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 決戦は終わった。
 伝承の巨神は再び世界樹へと戻り、帝国の皇子の野望は完全に打ち砕かれたのだ。
 冒険者たちの被害は甚大だったが、すぐにタルシスの辺境伯を中心として復興が始まった。丸一日経った今、第四大地こと絶界雲上域(ぜっかいうんじょういき)にはまだ多くの気球艇が行き交う。
 混雑の空を見上げて一息つくと、再びクアンは歩き出した。
 今はもう巨人の呪いも去り、花弁(はなびら)の舞い散る空気は澄み渡っている。
「でも、助かりました。ヴェリオさんのお陰で、多くの重傷者が命を拾いましたから」
 先程まで怪我人たちが集まっていた臨時キャンプも、今は皆が気球艇で帝国の病院へと出発したため閑散としている。白衣のクアンは、処置を手伝ってくれた青年を振り返った。彼は西国ブリトンから来た医者で、帝国へ招かれた駐留武官(ちゅうりゅうぶかん)の一人だった。
 名はヴェリオ……彼もまた、白衣こそ黒いが医術を志した人間だ。
「礼を言うのはこちらのほうだよ、クアン。トライマーチとヴィアラッテア、そして多くの冒険者たち。彼らは皆、僕やナルに……ナルフリードとベルフリーデに名誉挽回の機会をくれた」
 それに、と一度言葉を切ると、ヴェリオは胸ポケットからシガレットケースを取り出す。
 彼は一服の煙草(たばこ)に火を点けて吸い、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
「それに、僕も駐留武官、軍人である前に一人の医者だからね。この惨事を無視はできないさ。それは、彼も同じだったんだけど」
 ヴェリオが苦笑交じりに振り返る、その先へとクアンも視線を横滑りさせた。
 既に撤収準備を始めたウロビトやイクサビトたちが行き交う、その隅っこに……一人の少女にしか見えない少年が膝を抱えて座っている。
 ブリトンの騎士ナルフリードだ。
 彼は心ここにあらずといった感じで、遠くへ眼差しを投げっぱなしている。
「あの、彼は……」
「ああ、いいんだ。いいというか……しょうがないのさ。ナルは昔からこう、同居人のベルとなかなか複雑な関係でね。暴れ回ったあとはいつもああなんだ」
「そう、ですか」
 クアンの目にも、なにか憑物(つきもの)がとれたようにナルフリードの表情は穏やかに見える。あまりに穏やか過ぎて、まるで悟りを開いた賢者のようですらあった。
 二つの人格がシェアする肉体に、虚脱の時間が訪れているのだった。
 肩を竦めてみせるヴェリオだったが、不意に表情が険しくなる。
「だが、大きな問題が山積みでね……日を追うごとに彼は、彼と彼女はアンバランスになってゆく。一つの身体に二つの人格というのは、いつ破綻してもおかしくない危うい状態なんだ」
「なるほど。実は僕の妹が……! え、ええ、妹です、妹。ラミューも彼とは同じような身体なんですが」
「リシュリー姫もそうだと(うかが)ったよ。やはり特殊な王家の血筋や、造られた生命にはそうした兆候が見られるのかもしれない。ナルの場合は、これも複雑でね」
 不思議とクアンは、ラミューを妹だと口にすると胸の底が疼痛(とうつう)(きし)む。
 そんな彼を前に、ヴェリオは周囲を見渡し声をひそめてきた。
 ヴェリオが言うには、ナルフリードとベルフリーデは元は双子だったという。だが、互いに交じり合いながら一つの肉体で生まれてしまった。それ以来、呪われた子と蔑まされながらも騎士として生きてきたのだ。互いを兄様、姉様と慕って支え合って。
 クアンはクアンで、特異な身体を気にもしない妹を思い出す。
「最近、ナルは調子が悪いみたいだし……それに」
「それに? あ、まさか」
「ああ。ブリトン本国から帰還命令が出てるんだ。この地方にも噂は広まってると思うが、母国ブリトンは長らく、隣国ハイランドとの戦争が絶えなくてね」
「ハイランド……不屈の戦士ハイランダーの国、ですね」
「そう、そのハイランドだ。何度も停戦を挟みながらも、争いが収まる気配はない。また近く、大規模な戦闘が行われるだろう。ナルはブリトンの騎士だ、命令とあらば帰らなければ……」
 事情を察したが、クアンには不思議な違和感があった。
 多くの出会いに恵まれ、その始まりが衝突であっても、今はよかったと思えることもある。ヴェリオと知り合えたことは、クアンにも多くの知識と経験をもたらしたのだ。だが、出会いがあれば、また別れも必然……惜しいと思うものの、笑って送り出す時期かもしれないのだ。
 そう、冒険者たちの戦いは大団円で勝利を迎え、恐るべき脅威は取り除かれたのだ。
 伝承の巨神は倒され、三つの民は全ての大地で新たな時代を迎えるのだ。
 だが、ヴェリオは表情を陰らせる。
「妙な胸騒ぎが、してね。帝国にいる間もずっと、気になっていた」
「ヴェリオさん、それは……?」
特務封印騎士団(とくむふういんきしだん)、という組織を知ってるかい? クアン」
「名前くらいは」
「普段から独立自治とあらゆる越権行為を許された、謎の帝国最強騎士団さ。この大惨事にも沈黙を守り通したかと思えば、冒険者たちを試すように立ち塞がったとも聞く」
 そういえば、とクアンも記憶を紐解(ひもと)く。
 ポラーレたちは一度、特務封印騎士団の女団長と刃を交えたらしい。
 何故、帝国でも最高の戦力が未だに沈黙を続けているのか?
