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 帝都の北の稜線(りょうせん)に、巨大な人影が持ち上がる。
 真っ直ぐに帝国の中心を目指す伝承の巨神は、その全身から呪いの瘴気(しょうき)を撒き散らしていた。足元はあっという間に呪いに蝕まれ、その力は既に人間は勿論、あらゆる動物を飲み込んでゆく。
 巨人が踏み締める一歩が、帝国の大地に死の森を広げていた。
 動物も植物も皆、呪いを浴びて変質、変貌してしまう。


「クソォ、対象がでかすぎんだ! 止まらねえ……止まらねえよ、クソッ!」
 クラッツはトライマーチの気球艇トライウィングの甲板上で、竜鱗(りゅうりん)の剣を手に奥歯を噛み締める。タルシスの冒険者、それも腕っこきの猛者揃いが、そろって手も足も出ない。帝国の空軍も戦艦を並べて砲撃を続けるが、軍人も騎士も返り討ちにあっていた。
 隣で発光信号を拾って読み取るフミヲが、双眼鏡を目に当てたまま悲壮感を叫んでいた。
「帝国軍艦隊、損害四割だよクラッツ! 戦艦ウォーパレス、大破撃沈! 巡洋艦クライムザルツも……タルシスの冒険者も、このままじゃ持たない」
「わーってる! わっーってるんだよ、フミヲ。けどよ……俺らになにが。いやっ、俺らになにかできる筈だ!」
 周囲の空は緋色(ひいろ)に燃えていた。
 見上げるほどに巨大な巨神は、その巨躯を動かすだけで周囲の気球艇や軍艦を巻き込んでゆく。砲撃も効いているのかいないのか、帝都を目指す足取りは全く衰えない。
 特に危険なのが、ゆっくりと振りかぶられる両の手だ。
 巨神は両腕を使って、まるで羽虫を叩き落とすように空を薙ぐ。近寄る術もなく、一隻、また一隻と爆沈と撃墜の炎が大空に咲いた。
 クラッツの脳裏を過る、絶望。
 敗北へと冒険者を引きずり込もうとする、深い闇が心の底に口を開けていた。
 だが、気持ちが折れて負けてしまう前に、まだ動ける自分をクラッツは叱咤する。
「フミヲ! サーシャたちを連れて船を降りろ」
「へ? ク、クラッツ……?」
「こいつを、トライウィングをぶつけてやる! イチかバチかだ、あのうざったい両手を()(くぐ)って、直撃をお見舞いしてやるんだよ!」
「そ、そんなことしたら、ひあっ!?」
 クラッツはフミヲから双眼鏡を取り上げると、ドンと強く船尾の方へと押しやる。その向こうに、いつにもまして緊張感をみなぎらせた仏頂面の副長が見えた。なにか言いたげな彼女の視線を振り切り、クラッツは舳先(へさき)へ向かって走り出す。
 そのすぐ横に、当然のように金髪の影が並び立って共に駆ける。
「クラッツ、僕も行くよ!」
「クラックス、手前ぇ」
「二人でなら、やれるよ! また、あの奥の手で、合体技でババーンとやっつけちゃおう!」
「……駄目だ、クラックス」
 隣で意外そうな「へ?」という声を聴いて、クラッツは相棒を黙らせる。
 抜きん出て足早に馳せる脚を強めながら、彼は表情を失ってしまったクラックスを肩越しに振り返った。
「クラックス、サーシャたちを守ってくれ! お前の手でみんなを地上に降ろすんだよ!」
「クラッツ、じゃあクラッツは」
「へっ、こちとら修羅場くぐってんだ、この程度で死ぬかよ」
「でも!」
「でももヘチマもねぇ! ……仲間を守ってくれよ、クラッツ。そして……あの人をお前は守らなきゃいけねえ」
 一瞬、クラックスが目を点にした。
 そんな彼を振り切り、舳先へとよじ登るクラックス。彼は捨て鉢の自暴自棄になっている訳ではなかったが、打たねばならぬ勝負の一手は、余りにリスクが高すぎた。
 そしてクラッツは、博打(バクチ)に等しい賭けに仲間や友人の命をチップにはできない少年だった。
「クラッツ、僕が……? アルマナを、守れって?」
「わかってるじゃねーか、行けよ相棒。お前一人なら、サーシャやフミヲを連れて地上へ降りられる」
「でも、それじゃクラッツが!」
「俺は死なねえよ、こんなとこで死ねねえ。死んでやるものかよ。誰かが突破口を開かにゃならねんだ。ポラーレの旦那のように、サジタリオの旦那のようによ」
 それだけ言うと、クラッツは剣を持ち直してロープ片手に舳先の先端に立つ。
