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 一瞬で真っ白に閉ざされた意識が、突き抜ける痛みで覚醒する。
 自分が石畳の大地に突っ伏していると気付いて、ようやくグルージャは顔をあげた。血塗れの己を(かば)うように肩を抱いて、どうにか上体を起こす。直ぐ側では、自分を庇ってくれた大人の声が沈んでいた。
「グルージャ……逃げ、るんだ。逃げ、て……」
「お姉さん! ……あたしを、庇って?」
「あの人が、そう、望んだから……それが、わたしの」
 慌てて飛び起きたグルージャは、(きし)む身体も(いと)わず側のファレーナを抱き起こす。
 強烈なアクセルドライブの奔流が荒れ狂ったあとには、立っている人間など誰もいなかった。そう、いなかったのだ……人間でいられる者など、誰一人として。
 弱々しく震えるファレーナの手を握って、グルージャは首を巡らせ視線を細める。
 その先には、冷却に白い噴気を巻き上げる砲剣を担いだ、バルドゥール皇子が佇んでいた。
 そして、その前に……ゆらりと身を起こす二つの、影。
「父さん! ヨルンさんも……」
 立ち上がった二人の背中が、今のグルージャには弱々しく、か細い頼りなさにしか見えない。そうでしかないと感じるのに、彼らは血に濡れ術式を明滅させながら立ちはだかった。
 巨人の呪いに()ちた皇子へと、二人の冒険者が最後の抵抗を試みる。
 その姿に僅かに目を見開いた皇子は、既に人の顔を捨てた表情を大きく歪ませた。
「まだ立つか……冒険者よ。ならばよかろう、死をくれてやる。……何人足(なんぴとた)りとも、僕の覇業を止められはしない!」
 重々しい一歩を踏み出す皇子の手が、未だ赤熱化した砲剣の刃を振り上げる。
 立っているのがやっとに見えるポラーレとヨルンは、わずかによろけながらも身構えた。二人の前に、ゆっくりと死が迫る。それを見るしかできないグルージャの眼前で、最後の抵抗者が奇妙な笑みに口元を歪めた。
 それは、絶体絶命の死地に立つ男の笑みではなかった。
「……ヨルン。どうやらアレを、使うしかないみたいだ、よ……」
「そうだな……現時点で、94%の解析が、終了している。理論上は……可能だ」
 二人はなんの話をしているのだろう? 目の前へ迫る皇子の姿を捨てた死に、ポラーレとヨルンが緊張感を失ってゆく。既に現実感を喪失したというには、どこか不敵で大胆な声が細々と響いた。
「お前を、作り上げた、術者は……天才、だな。術式を解読して、よく、わかった」
「そうか……父さん、というべき、人は。うん……でも、変な人、だった、よ」
 二人は再度、唇に笑みを浮かべた。
 そして、あまりにも弱々しい足取りで歩き出す。その一歩が次第に加速して、二人はよろよろと皇子へ向かって最後の突撃を開始した。
 五人で挑んでさえ鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で屠られたというのに、二人では無茶だ。
 自分もと立ち上がろうとしたが、ファレーナを抱いたまま動けないグルージャ。既に身体は竦んで恐怖に怯え、全く肉体がいうことをきかなかった。本能的な危機感が今、グルージャを物言わぬ彫像のように黙らせる。腕に抱くファレーナの呼吸と鼓動だけが温かい。
 ポラーレは両手に構えた天羽々斬(アメノハバキリ)を引き絞り、ヨルンに先んじて斬りかかる。
 ヨルンもその影に両手を広げ、高速で演算を繰り返す術式を圧縮し始めた。
 だが、そんな必死の抵抗を嘲笑うかのように、皇子の一閃が二人を切り裂く。
「愚か! まだわからぬのか……この巨人の力を! 鍛え抜かれた冒険者さえ捻じ伏せる、圧倒的な力だ。この力が、帝国を救う礎となるのだ!」
 ヨルンの盾になるポラーレの黒衣が、明滅する術式の光を散らしながら削られてゆく。既に揺らめく幽鬼の如く足元も定まらぬポラーレは、それでも剣を振るって皇子と踊り続けた。流れる鮮血の代わりにポラーレから、どんどん身体を構成する術式が零れてゆく。
 目を背けたくなる程に、一方的な鏖殺(おうさつ)……普通の人間ならばもう、何度も死んでいる攻防。
 その間にもヨルンの手には、光を吸い込む暗黒の球体が集束し始めていた。
 恐らくあれが、あの術が二人の切り札……だが、それは皇子にも知れていた。皇子は果敢に抵抗するポラーレを砲剣で串刺しにすると、そのまま背後へ遠く遠く投げ捨てた。
 そして、右手に最後の術を励起させるヨルンの前に立つ。
「終わりだ、氷雷(オーロラ)錬金術士(アルケミスト)……最期に言い残すことがあれば、聞いてやろう」
 チリチリとポラーレの残滓が熱に燃える刃を、皇子はヨルンの鼻先に突きつける。
