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 はなびらは風に舞う。
 まるで粉雪(こなゆき)の様に、ただただ静かに降り注ぐ。
 伝承の巨神が冒険者に倒され、ついにその姿を再び世界樹へと戻そうとしていた。無数の気球艇が舞う空には今、まるで次なる実りのために散る花のように、桜色が乱舞していた。
 だが、その世界樹の根本では……最後の戦いが決着へと加速している最中だった。
 まだ、サジタリオは世界の敵と戦っていた。
 ポラーレもまた、世界の敵へと()ちながら戦い続けていた。


「ヘヘ……あの子ら、やりやがった。なあ! お前の娘は大したもんだよ、相棒ぉ!」
 花吹雪(はなふぶき)の中、サジタリオは全身の痛みに耐えて声を張り上げる。
 その先に今、漆黒の巨躯に無数の矢を突き立てられた獣の姿があった。もはや黒狼竜(こくろうりゅう)の姿を維持できなくなった、邪悪な異形……人外の獣であることすら危うい、体内の術式を狂わせ暴走し続けるポラーレ。
 よろりと最後の矢を(つが)えるサジタリオは、不思議とまだ目の前の敵意を相棒と呼んでいた。
 だが、返事はない……言葉の代わりに、(うごめ)く敵意は濁流(だくりゅう)となってサジタリオを襲う。
「チィ! こいつでカンバンだ……終わらせる、終わらせてやるぜっ!」
 瀕死の重傷をおして、サジタリオが最後の一矢を弓へと引き絞った。
 それは、おぞましい絶叫を張り上げてポラーレが地を蹴るのと同時……無軌道に右へ左へと間合いを変えながら、無数に並ぶ牙と牙とがサジタリオに迫る。
 だが、消耗の激しいサジタリオの動きは、鈍い。
 揺れる視界は流血で真っ赤に染まって、徐々に(かす)んで(にじ)む。
 もはや正確無比な射撃は不可能だと自分でも察していたし、既に矢は尽きようとしていた。この一撃で仕留めることができなければ、ポラーレを止める手段は存在しない。暴走してしまったポラーレは、伝承の巨神が倒れたと知れば、次なる敵を冒険者たちへと求めるだろう。それは、サジタリオの仲間たちを危機に晒し、あの少女たちを悲しませることになる。
 そう、仲間……今、サジタリオには仲間の存在がはっきりと感じ取れた。
 昔からの一匹狼、闇の中でさらなる闇を狩る始末屋……それがサジタリオだった。
 だがもう、彼を包む空気は温かな日差しの眩しさで、独りではいられない。
 そんな時間がたまらなく愛しくて、そして尊いからこそ……サジタリオは今また独り、孤高の狩人(イェーガー)として手を汚す。仲間殺しの汚名を着てでも、自らの手でポラーレの暴走を止めなければならなかった。
「思えば随分、長ぇ付き合いになったな、相棒。俺だけを恨みな! ……ブチ、抜けぇっ!」
 風に桜色が乱れ飛ぶ中、サジタリオの弓が弦を歌わせる。
 僅かに空気を震わせて、最後の一撃が放たれた。
 必殺の一矢は、真っ直ぐにポラーレの脳天へと吸い込まれていった。これで終わってくれれば……片膝を突いてその場に(うずくま)るサジタリオは、結末を見届けるべく目を見開く。
 そして、永遠にも思える一瞬が通り過ぎた。
「クッ、駄目かよ……! そうだよなあ、お互い手の内……見せ、過ぎてるよ、なあ」
 突き刺さる無数の矢で全身を飾ったポラーレは、真正面からサジタリオの矢を受け止めた。
 そう、受け止めたのだ……鋭い牙の並ぶ顎門(アギト)で、空間もろとも食い千切るように噛み付いたのだ。そうしてポラーレはバキバキと、サジタリオの放った矢を砕いて吐き捨てる。
 次の瞬間にはもう、サジタリオは吹き荒れる漆黒の暴力に巻き上げられ、空を舞っていた。
 おぞましい絶叫を張り上げ、ポラーレも同時に地を蹴り疾風(かぜ)になる。木の葉のように宙を舞うサジタリオは、何度も何度も黒い一撃に翻弄され、真っ赤な血を散らした。
 最後にポラーレは、強烈な尾の痛撃でサジタリオを地面へと叩きつけた。
 世界樹の根が大地へと走る、その幹へと大の字に埋まるサジタリオが血を吐き出す。彼はそのままずるずると、世界樹の根本へ沈み込んで動かなくなった。
「ヘッ、年貢の納め時、かよ……慝ぃな、嬢ちゃんたち。あとは……頼んだ、ぜ……」
 既にもう、指一本動かせぬ疲弊の極地で、サジタリオは世界樹に背をもたれて天を仰いだ。
 そんな彼にトドメを刺そうとしているのか、ポラーレは身を揺すって全身の矢を振り落としながら距離を取る。助走をつけて、世界樹ごとサジタリオを木っ端微塵にするつもりだ。
 グラグラと揺れる視界で、既にポラーレの姿は輪郭を保てず、暴走が臨界へと近づき自己崩壊を始めている。そんな姿を見やる中に、サジタリオは懐かしい者たちの顔を見た。
『サジタリオ様は大丈夫ですの、お強いのですわ! わたくし、信じてますの!』
『サジタリオの旦那、なあなあ、旦那! やっぱ旦那はすげえよな……あ、待ってくれよ旦那』
