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 その日は必ず、誰にも平等にやってくる。世界が大惨事を迎えている、こんな時でも。そして、こんな時だからこそ。
 鬼呼ノ月(キコノツキ)、一日……それは世界の人々にとっての、特別な休日。
 このタルシスの街でも、人々は一年に一度のこの日をささやかに祝っていた。町中は静かな自粛ムードの中でも、にわかに活気づいている。例え世界樹が倒れて見えなくなっても、人々の営みは(いささ)かも変わることはなかった。
「やれやれ、ちと飲み過ぎちまったかね? まったく、久々の午前様だぜ」
 珍しく一人でセフリムの宿へと戻ったサジタリオは、静かな寒さに沈む食堂を一瞥する。随分冷える季節になったし、もうすぐ真冬も近い。雪こそまだ降らないものの、季節は確実に巡っていた。その節目の日は、新たな年を迎えつつ終わらない戦いへ備えてサジタリオを眠らせようとしている。
「しきみの奴はもう寝てるだろーしよ、コッペペと合流して飲み直すってのも……ん?」
 珍しく背を丸めて寒さに耐えながら、部屋に戻ろうと思ったその時だった。
 サジタリオは暗がりの窓辺に神秘的な光景を見つけて足を止める。そこには、一人の美しい御婦人が星を見上げていた。薄いネグリジェ姿も、まるで寒さを感じていないかのよう。
 それはよく目を凝らせば、盟友ヨルンが先日命がけで救った奥方のデフィールだった。
「そんなに酔ってんのか、俺? どえれえもんが見えやがる。うおーい、デフィール! ……さん。なにやってんだ、あんた」
 サジタリオの声に振り向いた美貌の麗人は、とても自分より年嵩(としかさ)、成人した男子を子に持つ母親には見えなかったが。どこか妖艶(ようえん)な空気をまとった彼女の瞳は、暗がりの中で暗く鈍い光を灯していた。


「貴様は……いつぞやの冒険者か」
「そういう手前ぇは……どうしてだ? ヨルンの奴が吹き飛ばしたんじゃ? 何故、手前ぇがまだその身体に」
 サジタリオは直感した。
 目の前の女性はデフィールではない……その身をかつて支配していた別の人格、エクレール。帝国最強の騎士だった女だ。
 闇夜の空より尚暗い、どこか哀愁に濁ったような眼差しでエクレールは己の肘を抱く。
「私は殿下を、あの子を……バルドゥールを、助けに行かなければ。あの子のために、戦わなければ……だが、どういうことだ? 身体が」
「落ち着け、お前はもう……負けたんだ。大人しく消えな」
「私が……負けた?」
「そうだ。そしてあの野郎も、バルドゥールの奴も同じだ。俺たちに負ける。世直しだろうが国と民のためだろうが、奴は許しちゃなんねえ一線を超えやがった。それは……わかるな?」
 視線を逸らして(うつむ)きながらも、エクレールは弱々しく頷いた。
 以前のような圧倒的な覇気も感じず、触れれば切れるような緊張感も漲らせてはいない。彼女はまるで年越しの夜に迷い出た幽女(ニンフ)のように、弱々しく儚げな印象があった。
「それでも……私は、私だけは。あの子を、支えねば……うっ! あ、頭が!」
「お、おいおいっ! クソッ、どうなってやがる!? やっぱりこいつぁ――」
 両手で頭を抱えてうずくまるエクレールは、その場へと崩れ落ちるように倒れた。
 サジタリオが慌てて駆け寄り抱き上げた時にはもう、その意識は途絶えていた。その表情は既に、最近徐々に仲間たちとも打ち解け始めたデフィールへと戻っている。
 だが、サジタリオは確かに見た……友の妻へいまだに残り続ける、帝国の禁忌(きんき)残滓(ざんし)を。
「ったく、しゃーねえな。風邪(かぜ)引かれても目覚めが悪ぃし。確かヨルンの部屋は……っと? 意外と重っ!」
 両腕でデフィールを抱き上げ立ち上がった、その瞬間にサジタリオの背筋を奇妙な緊張感が擦過する。まるでそう、誰かの視線を感じているような……だが、熟練の狩人であるサジタリオの直感は、この場に人の気配を拾ってはいない。
 そう、人の気配は感じ取れないが……確かにサジタリオはなにかを感じていた。
 そのままゆっくりと肩越しに振り返れば、食堂の入口に小さな人影がぼんやりと光っている。
「……誰だ。ってか、人間じゃねえな? おいおい勘弁してくれよ、俺ぁクアン程じゃねえがそういうのは御免願いてぇクチなんだがよ」
 そうは言いつつも、鋭い荒鷲(イーグル)の目にも似た眼差しで状況を見据える。
 ほのかな光を放って闇夜に浮かんでいるのは、小さな小さな女の子だった。よく見ればウロビトの装束を着て、長い髪を左右二房に結っている。
