オルテンシアは疾走る。鎧の重ささえ感じず、凍りついた背筋の冷たささえも置き去りにして。既に今、
道行く先で冒険者や衛兵たちが血の海に倒れ、その何割かはもう動かない。
これ程までの地獄絵図を見るのは、オルテンシアには初めてだった。
「なんて恐ろしい光景……クッ、先を急がねばなりませんっ!」
決意も新たに駆けるオルテンシアは、ようやく無事な冒険者たちに遭遇する。身に纏う白衣を流血に汚して、怪我人に肩を貸したメディックの二人組だ。
彼らもオルテンシアを見るなり、互いに言葉をかけて励まし合う。
「よぉ、クアン! 見な、かわいい援軍のご到着だ。へばるなよ、このまま出口まで逃げ切るからな!」
「はい、パッセロさん! ……僕はもう、迷わない。僕も、立派な医者に……誰かを助けられる人間に、なるんだ」
「ハッ、気合入ってるねえ……ま、その前に自分が生きて帰らにゃ、な?」
「はい!」
オルテンシアは疲労困憊も顕な二人組と合流するや、即座に彼らが運ぶ怪我人を見やる。瀕死の重傷で息も荒いが、辛うじて生きている……適切な応急処置を施された外傷は、裂傷もそうだが重度の
「お二人とも、これを使って下さい! こちらの方は急いだ方がいいです」
「あんた、これは……」
「でも、これなら……パッセロさん!」
オルテンシアが差し出したのは、冒険者の必須アイテムであるアリアドネの糸だ。この不思議な糸を辿って歩けば、瞬く間にタルシスに帰り着くことができる。それはメディックたちも知ってるだろうし、普通は常備するものだが……ここは今や新米冒険者の登竜門でしかない碧照の樹海。抜け道が完全に整備されたマッピング済みの迷宮では、アイテム代を節約する者も多い。
今回は思わぬ強敵の出現で、それが完全に裏目に出た形だった。
「ありがてぇ、使わせてもらう! 騎士のお嬢ちゃん、あんたも街に――」
パッセロと呼ばれていた無精髭の医者が、その手にアリアドネの糸を受け取るなり安堵の表情を見せる。だが、彼の呼びかけを振り切るように、再びオルテンシアは風になった。
その背中が仰天の声を聴いたので、肩越しに一度だけ振り返る。
「無茶だ、お嬢ちゃん! 戻れっ、あいつは並の魔物じゃねえ……ドラゴンだ! 死ぬぞっ!」
「危険な魔物なればこそ! わたしが倒さねばなりません。野放しにしておけば被害は増える一方……これ以上の
尚も引き止める声を振り切り、オルテンシアは
タルシスを訪れてすぐ、この迷宮には足を踏み入れたことがある……現れる魔物は皆、オルテンシアの実力ならば赤子の手を捻るように蹴散らせるレベルだ。だが、今日に限ってそんな魔物たちも姿を表さない。
ただただ、オルテンシアが記憶を頼りに進む奥から、冷たい害意が肌を圧してくるのだ。
そしてオルテンシアは、階段を駆け下り扉を開くと同時に、その恐怖の根源へと遭遇する。その小さな広間には、無数の死体が発する焼けた肉の臭いが充満していた。そして、その中央で翼を広げる異形が吼え荒ぶ。
まさしく、ドラゴン……竜。
太古の彼方、刻の果てより蘇りし魔竜。その名は、
オルテンシアは、かつて祖国で人伝に聞いた古代の伝承を思い出していた。あの凍れる第三大地、
「伝説は本当でしたか……刻を超えて蘇った、砂塵の
咄嗟にオルテンシアは盾を構えてメイスを手に、全身の筋肉に緊張を漲らせる。今こそ、日々の修練で培った城塞騎士としての力を振るう時……勇気と使命に燃えて意気軒昂、オルテンシアが吸い込む息を肺腑に留めて踏み込んだ、その時だった。
直感を擦過する強烈な悪意に、咄嗟に前方へと突き出した盾が燃え盛った。
濁翼の熱砂竜が吐き出した紅蓮の連弾が、業火と爆ぜてオルテンシアを吹き飛ばす。
あっという間に手にした盾が、ドロドロとその表面を泡立てながら溶け始めた。
「ああっ! 家宝の盾が!? そ、そんな! ……いけないっ、まだ来るっ!」
咄嗟の機転がオルテンシアを救った。続け様に放たれる熱波と烈風に追い立てられながら、盾を捨てた反動で軽くなった身を大地へと投げ打つ。そのまま転がり逃げる中、大地はにらいでまるで熱砂の地獄。沸騰する砂塊を撒き散らす濁竜は、金切り声を叫びながら巨体を浴びせてきた。
辛うじて立ち上がるオルテンシアに、天地へ開く顎門が、並ぶ牙の輝きが降ってくる。
