帝国騎士クレーエ"コルヴォ"アーベントは、驚きに言葉を失っていた。
凶暴化して荒れ狂い、広大な迷宮である
恐ろしい……身震いが止まらず、武者震いだと強がる気にもなれない。
「各員、負傷者の救助を最優先せよ! 殿下の御心を、これ以上悲しませてはならない」
クレーエは
その先では騎士たちは皆、加勢してくれたイクサビトのモノノフたちと助け合っていた。
「……こんな風にいつか、三つの種族がタルシスで交流する日が来るのだろうな。……いや、来るのを待たずに作らねばならない。そう殿下がお望みで、なにより俺もそう願うからだ」
ひとりごちて、クレーエは周囲を警戒しつつ、ふと目を止める。
騎士たちが見守る視線の中心に、一人のイクサビトが倒れ込んでいた。一騎当千の
死の淵に立っているこの男に、クレーエは見覚えがある。
確か、ヴィアラッテアという冒険者のギルドのメンバーだ。
その横には、膝をついたイクサビトの美女が屈んで手を握っている。
恐らく、この二人は
そして、その絆を生と死が分とうとしている。
クレーエは脚を止め、騎士や兵士たちの輪の中の男女を見守った。
二人の声がはっきりと聴こえる程度には、今の迷宮内は静かだ。まるで、嵐の後の静けさ……先程まで煉獄のようだった敵意と害意の空気は、今は綺麗に消え去っている。
そして、クレーエの鼓膜を弱々しい声が震わせた。
「イナン、ナ……よく、尽くして……くれ、た」
「ミツミネ様! そんな話……聞きたくはありません!」
モノノフの力は修羅の権化、そして羅刹の極み。一度力を解放したイクサビトは、士道の名のもとに鬼となる。だが、その代償は流血と痛みだ。
自然とレオーネの耳にも、周囲のざわめきが入ってくる。
「すげえよ、ミツミネ殿は……あんな立ち回り、帝国の騎士でも」
「だが、我らはミツミネ殿を頼り過ぎた。己のなんと弱いことよ」
「クッ! なにか、なにか俺たちにできることはないのか!」
だが、悲観を呟く者たちの中央で突然、パシィン! と音が鳴った。沈んで濁る重苦しい空気を払拭するような、それはイナンナが自らの頬を両手で叩いた音だった。
「ミツミネ様! さあ、一度地上に戻りましょう」
「……この傷だ、既にもう。だが、お前は」
「助けます、助かるんです! いいからわたしに掴まってください!」
「頼む……これ以上お前を、俺は」
だが、ここでの幕切れもまた
「わたし、泣きます! ミツミネ様を失ったら……泣き、ます」
「……イナンナ」
「イクサビトの里にこの人ありと言われた方が、女を泣かせて死ぬのが
イナンナが睨む先で、騎士たちが一斉に左右に割れて道を作る。その中を駆け出すイナンナに、誰もが砲剣を捧げて敬意を示した。
その背を見送るレオーネには、確信が満ちる。
あれは、死なない……生き残って生き延びて、そしてまた生き始める。
そんな繰り返しの中で、大事なものを守る……それは、騎士も
「っと、そういや……冒険者の嬢ちゃんたちはどうだった? 誰か、報告を」
クレーエが周囲を見渡しつつ、地下三階の中央へと向かう。
そこには、巨大な部屋へと続く扉があった。
脇には、今は停止したなにかの装置がある。確か、迷宮に散らばり設置された薬液を混ぜ、それを投入する機械らしい。それが今は役目を終えているということは、冒険者たちの当然の決断は、首尾よくことを運んだのかもしれない。
なにより、あの女がしくじるとは思えなかった。
クレーエが知る限り、帝国最強騎士と呼ばれる人間は片手で数えるほどだ。まずは筆頭騎士ローゲルに、その代理を務めたエクレール……今は本来の名と記憶を取り戻し、その正体が伝説のエトリアの聖騎士、デフィールだったことに誰もが驚いている。そして、真の忠義を貫いた暁の騎士、レオーネ……恐らく今、帝国で最も強い騎士は彼らであり彼女らだ。
その中に、数え加えてもいい人物がいる。
大罪人の娘として罪を