 だが、決して視線を逸らさず、ヨルンは皇子を見据えてはっきりと言い放った。
「子供の駄々には、付き合って、いられん……」
「ほう? まだそんな口が利けるのか。この僕を前に! この力を前にして!」
「……力は力でしか、ない……お前そのものでは……デフィールが気にした、お前では、あるまいに」
「黙れっ!」
 激昂に振り下ろされた皇子の砲剣が、ヨルンの身体から真紅を吹き上げさせた。
 だが、よろけて膝を尽きそうになりながらも、ヨルンは最後の力で術式を放つ。暗い光で瞬く、闇夜を凝縮したような一撃が皇子へと吸い込まれ……そして、すり抜けた。
 余裕の笑みで回避した皇子が、そのまま足蹴にヨルンを突き飛ばす。
 身動き一つできぬグルージャの目の前に、とうとうヨルンは崩れ落ちた。
「外したな? 外した、外したぞ! ハハハッ、どうした? 氷雷の錬金術士。今の術で最後か? さあ、(いかずち)を降らせて空気を沸騰させろ! 氷の(つぶて)で僕を引き裂いたらどうだ? さあ!」
 だが、既に身動き一つできず這いつくばるヨルンから、以外な言葉が零れた。
 その一言は、確かに空気を小さく震わせた。
「お前の、負け、だ……」
「! なにを言うか、僕は勝つ! 僕は勝利し、それは帝国へ千年の安寧をもたらすのだ!」
 大地に突っ伏すヨルンの目の前で、皇子がとどめとばかりに砲剣を振り上げた。
 その時、グルージャは見た……勝ち誇って狂気の笑みに顔を歪める皇子の、その向こうに。ゆらりと立ち上がる父親の姿を。
 それに気付いて振り向く皇子の顔が、あっという間に驚愕で硬直していった。
 あまりの驚きに瞳を大きく丸く見開いた皇子、その視線の先に……立ち上がるポラーレの姿がある。彼の胸に今、先ほどヨルンが放った一撃が渦を巻いていた。
「な、なに……なにをした、氷雷の錬金術士! あの化物に、なにを……なにをしたっ!」
 初めて皇子が見せる動揺、その表情は既に王者の威厳も勝者の喜悦もなかった。
 ただただ恐怖に歪んでゆく横顔を、ぼんやりとグルージャは見詰めて、そして悟る。これから恐ろしいことが起こると。父と慕って共に生きてきた、あの人の怒りが感じられたから。そして、物言わぬ陽炎のように立っているのもやっとのポラーレが、その身体が徐々に人の輪郭を崩してゆく。
 最後にヨルンが、血を吐くような一言を呟いた。
「ポラーレを、構築している、術式への……外部干渉……俺の、術式、で……」
「くっ、まさか先程の術は僕ではなく! 奴を!」
「奴の、中の……獣が、目覚め、る……お前の、負け、だ……」
 刹那、耳をつんざく咆哮と共にポラーレの身体が弾けて消える。闇そのものとなってあふれる構成物質が、まるで血の海のように周囲へと広がっていった。その中で呼吸と鼓動を刻むように光る術式の、その輝きが強まってゆく。
 そして、ヨルンの手で暴走を始めたポラーレの肉体から、彼の意識と意志が消え去った。
 そこに残っているのは、錬金術で作られた攻性生物の本能……破壊衝動だけ。
 ゆっくりと暗黒の中から、見るもおぞましい黒狼竜(こくろうりゅう)が立ち上がる。その貌に並んだ無数の瞳が、ギョロリと皇子を睨んで細められた。


「ばっ、馬鹿な! 仲間を、己の友を暴走させるなど……ええい、こい化物! 僕が――」
 皇子の震える声を、圧倒的な絶叫が掻き消す。既に殺戮の権化となったポラーレは……ポラーレだった物体は、その身に宿る殺意と害意を開放した。
 巨体が嘘のような俊敏性が爆発して、あっという間に皇子の身体が宙を舞う。
 空高く撥ね上げられた皇子の身体は、後を追って地を蹴る黒い影に(なぶ)られながら二度三度と浮き上がっていった。既に漆黒の殺気そのものと化したポラーレが、獣のような絶叫と共に空中に皇子の血を撒き散らす。
 最後にポラーレは、鋭い牙の並ぶ口で皇子を噛み砕くと、そのまま大地へと叩き付けた。
 既にもう、この場で立ち上がる人間はいなかった。
 グルージャの目には今、哀しげに遠吠えで天を衝く巨大な黒狼竜の姿しか映っていなかった。
 その背後、煌天破ノ都(コウテンハノミヤコ)の奥の奥から……激震と共に巨大ななにかが浮上してくる。それは巨大な人の姿を象り、グルージャの距離感を殺しながら立ち上がった。
 ついに伝承の巨神が復活した瞬間だった。
 その光景が急激に霞んで滲む中で、グルージャは最後にはっきりと見る。
 巨大な人影へと吸い込まれる皇子を。それを追って、猛り荒ぶ父が、かつて父だった黒狼竜が、一声吼えるや伝承の巨神へ飛び掛かってゆくのを。
 そこでグルージャの意識は途切れ、深い闇が訪れた。

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