もう終わりかと思われたその時……キン! と耳鳴りを連れてきた気圧の変化が、突如として極寒の印術を励起させた。初めてたじろぐ濁翼の熱砂竜は、その身を串刺しにする氷牙に身を捩って悲鳴をあげる。
そして、オルテンシアの前に二人の人影が気付けば立っていた。
「よぉ、相棒……でけぇヤマだな? さっさと片付けてよ、踊る孔雀亭で報酬たんまりいただこうぜ?」
「いいね、それ。久々の大物だし、ガッツリ稼いでまたドンチャン騒ぎしようよ」
一人は年端も行かぬ少年で、もう一人はひょろりと背の高い青年だ。どちらも一見して頼りなさそうなのに、その背中がオルテンシアにはとても広く見えた。
そして察する……間違いない、タルシスでクエストを受けてきた冒険者だ。
「きっ、危険です! このモンスターは、ドラゴンは……そこいらの魔物とは。逃げてください!」
これ以上の犠牲者はと、声を張り上げたオルテンシアだったが……その悲痛な叫びに反して、二人の男は互いを見やってニヤリと笑う。その横顔には、無邪気で残忍な、無謀で挑戦的な感情がありありと見て取れた。
彼らは灼熱地獄と化したこの場で、凍えるほどに冴え冴えとした笑みを浮かべている。
「よぉ、サーシャ。こいつぁどうも、氷属性に弱ぇみてえじゃねえか。へへ……ならいっちょ、とっておきを食らわしてやるぜっ!」
「騎士さん、危ないから下がっててね。巻き込まれると、怪我しちゃうから。じゃあ、クラッツ……アレをやるんだね」
気付けばオルテンシアを庇うように、左右に二人の少女が並び立っていた。片方はやけに表情に乏しい印術師で、もう片方は「大丈夫ですか?」と気遣う声をよく聞けば、男だ。オルテンシアを守るように、四人の冒険者が濁翼の熱砂竜へと対峙する。
「クラッツ! クラックスも! 奴は復活したてでまだ全力が出せん。それにどうやら、氷漬けの毎日で酷く寒いのが苦手らしい……二度と目覚めぬよう、このクソッタレを凍える冥府へ突き落としてやれ!」
オルテンシアの耳を疑うような口汚い言葉と共に、前衛の二人が地を蹴る。先制の一撃をソードマンの少年が見舞うや、その剣閃をなぞるように投擲された投刃が幾重にも突き立った。
身悶え苦しむ濁翼の熱砂竜が後ずさった、その瞬間を見逃さずにオルテンシアも駆け出す。
咄嗟の共闘だが、丁度よく五人での連携が取れる……そして、騎士は常に前衛に立つものだ。
「おっ? なんだよねーちゃん、やれんのか? なら、俺に……俺たちに、続けッ!」
「いくよ、クラッツ! 心剣一体……二身合一! 僕らなら、こういう芸当だって!」
不意に金髪の青年の輪郭が解けて、眩い
少年の身長に匹敵する巨大な剣が、煌めく金の刃へとたじろぐ濁翼の熱砂竜を映した。
二人だった冒険者の片方はなんと、少年の持つ不思議な剣へと合体、同化してしまったのだ。
「っしゃあ、お見舞いするぜっ! 食らってぇ、寝てろぉぉぉぉぉっ!」
巨大な両手剣を振りかぶる少年の周囲で、強力な術式の余波が六花となって雪の結晶を舞い散らした。そのまま彼は、絶対零度のフリーズリンクを渾身の一撃で叩き込む。
同時にオルテンシアは、引き絞ったメイスにありったけの力を込めて、それを叩き付けた。
背後からも術符や印術が連続して瞬き、あっという間に周囲を白く染めてゆく。
断末魔の咆哮すら許されず、濁翼の熱砂竜は再び凍てつく死の中へと消えていった。黄昏色に輝く少年の大剣は、幾重にも冷気が敵を蝕むたびに、リンクの光を連ねて切り刻んだ。
「はぁ、はぁ……勝て、た……? やったのか、わたしは。わたし、たちは」
オルテンシアがようやくそれだけを絞り出した、その瞬間だった。再び先ほどの金髪の男が、ふわりと少年の剣から分離して側に立つ。彼は、腰が抜けてへたりこんだオルテンシアの細い腰を、さも当然のように抱き寄せ支えてくれた。
「やあ、大丈夫だった? 怪我は、うん、なさそうだね。あ、でも……君、凄くかわいいね。ねえクラッツ! この人のおかげもあったし、今夜飲むなら誘ってあげようよ!」
騎士は好かねぇ! とそっぽを向いた少年は、その口ぶりとは裏腹に歓迎のようで、同じギルドの仲間らしきルーンマスターやメディックたちと戦利品を漁り始める。
オルテンシアは初めての異性との密着、それもとびきりのイケメンを前に、目を白黒させるのだった。