まだ生きていると、クレーエは確信している。
意を決して扉を開いたクレーエは、思わず想定外の光景に声を失った。
「こ、これは……なんと凄まじい」
そこには、マントもなく鎧も砕けて肌も顕な女騎士が立っていた。
その背中の名は、フリメラルダ・フォン・グリントハイム……特務封印騎士団、金色の牡鹿たちを統べる群れの女帝である。
フリメラルダは両手で握った砲剣を青眼に構えたまま、立っていた。
彼女のへし折れ中ほどから砕けたした刃の、その失われた切っ先が向く先へとクレーエは視線を滑らせる。続いて警戒しつつ入室してきた多くの騎士たちが、絶句の後にどうにか声を発した。
「こ、これは……なんと巨大な。これほどの蟲が」
「死んでる、のか? 倒した……この暗国ノ殿の闇を、千年の呪いを……
「クレーエ様! 彼女は、フリメラルダ様は無事なのですか!」
身動きせずに構えたまま固まるフリメラルダの前に、巨大な蟲の死骸が転がっていた。そして、全身からまだ白い煙を巻き上げ熱を発散する巨躯には、巨大な刃が突き刺さっている。恐らく、フリメラルダの折れた砲剣の切っ先だ。
それを見て、クレーエは戦慄に身震いした。
「フリメラルダ、お前……使ったのか、それを。特攻用砲剣"
以前、技術者たちが言っていた話を思い出す。帝国騎士たちが使用する砲剣は、一発の威力だけを求めるならば、より単純化した恐るべき蛮刀へと変貌するという。放熱と冷却の概念を一切無視した、一撃だけのための一振り……刀身自体が炸薬の塊でできた、振るう者もろとも対象を強撃、爆砕する剣。
その常識を逸脱した異形の砲剣を、フリメラルダは振るったのだ。
「……流石だな、フリメラルダ。それと、プレヤーデン・ナカジマ……大した技師だぜ」
「は? クレーエ様、それは」
「振るう者もろとも、攻撃対象を消滅させる外法の砲剣……そこに乗せた覚悟を察したからこそ、作った者の絶妙な調整が生きた。迷いなく振り下ろされることを前提に、ゼロコンマ以下のレベルで炸薬を調節、量を絞ったのだ。だから」
「だから、遺体が残った」
「いや」
フリメラルダは両のまなこで蟲を睨んだまま、固まっている。
だが、まだ息があるし、その胸の奥に鼓動が響いている。
それがクレーエにわかった、その時だった。
不意に、立ったまま大往生したかに思われたフリメラルだが、小さな声を発した。クレーエが背後に気配を感じてかしこまり、一歩下がって跪くのと同時に。
か細いフリメラルダの声は、確かにあの人を呼んでいた。
「……陛下。わたくし、は……陛下の、帝国の……敵を」
緊張の糸が切れたように、フリメラルダは折れた砲剣を落として倒れた。
だが、その華奢な身を抱きとめる姿があった。
「フリメラルダ・フォン・グリントハイム、任務遂行御苦労である。見事な忠義、そして見事な剣技……そなたこそ栄えある帝国騎士そのものなり」
「陛下……」
「余はいずれ皆からそう呼ばれるであろう。そのことを、血筋や立場ではなく……そなたのような騎士たちに誇れるもので証明したい。今は眠れ、フリメラルダ。父への忠義立てに感謝を」
そこには、帝国の皇子バルドゥールがいた。
彼の胸の中へと倒れ込んで、ようやくフリメラルダは瞳を閉じる。
ここに、帝国が千年もの間封じてきた、旧世紀の呪いが生み出した怪物は討伐された。
そう、思えたが……クレーエは胸騒ぎが収まらない。それは、完全に眠ってしまったフリメラルダを抱き上げ、バルドゥールを囲む騎士たちが歓呼の叫びで
全ては終わった、片付いた。
そう思えないなにかが、クレーエの本能に
あのフリメラルダが、プレヤーデンの最高傑作、ただ一撃のために紡がれた刃を叩きつけたのだ。これで死なぬ魔物がいるとすれば、それはもう生物ではない。
だが、生物を超越した存在がまだ、蟲の中で
それが今、死骸となって横たわる蟲の中から飛び出そうとしていた。