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 天の光を覆う、夜。
 太陽と月の巡りすら人から奪って、黒き世界樹が闇を広げていた。夜明けを知らぬ夜の始まりに、誰もが不安げに空を見上げる。
 不気味に明滅する枝葉は、(すで)に四つの大地を低く圧して広がった。
 それをラミューは、虚ろな瞳で見上げていた。
(オレは……死ぬ、のか? クソッ、大地が……タルシスが、やべぇ、けど)
 ラミューの胸を今、後ろから貫く太い枝が穿(うが)っていた。
 急激に成長した黒き世界樹の、その幹に(はりつけ)にされたままでラミューは血に(おぼ)れる。肉体的に優れた計画種(プランシーダー)といえども、流れる血を止めねば心の臓が停止する。だが、既にもう身体の感覚もなく、指一本動かせなかった。
(クアン、無事か? ポラーレの旦那や、仲間は……やべぇな。はは、なんだこれ)
 不意に、瞬きすら忘れた瞳に、なにかが写り込んだ。
 ラミューの視界に次々と浮かんでは消える、思い出の断片。それは、記憶の中に堆積(たいせき)していた過去の記録だ。物心付いたころから、クアンと一緒だった幼少期。二人を育ててくれた義父との別れ。
 そして、冒険者としてデビューして出会った、多くの仲間たち。
 その中でも、特別大事な友達がいた。
 四人の少女たちとの、騒がしくも賑やかな日々が鮮やかに蘇る。
(メテオーラ、お前なあ……いいぜ、オレの分も食えよ。人一倍働くからなあ、お前さ)
 元気ハツラツ、いつでも笑顔のメテオーラが思い出された。よく食べよく動き、そしてよく笑う少女だ。彼女の笑顔に、何度助けられただろうか……チームのムードメーカーにして、攻守の(かなめ)。そういう女の子だった。
(おいおい姫、リシュよう……ちったあ頭使えよ。はは、オレが言えたことじゃねえか)
 ダンサーのリシュリーは、いつもほわほわと笑顔で、どこか頼りなく危なっかしい。だが、脳天気なお姫様かと思いきや、彼女のメンタリティは驚くほど頑強でしなやかだ。決して折れることのない心が、時にたわんで(きし)みながらも、仲間たちを懸命に支えてくれた。彼女が導くリズムとテンポは、戦うラミューたちの鼓動を高鳴らせた。
 そして、そんな少女たちにとって妹のようなウロビトの少女も浮かんでくる。
(シャオ、ええと……なんでお前、泣いてんだ? なあ、泣くなよ……そんな顔してっと、コッペペの旦那に嫌われちまうぜ?)
 シャオイェンはいつも、ラミューたちのトラブルメーカーだった。散々引っ張り回してかき回して、一人で騒いで早とちり、そして暴走して逃げ帰ってくる。そんなシャオイェンを誰もがかわいがったし、好きだった。
 ――そして、あいつがいつも……いつでも、そんなラミューたちを見守っていた。
 一見して無表情な仏頂面(ぶっちょうづら)の、少し年下の女の子。
 繊細かつ大胆に、冒険も私生活もグイグイ迷わず、とりあえずやってみちゃう少女だ。生まれと育ちとが、躊躇(ちゅうちょ)や戸惑いを許さなかったから……だが、彼女が無感情ではないことを、誰もがみんな知っていた。
(あれ? なんだ、グルージャ……お前も泣いてんのか? はは、こりゃ明日は槍が降るな……そんなにヤベェのかよ)
 おぼろげに浮かぶグルージャが、大きな瞳に涙を浮かべている。
 滅多(めった)なことで表情を出さない、あのグルージャがである。
 そして、ラミューは気付く……それは追憶より浮かび出た光景ではない。今、光を失った自分の瞳が見ている実像だ。
 目の前に今、グルージャが浮かんでいた。
 そのことに気付いて、ラミューは震える手を伸べる。そんな余力が残っていることにも驚いたが、声をかけようとしても黒い血が吐き出されるだけ。
 グルージャはただ、ぼんやりと浮かんで僅かに光を帯びている。
 零れる涙も拭わず、じっとラミューを見詰めている。
(ヘイ、グルージャ……泣くなよ、泣くなって。かわいくねえ面が、みっともねえことになってんぞ。なあ……お前も少しは笑ったりしたら、かわいいのによ)
 ラミューがそう思うのは、身体と心の半分が男だからだろうか?
