には、しばらく静養が必要だね。随分衰弱している」
「ミナカタさん、だっけ? あのイクサビトさんも無事でよかったよ。前、ちらっと見たんだ」
「鍛え方が尋常じゃないからね」
サジタリオたち冒険者は今、知識を求めてこの場所を訪れていた。世界樹へと逃れたバルドゥール皇子も気がかりだったが、世界樹の巨人復活阻止の手がかりも欲しい。何より、サジタリオたちヴィアラッテアの気球艇、エスプロラーレは大破して修理中なのだった。
「兄さん、ヨルンは朝からずっとだ……もう昼過ぎなのに昼食も食べない。いいのかな」
金鹿図書館の一角でずっと、ヨルンは蔵書を引っ張りだしては本の虫だ。それに付き合うポラーレと違って、少しクラックスは退屈そうである。サジタリオはと言えば、手近な図鑑や資料をそれなりに楽しんでいる。狩人にとっては知識も重要な武器だからだ。
だが、ポラーレは「ふむ」と唸ると、手にした分厚い物語から視線をあげた。
「クラックス、今はそっとしておこう。ヨルンは今、奥方を支配する
「だからだよ、兄さん。ただでさえ、まだ怪我が治ってないのに……」
オロオロと落ち着かない様子のクラックスは、先程から机の前を行ったり来たり。
そんなクラックスにも集中力を乱されることなく、ヨルンは黙って羊皮紙や図録に目を落としていた。朝方にこの金鹿図書館に訪れて以来、ずっとこの調子である。
ポラーレはサジタリオに肩を竦めて見せると、意外な言葉を零した。
「変わったね、クラックス。変わったよ、本当に」
「え? ぼ、僕が?」
「うん。……それはきっと、短時間とはいえいい経験を沢山積んだからだろうか」
不思議と今のポラーレに、クラックスへの以前のような敵意は感じられない。さりとて、素直に兄弟と言うにはまだまだぎこちないが……彼は彼なりにクラックスを受け止め、受け入れようとしているようだった。
それがわかるくらいにはサジタリオも、相棒との冒険の日々は振り返れば長い。
「……僕、わかったんだ。今まで、なんでもかんでも欲しくなることはあったけど……それって、好きとは違ったんだって。本当の好きは、こんなにも切なくて愛おしい」
「そういう、ものなのかな。それは僕には、まだよくわからないんだ。でも、わからないなりにファレーナのことが」
この弟ありてこの兄あり、である。
聞いててこっ恥ずかしくなるような話だが、当人たちは大真面目だ。きっとその手の趣味が好きなご婦人が見れば、双子の美青年はさぞかし麗しく見えるだろう。サジタリオは再び手にした植物図鑑へ視線を落として、しかしついつい耳には二人の声を入れてしまう。
ポラーレは手にした物語をめくりつつ、相変わらずウロウロするクラックスとの話を続けた。
「好意というものは本当にあいまいで、定義し難いのに、確かに存在する。そうだろ、クラックス。僕はそういう気持ちを知った君が、もう憎めなくなってしまったんだ」
クラックスはピタリと止まると、人差し指を自分に向けて小首を傾げる。
その話は夜の
そして、失意の彼を救ってくれたクラッツもまた、彼の想い人にはならなかった。
失恋に次ぐ失恋、ゆく先々で閉ざされてゆく恋路……だが、不思議と辛く悲しい日々がクラックスを優しくした。人の痛みを知った
まあ、酷なことだとはサジタリオも思う。
だが、サジタリオにはサジタリオで、こういう顛末を迎える過程に禍根を残してしまった。
「なあ、クラックスよう? 人恋しい季節なのはわかるが、よ……」
「ん、なぁに? サジタリオ」
「その、あんまし女の子の格好で街をウロウロすんなや。……俺とコッペペ以外に被害者を増やしてどーするんだって話だ」
「そ、そうかな……ゴメン」
「いや、いいんだけどな」
クラックスの
だが、クラックスは悪びれない。
「でもサジタリオ、僕はきっとサジタリオのこと……うん、好きだな」
「よせって」
「今はでも、わかるんだ。好きに色々種類があって、サジタリオやコッペペも好きだけど……ホントの一番な好きではない気がするんだ」
「へぇへぇ、そういうことは真顔で言わないでくれっかな……ったくよお」
照れくさいやら気恥ずかしいやらで、やれやれとサジタリオは手を振る。見守るポラーレの表情は心なしか柔らかかったし、ページを捲り続けるヨルンの口元にも笑みが浮かぶ。
そして、微笑ましさに頬を崩したのは、屈強な冒険者の男たちだけではなかった。
「あっ、アルマナ……今、笑ったね! ねえ見た? アルマナが笑ってるよ」
手袋で覆った手を口元に当てて、声を殺してアルマナが笑っている。彼女はクラックスの声に気付くと、頬を僅かに朱に染めた。そして、ゴホン! と咳払いをして場を取り繕う。
だが、サジタリオも見た……常に
「おっ、大人をからかうものではありませんよ、クラックス君」
「エヘヘ、ごめん。でも、アルマナはやっぱり笑ったほうが素敵だよ!」
「ですから、そういうのは――あ、それより。あの、あちらの方はいったい……」
アルマナが慌てて話題を変え、そっと背後を肩越しに振り返る。そこには、
先程から妙な視線を感じていたのはこれかと、サジタリオも眉を潜めた、その時である。
「ん? ね、ねえアルマナ……この本棚、おかしくないかい? ほら」
「あら。クラックス君、これは」
「僕ね、人間じゃないから結構敏感なんだ。気配とか空間とかに。これ、向こう側に何かが――」
不意にクラックスは、すぐ側にある古びた書架に手を伸べる。サジタリオも最初に見た時はわからなかったが、言われてみれば奇妙な違和感を感じた。そこには、年代物の蔵書を並べたその奥に、かすかに空間の広がりが感じられる。滞留する空気を読み取れば、自然とサジタリオにもそれを察知することができた。
「なんだこりゃ、なにかの隠し扉か? おい相棒、ちょっと来てみろよ」
「本当だね、サジタリオ……なんだろう、決して先が広い訳ではないけど。書庫かなにかだろうか」
「どれ、クラックス! おもしれえ、ちょっとだけ――」
サジタリオが好奇心から腕まくりした、その時だった。
その場の五人の背中を、冷たく鋭い殺気が擦過する。
振り返ると背後に、先ほどの奇妙な女司書が立っていた。だが、様子がおかしい……窓からの陽光を反射させる眼鏡のレンズは、その奥に見えない殺意の瞳を輝かせていた。
「お客様……申し訳ありません、その先は立ち入り禁止になっておりますわ」
先程までサジタリオたちを見詰めて、どういう訳か鼻血を滴らせながら身悶えていた姿はそこにはもうない。今、ゆっくりと振り向くサジタリオたちは、今まで感じたことのない恐怖に身を凍らせていた。
だが、それも数瞬のことで、すぐに女司書は笑顔に変わると、一礼して去っていった。
「な、なんだ今のは……おい、ポラーレ」
「……この図書館には、知らないほうがいいことがある、のかな? ふむ、興味深いね」
一同は、チラリチラリとこちらを振り返っては、小走りに駆けて去る女司書を、呆然と見送った。先ほどの殺気が嘘のように、その女性は