三竜と呼ばれた各大地の
珍しく安堵の笑みを浮かべるキルヨネンを、グルージャとリシュリーが取り巻き笑っている。そう、グルージャも笑っていた。以前からは想像もつかない、あどけない笑みだ。
それこそが最高の報酬だと、一人ポラーレは
その隣には、気付けばファレーナが寄り添い立っていた。
「あの子も、あんな笑顔を。……ですが、ポラーレ」
「ああ、うん。どうにも胸がざわつくね。僕の
ファレーナは未だ緊張を解いてはいなかった。
それは、冷却に入った砲剣を大地に突き立てるミナカタも同じだ。彼は赤熱化する刃が氷を溶かして巻き上げる蒸気の中で、油断なく一点を凝視している。
そして、氷嵐の支配者の死骸から、なにかが弾けて浮かび上がった。
それは、黒い
『今こそ封印は解かれた……
直接頭の中へと響く、低くくぐもる不快な声。まるで聴覚神経をひっかかれたような感覚にポラーレは身を固くする。どうやら全員にも聞こえたらしい。
吹雪が収まった中、暗く
その悪意と害意に満ちた気配が、どうやら声の主のようだ。
『
ビクン! とリシュリーの身体が震えた。
まるで魔性に魅入られたように、リシュリーは身動きできず震えながらその場にへたり込む。それを守るように前に出たグルージャを、ポラーレは見ていることしかできない。
そう、ポラーレでさえ動けない、それは殺気。
殺意の塊が今、見えない障壁となって全員を圧していた。信じられないことにポラーレは勿論、百戦錬磨の
「ポラーレ、これは! 邪気を感じます。なんて強い……暗く冷たい、
「グルージャ! 駄目だ、下がるんだ……グルージャ!」
瘴気は竜の頭のままグルージャへと近付き、輪郭を変えて人の姿を象る。そうして、ゆらゆらと揺らめく邪気が、グルージャの前へと立ちはだかった。
黒い手が伸びて、身を開いてリシュリーを
『この朕を前に控えぬか……クハハハッ! 面白い』
「あなたは、誰……? いいえ、なに? どうしてそんなに、暗くて冷たい空気を
『震えておるなあ? 恐かろう! 恐かろう、クハァ!
「質問に答えて。敵ならば容赦しないわ……リシュになにをしたの? 彼女になにかあったら、容赦できない、してやらない!」
『クハッ!
ポラーレは愛娘の勇気に感嘆を禁じ得ない。
そして、グルージャの震える背中が自分に勇気を与えてくれる。徐々にだがポラーレは、金縛りから脱しかけていた。視線を走らせれば、ミナカタやファレーナ、キルヨネンも頷いている。
今まさに、異形の影は姿だけは人の身に揺れながら、グルージャを毒牙にかけようとしていた。そして、動けぬリシュリーの前からグルージャはどこうとしない。
そんな一触即発の緊張感が、鋭い気勢と共に切り裂かれた。
「オラオラァ!
鋭い
彼女は真っ直ぐ、突剣を
その頃にはもう、ポラーレは身体の自由を取り戻して仲間たちと戦闘態勢を取っていた。
リシュリーだけがガクガクと震えながら、屈んだ場所から動けない。涙で顔をぐしゃぐしゃにして怯える彼女から、失禁の熱が小さく広がった。彼女はなにかを喋ろうとするが、紫色になった唇が空気を震わせることはない。
『ほう? 混者がもう一人……これは
「じゃかしいっ! おうこら手前ぇ、リシュになにをした。なにしたかって、聞いてるんだ、よっ!」
ラミューの振るう剣が、炎を纏って紅蓮に燃え盛る。
だが、ラミューが放ったリンクの炎は、まだ黒い影の周囲を渦巻いていた。
そして、グルージャが瞬時に構築した術式が
「あなたは、敵ね……あたしたちの、全ての大地の……みんなの、敵っ!」
珍しく激したグルージャの手が、輝く
しかし、地の底から響くような冷たい声は揺るがない。
『クハァ……カハッ!
両手を広げた影から、瞬く間に周囲へと闇が広がる。
それはラミューとグルージャを包むと、あっという間に二人を中へと巻き上げた。屹立する黒い竜巻が、二人を飲み込み切り刻んでゆく。
ポラーレが踏み出した時にはもう、ラミューとグルージャは血塗れで大地に落下していた。
その姿がスローモーションのように見えたところで、ポラーレの意識が集束してゆく。怒りに震えるその身は、
声にならない雄叫びと共に、ポラーレは影へと斬りかかる。
『カハハッ! 面妖な……人ならざるモノに激昂なぞ、片腹痛いわっ!』
「黙れ。そして、死ね」
ポラーレは身より生え出す
払い抜けた背後では、ゆらゆらと揺れる暗黒そのものが
「ファレーナ殿、キルヨネン殿をお頼み申す! おのれ
冷却の終わった砲剣を大上段に構えて、ミナカタが一撃必殺の剛剣を振るう。
だが、今度は影はゆらりとその切っ先を包んで、そのまままとわりつくなりミナカタだけを吹き飛ばす。そして、ポラーレの前で邪悪は自ら名乗りをあげた。
『朕を
――冥闇に堕した者。
それが、解き放たれた災厄の名。
ポラーレは油断なく身構えつつ、ファレーナへと目配せする。彼女はもう、先ほどの戦いで一番消耗しているキルヨネンを守る構えだ。だが、彼女が地に広げる方陣の光が、立ちはだかる影の周囲で
「術が! ポラーレ、気をつけてください。この悪しき気の力、まさしく邪竜」
『カァハ、ハ、ハ! 我を
冥闇に堕した者は、渦巻く自らの身体の中で……ミナカタの砲剣を木っ端微塵に砕いた。
風に舞い散る光のなかで、立ち上がったミナカタが
「剣が……友の、形見が」
ガクリ、とミナカタがその場に膝を突いた。
あの猛将が、剣と共に心を折られた。
冥闇に堕した者は満足そうに頷くと、最後に動けぬリシュリーを包み込む。
『これより朕は人の世を滅ぼし、
それだけを言い残すと、冥闇に堕した者はリシュリーごと消え去った。
その場に残された者たちは皆、災厄が一時去った瞬間、心身の疲労でその場から動けなくなった。解き放たれた太古の邪竜は、第四大地のある北へと飛び去ったのだった。