 だが、陰陽(いんよう)併せ持つ自分の性別とは、いつも折り合って上手く生きてきた筈だ。だから恋する乙女でいられたし、グルージャたちと仲のいい女の子同士でいられた。
(お前は、無事、かよ……なあ、グルージャ……悪ぃ、オレは、そろそろ……っ? お、お前……)
 意識が薄れ行く中で、世界を閉ざす暗闇に沈みながら、ラミューは気付いた。
 今、自分の前で泣いている少女は、グルージャではない。
 その強い瞳の光が似ていて、そっくりだったが、違う。
 それは……冒険者たちの間でずっと噂になっていた、世界樹の迷宮に現れる謎の少女……亡霊か怨念か、正体も知れずに彷徨(さまよ)い出る女の子だった。
 そうだと気付いて見れば、髪型や衣服がまるで違う。
 瞳の輝き以外は全然違うのに、やはりラミューはグルージャのことばかり思い出された。
 少女は(うつむ)き加減に泣きながら、か細い声を絞り出した。
『大地が、沈む……黒き世界樹が、今……癒すために大地を、無理矢理眠らせようとしているの』
「う、ああ……お前、は」
『ボクはソーニョ。姉さんや母さん、そして父さんがそうでなかった、こことは違う世界線の可能性』
 ソーニョと名乗った少女の言葉は、(けむ)に巻くようで、それでいて真摯(しんし)な実直さが滲む。不思議な声音で、彼女は喋り続けた。ラミューはそれを聞きながらも、言葉すら発することなく咳き込んだ。
 ソーニョの言葉は、死にゆくラミューの鼓膜を優しく撫でて消える。
『世界樹の力の本質、それは人ならざるものの奇蹟。祈りと願い、そして想いを望みに変えて、この星に根付く。それは時として、異なる可能性の分岐先さえ、手繰り寄せてしまう』
「それ、が……お前、か……ガハッ! ハ、ハァ」
『世界樹は人に寄り添い、人を見守る。偉大なる存在たちが、各々(おのおの)がめいめいに残した希望。それを人の手で(つく)ろうと思えば、欲とエゴとが呪いを生む。(かな)しいまでに、人の気持ちは時に、強過ぎるの』
 今という時代はまだ、この世界の大きさも広さも知らずに続いている。
 だからこそ、人は探究心と好奇心を胸に、冒険へと出るのだ。
 そして、遥か太古の旧世紀や、有史以前の神代(かみよ)の昔……そのことを見越したかのように、そっとこの星へ贈り物の種を蒔いた者たちがいたのだ。その存在を表現する言葉を、ラミューは持たない。
 神という者もいるだろうし、過去の文明を信奉する者だって大勢いる。
 だが、現に今……世界樹は多くの大陸で人に恩恵と試練をもたらしていた。
 そんな世界の片隅に、恐るべき暗黒が芽吹いてしまったのだ。
『かつて人は、絶望のさなかで世界樹にすがった……そして、世界樹ですら抱きしめきれない大地の傷痕(きずあと)……そんな中で、血を吐くように産み落とされた、祈り。それが今、呪いとなって全てを無に帰す』
「そんな、こ……さ、せ……ねえ……させねえ、よ」
『お願い、冒険者……姉さんと母さんと、そして父さんとを、助けて。世界を背負えなんて、いえないけど。ボクは(えにし)の繋がりが(つい)える、()たれた可能性として消えてしまう。それはいいんだ、でも……ボクの家族を、助けて』
 幼い少女が、泣いている。
 その涙を吸い込む眼下の大地は、(いびつ)な邪悪が包む下に凍えていた。
 そして、気付けばラミューは……ソーニョに触れようとして空を切る手を、強く握っていた。
 拳に食い込む爪の痛みが、去りゆく全身の感覚を繋ぎ止める。
 零れ落ちる命を振り絞って、流れるままに零しながらラミューは叫んだ。
「なに、言ってん、だ……なにを、言ってんだよ、お前……」
『そう、だよね。ボクなんかじゃ、もう……』
「なに、言って……なに言ってやがるっ! 助けてだ? おうコラ、手前ぇ……当たり前だろっ! オレじゃなくたってなあ……冒険者が泣いてる女の子、放っておくか、よぉ!」
 驚くソーニョの顔が、そして身体が透けてゆく。
 恐らく、彼女という存在を顕現(けんげん)させている世界樹すら、この異変の中に飲み込まれようとしているのだ。自ら汚して壊した大地を蘇らせるべく、禁忌(きんき)を犯して(ことわり)を踏み越えたのだ。真理と摂理を超えた彼岸の彼方から、その虚無を呼び込んでしまったのだった。
 それを今、ラミューは倒すべく力を振り絞る。
 彼女にとって、そして冒険者という人種にとって、世界の命運と少女の涙……それは貴賎なき等価、良し悪しや上下で語れぬ価値観に並んでいるものだった。
「見てろ、よ……ソーニョッ! 手前ぇをあの、仏頂面でかわいくねえ、性格はもっとかわいくねえ……俺の友達に、グルージャにっ! みんなに! もっかい、会わせてやる!」
 自分を串刺しにする枝を、開いた手でラミューは握る。
 抜こうとしても抜けず、折ろうにも折れない。
 それでも足掻(あが)いて藻掻(もが)くラミューの前で、ソーニョは泣き笑いで消えていった。
『ありがとう……だから好きだって、世界樹もいってる。人間が、好き……そうじゃなかったらきっと、ボクはここにいないから。だから――』
 薄れて輪郭の(ほど)けたソーニョが、集束する光となって消えた。同時に、彼女の残滓(ざんし)を飲み込んで、ラミューの胸に突き立つ枝に変化が訪れる。
 花が、咲いた。
 ラミューが握る枝に、白い花が咲いていた。
 そして、次第に光り出す枝が姿を変えてゆく。
『ラミュー、ボクの最後の力を使って……世界樹を依代(よりしろ)に発生したボクなら、この世界樹とも響き合える。本質的に同じ……祈りと呪いは合わせ鏡の裏表。だから……今、ラミューに力を』
 同時に、絶叫でラミューが全力で引き抜く……それは、輝く刃を持った剣になっていた。鍔元に白い花の咲いた、鋭く細い光の(つるぎ)
 支えを失い落ち始めたラミューの目が見開かれる。
 彼女は人間を超越した己の身体能力を、限界を超えた領域へと押し上げた。
 伸ばした手が枝葉に引っかかるや、それを軸に一回転。同時に手近な(こずえ)を蹴り上げ、舞い上がる。絶壁と化した巨木を、垂直に駆け上がる。


『ラミューに、(たく)す、ね? 世界樹の剣……力は力でしかなく、祈りと呪いが同質でも。それでも、人間は選べる。選ぶ先さえ生み出せる。それが、強さ』
 雄叫びを上げて馳せるラミューは今、手にした剣の輝きで光の尾を退く、流星。天へと昇る竜のように、彼女は血を振りまいて走る。その先で黒き世界樹は、雲海の上へと伸びていた。

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