 そして、その真っ白な顔立ちや表情に、サジタリオは見覚えがあった。
「グルージャちゃん……か? いや、違う。けど、お前さんは」
 少女は両手を後ろで組んで、そっと足音もなくサジタリオへと歩んでくる。
 サジタリオは、ここ最近世界樹の迷宮に現れるという、謎の少女の噂を思い出していた。
「その人は、まだ呪縛から完全には……でも、それも時間の問題。安心して、狩人さん。あなたの友達の奥さんは、時間が経てば元に戻ると思うよ」
「お、おう……何者だ、お前さんは。見たとこ、ウロビトのおのぼりさんって風には見えねえがよ。どこの子だい? ええ?」
 少女はようやく身を振り向かせたサジタリオの目の前に来て、しげしげと見上げてくる。
 やはり面影が、相棒の愛娘(まなむすめ)に似ていた。
「ぼくは、ソーニョ。おじさんが思ってる通りのソーニョだよ?」
「おっ、おじっ!? ……よしてくれや、まだそんな年じゃねえ……つもりだがよ」
 どこか声までも似ていた。
 そう、既視感(デジャヴ)を喚起させられる筈だ……このソーニョと名乗った謎の娘は、勿論グルージャに似ているのだが。同時に、ポラーレやファレーナにも似ていた。
 どこがという具体的な話ではないが、雰囲気や面影が似ているのだ。
 そのソーニョが、片手で髪をいじりながら上目遣いに見詰めてくる。
「覚えておいて、おじさん。ぼくは今、世界樹が消え行く中での反響(エコー)残像(パラレル)でしかないけども。でも、世界樹はあの人たちの(えにし)を借りて語りかけてるの」
「あの人……相棒のことか。ポラーレの奴や、その、ファレーナとかグルージャちゃんとか」
「そういう認識で間違ってないと思う。ぼくは結果でしかないから、それ以上のことは……でも、世界樹が助けを求めている。お願い、巨人を……巨人の復活を、止めて」
 それだけ言うと、ソーニョの身体は徐々にその輪郭を崩してゆく。
 周囲の闇に消え入るように、その姿は薄く翳っていった。
 それは、サジタリオの腕の中の人物を呼ぶ声が響いたのと同時だった。
「デフィール、どこだ。デフィール……そこか? ……サジタリオ、助かる。またデフィールがベッドを抜け出してな。いまだにエクレールの影響が少しだけ残っているようだ」
 意外にもお茶目なナイトキャップを被ったヨルンが、へんてこなパジャマ姿で現れた。
 曖昧に返事を返すサジタリオは、氷雷(オーロラ)錬金術士(アルケミスト)という伝説の威厳が台無しな友人に向き直る。
「お、おう、ヨルン。お前、かみさんが……いや、それより。この子が、ソーニョってんだが」
「この子? どうした、サジタリオ。誰かいるのか?」
「あ? いや、俺の目の前に……おろ? なんだ、消えやがった」
 既にもう、サジタリオの目の前にソーニョの姿はなかった。
 (かすみ)が湧き出るように現れた少女は、霞が掻き消えるかのように去っていた。
 まるで化かされたような気分だが、ヨルンの腕にデフィールを渡しつつサジタリオは妙な汗を感じる。手で覆う顔の表情は固く、その皮膚が強張っているのが感じられた。
「どうした、サジタリオ。誰か……なにかいたのか?」
「なにがって、そりゃもう。ああ、まあ……その、世界樹の意思? みたいなものがよ。信じられるか? ヨルン。助けてくれとさ、俺たち冒険者に」
 その言葉を聞いて、妻の寝顔に安堵していたヨルンは「ほう」と鼻を鳴らす。
 今まで数多の世界樹を踏破してきたヨルンは、常識では考えられないサジタリオの言葉を笑いはしなかった。
「どこの世界樹も、それ自体が迷宮でありながら……人ならざる念を感じることがあった。世界樹とは、そうした人智を超えた存在なのだろう」
「そういうもんかね。まあ、頼まれなくたって皇子の野郎は止めてやるがよ」
「ああ。人の女をあれこれいじり回すようなガキには、相応の仕置が必要だ」
「恐いねえ。……多分、明日で例の石版のレリーフを巡る旅も終わる。碧照の樹海(ヘキショウノジュカイ)まで来たからな。煌破天ノ都(コウハテンノミヤコ)の門が開くかどうか……へへ、面白くなってきやがった」
「こじ開けるさ。吹き飛ばしてでも俺たちは……前へと進む」
 笑みを交わすサジタリオとヨルンの間で、眠るデフィールがクシュン! と小さなくしゃみにムニャムニャと唇を緩める。その姿を愛おしそうに持ち帰るヨルンを見送り、サジタリオも寝床へと向かった。
 窓の外、エクレールが見上げていた星空は今、弧月を囲んで光を瞬かせていた。

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