 吹きさらしの風がぶつかってくる先に、歌うような叫びを張り上げる巨神がそびえていた。
 そして、船尾の方からも声が走る。
「言うね、小僧! いいぜ、オイラが付き合ってやる」
「コッペペのおっさん! あんたも逃げろよ、死んじまうぞ! おいクラックス、あのおっさんも――」
「誰がこの船の舵を取るんだ? 任せろよ、クラッツ。オイラが真っ直ぐ、あのデカブツの真ん中に放り込んでやる」
 既に小脇にサーシャとフミヲを抱え上げたクラックスが、クラッツとコッペペとを見やって右往左往する。クラッツにはわかっていた。クラックスは、優しい奴だから……優しすぎるから、どうしても踏み出せないのだ。
 だから、背を押すように頷いてやる。
「大丈夫だ、相棒。ちょっと片付けてくっからよ。終わったら一杯飲もうぜ」
「クラッツ……うん、うんっ! 絶対だよ、約束だよ! 僕、みんなと待ってるからね」
「ああ、約束だ。お前、よく考えてみろよ……こちとら伝説の武器、真竜の剣を持った勇者様だぜ? どう考えても死ぬ訳、負ける訳ないだろうが」
 くしゃりと泣きそうに表情を崩したクラックスが、既に泣いてるフミヲや、唇を噛み締めてるサーシャを抱えたまま甲板から飛び降りた。あらゆる高度であらゆる気球艇が戦う中を、クラックスは巨大な金月蜥蜴へと変身するや、滑り降りてゆく。
 それを見送るクラッツは、トライウィングがさらなる加速で爆ぜるように翔ぶ中で前を向いた。
「よぉ、クラッツ! オイラもあとで一杯(おご)らせてもらうぜ。こりゃ、どえれえ見せ場になったじゃねーか。真っ直ぐ突っ込む、思いっきりやんな!」
 風にさらわれるコッペペの声に頷いて、両手に握った真竜の剣を手元に引き絞る。
 増速の空気抵抗と叩き付ける風圧に、視界が狭くなってゆく中……クラッツは瞬きすら忘れて巨神を(にら)んだ。
 目の前に今、迫る巨神がこちらを見て、左の手を高速で突き出してくる。
 余りに巨大で、ゆっくりと動いてくる大質量が、完全にクラッツの距離感を狂わせていた。
「よぉ、リュクス……手前ぇから借りたこの剣、よ……ホントに伝説の剣だってんなら、奇跡くらい起こしてみせるだろ? なあ、ダチ公。奇跡ってもんをよぉ……やぁってやるぜっ!」
 刹那、()えるクラッツを激震が襲う。
 巨神が伸ばした左手が接触し、トライウィングが木の葉のように揺さぶられた。コッペペが巧みな操船で衝撃を逃がしつつ、舵を切って力に逆らわず受け流す。その時、巨神の全身を覆う緑をえぐるように突き立てられた舳先で、クラッツは渾身の力を込めて剣を振り抜いた。
 濃密な瘴気の中に飲み込まれそうになりながら、クラッツは全身を浴びせるように剣戟(けんげき)を放つ。
 クラッツの絶叫に呼応するかのように、竜鱗の刃が金切り声をあげて光となった。
 剣閃が走り、永遠にも思える一瞬の接触の後、トライウィングは気嚢(きのう)が爆発炎上して落ち始める。だが、重力の井戸へと落ちゆく中で、クラッツは最後まで一撃を振り抜いた。
 絶叫が木霊(こだま)して、初めてのダメージに巨神が揺らめく。
 巨神の左手は、クラッツの一撃を受けて崩れ始めた。巨大な左腕を構成する物質が、空気中に胞子を飛ばしながら消滅し始める。その中で、トライウィングは徐々に浮力を失い燃えながら()ちていた。
「クソッ、左手だけかよ! これ以上は――!?」
 歯噛みに唸るクラッツは、舳先に掴まりながら見上げて、目撃する。
 自分が斬って砕いた左腕の、その鉄壁の防御が崩れた空に……真っ直ぐ翔ぶ、光。それは、真昼の空さえ煌々と照らして切り裂く、流星のよう。
 この場にありえない船影が今、明らかに異常で異様な猛スピードで頭上を通過した。
「あれは……ヴィアラッテアのエスプロラーレ!」
 かつて木偶ノ文庫(デクノブンコ)突入の際に大破炎上した筈の、その船がボロボロのままで飛んでいた。
 そしてクラッツはゆっくりと降下する船の上で、飛び去る五人の少女たちを見送る……既に彼女たち五人は、引き絞られた矢のように巨神の中心へと飛び込んでいった。

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