 その答がクアンにも、穏やかならざる戦雲を感じさせて恐ろしい。
 二人がそんな話をしていた、その時だった。
 不意に女の声が走った。
「戦いは終わったわ。再び始まるまでの間だけ、ね」
 聞き覚えのある声に、思わずクアンは振り返った。その時にはもう、傍らのヴェリオは腰のサーベルに手をかけている。
 二人の視線が交わる先に、信じられない人物が立っていた。
 相変わらず蠱惑的(こわくてき)な程に大胆な薄着で、それ自体が飾られた美そのものであるかのような見心地のいい肢体。唇に妖しげな笑みを浮かべる、長い黒髪の女だ。
「貴女は……ファルファラさん!」
「……生きていたのか。以前、帝国で何度か……そう、巫女シウアンの家庭教師をしていた女だな? それが何故。どういう意味だい? 先ほどの言葉」
 ファルファラはまるで、裏切り別れたあの瞬間から変わらぬ仲間であるかのように、なんの警戒心も持たずに近寄ってくる。
 その手には、(あか)い布切れが握られていた。
「そのままの意味よ? 駐留武官さん。久しぶりね、クアン……少しいい男になったみたい。修羅場をくぐったからかしら」
 喉の奥で嬉しそうに笑いながら、ファルファラは手にした布を付き出した。
 渡されるままに受け取って、それがなんであるかを知るクアン。
「これは……ラミューの」
「大事な頭巾(ずきん)なんでしょう? 貴方から返してあげて頂戴。……それと、さっきの話だけど、そのままの意味よ。昨日勝ち取った平和は本当の本物。ただし、次の戦いまでのね」
 思わずクアンは、ラミューが常に肌身離さず身に着けている頭巾を握り締めた。
 一つの戦いは、終わった……だが、既に次なる戦いは始まろうとしている?
 その答を強請(ねだ)るように、クアンが口を開こうとした、その瞬間だった。不意に背後で立ち上がる気配がして、一人の騎士がこちらへとやってくる。
「ヴェリオ、帰国は延期しよう。俺たちは……まだこの土地でやるべきことがあるようだ」
「ナル、お前……しかし、帰国命令は勅命(ちょくめい)だぞ! 逆らえば、ただでさえ立場の危ういお前は」
「姉様も承知の話さ。とりあえず、例の特務封印騎士団に接触しよう。冒険者たちには(しば)しの休息が必要だけど……その間に俺たちは、俺たちができることをするんだ」
 そこには、先程までの無気力に呆けた表情は微塵もなかった。
 クアンは改めて、ブリテンの騎士ナルフリードの毅然とした態度に感心する。とても、本国では破戒の狂騎士(クリミナル・センチュリオン)などと呼ばれている人物には見えなかった。
 ナルフリードの言葉に、ファルファラは満足気に頷くと踵を返した。
 彼女は用が済んだとばかりに、ひらひらと手を振り去ろうとして、


「そうそう、さっきタルシスも少し覗いてきたの。ポラーレの意識が戻ったそうよ? ふふ、強運ね……それとも悪運かしら? また、面白くなりそう」
 肩越しに一度振り返ると、それだけ言って去っていった。
 クアンは追いかけようとして手を伸べたが、同時に追いつけないような気がして見送るに留まる。まるで舞い散る世界樹の花弁にたゆたう蝶のように、あっという間にファルファラの姿は見えなくなっていった。

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