『最大の敵は最高の味方だって、父さんが。あたしも今、そう思うわ。だから』
 少女たちの笑顔が、次々と脳裏を過る。おいおいやめてくれよと苦笑を浮かべたが、口元を歪めるだけで今のサジタリオは身動きが取れない。ただただ、懐かしい者たちが目の前を行き交い、どんどん自分の中へと消えてゆく。
 ああ、死ぬのかと思った時に現れたのは……あの女たちだった。
『君があの人の横にいてくれて、よかった。相棒なのだろう? それは、とても嬉しい』
「ああ……ファレーナか。お前、よぉ……もっと素直に……いや、いい。すまん、俺は――」
『あら、もう終わり? 大したことないのね、最強の始末屋さん?』
「るせーな、手前(てめ)ぇこそ消えてんじゃねーよ……どこにいンだよ、ファルファラ……お前」
『なんじゃ、お主も意外と諦めがいいのう。……ワシはもう、こういう死別は御免(ごめん)じゃて』
「しきみ……お前なあ、俺の女みたいな面すんなって。……俺だけの女じゃ、ねえくせに、よ」
 もう、駄目だと思った。
 仲間たちには悪いと思ったが、既に矢は尽きて力も失い、立つこともできない。
 向こうでは今、最後のトドメを刺すべく真っ黒な死が唸り声を上げながら地面を何度も蹴りつけている。奴は世界樹もろとも、サジタリオを殺す気だ。
 だが、その時……最後の幻が目の前に現れる。
「狩人さん……負けないで。お願い、その人を……父さんを、解き放ってあげて」
 肉声だ。耳朶(じだ)へと響いて鼓膜を震わせる言葉が走った。
 それで目を見開いたサジタリオは、目の前でほのかに光る少女の姿を見た。
「お前さんは……確か、ソーニョとか言ったか。へっ、お前さんの正体……ようやく、わかった、ぜ……お前は、もしかしたら生まれるかもしれなかった、相棒とファレーナの――」
「そう、ぼくは可能性。二人が出会ったことで世界樹が見せた、もう一つの未来。その欠片(かけら)
「どうして、ここに……?」
「世界樹の呪縛が解き放たれたから。伝承の巨神は倒され、再び世界樹と共に眠りについた……だから、ぼくももうすぐ消えてしまうけど。だけど……」
 目の前で少女の幻影は、悲しそうに目を潤ませて瞳を閉じる。零れる涙が頬を伝って、ぽたりと(しずく)がサジタリオの手に落ちた。それでサジタリオは、気付けば目の前のソーニョへと手を伸べていた。触れることのできぬ幻の少女は、その手に手を重ねてくる。
「父さんと、母さんと、姉さんと……ぼくの家族を包むみんなのために。お願い、狩人さん……ぼくが世界樹を依代(よりしろ)にして、父さんの自我へと入り込むから。だから、そのチャンスを」
「俺に……なにをしろってんだ。もう、無理、だぜ……へへ。悪ぃな、ソーニョ……お前さん……? ああ、そうか。そうかよ……そういうことか」
 その時、サジタリオの口元に笑みが浮かんだ。同時に、目の前のソーニョを下がらせるように手で払う。それっきり少女の姿は見えなくなったが……ソーニョを振り払うようにして立った、立てた時に、サジタリオの手がなにかに当たった。
 最後までサジタリオへと手を伸ばしながら、消えたソーニョ。
 その手を手で振り払った時、サジタリオが触れたのは……世界樹の幹から伸びる小枝だった。
「へっ、イチかバチかだ……おもしれえ!」
 バキッ! とその枝を折るや、震える脚でサジタリオは世界樹を背に身構える。
 手にした世界樹の枝を、そのまま弓へと番えて弦を力の限りに引き絞った。コンポジットボウが大きく(たわ)んで、死力を尽くした最後の一撃に全身の筋肉が躍動する。
 それは、咆哮も高らかに黒き獣が突進してくるのと同時だった。
「上手くいったら奇跡もいいとこ……奇跡なんざいらねえ! 手前ぇはどうだ、相棒……ポラーレ・メルクーリオッ!」
 ビン! と弦が金切り声をあげる。
 同時に、サジタリオの弓から放たれた世界樹の枝が、真っ直ぐポラーレへと吸い込まれた。ただ(むし)り折った小枝が、まるで研ぎ澄まされた(やじり)のようにポラーレへと突き刺さる。
 次の瞬間、奇跡が起きた。
 否、それは奇跡の顕現ではなく、絆の再確認に過ぎない。
 小さな小さな樹の枝が刺さった場所から、まるで(けが)れた術式が排出されるように宙へ漆黒が拭きあがった。絶叫を迸らせる黒き獣の、その(コア)へと突き刺さった枝は……そのまま吸い込まれていった。そして、あの天羽々斬(アメノハバキリ)を握った人の姿が、ドス黒く濁って泡立つ暗黒の中から現れる。
 人の姿を取り戻した相棒がバタリと倒れるのを確認してから、サジタリオはそのまま身体が軽くなるのを感じた。既に立っているのか倒れたのかもわからぬ程の消耗……だが、意識は薄れ行く中に、確かにソーニョの声を聞いていた。
 小さく「ありがとう」と、耳の奥に少女の声はいつまでも残った。

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