複雑な印を指で結んでルーンを紡ぐ。両手に凍気が満ちて雷が閃く。  印術の術式を高速で処理しつつ突貫するヨルンは、不可思議な感覚に危機感を募らせていた。今まで自分の首を狙う賞金稼ぎはゴマンといたし、振りかかる火の粉を振り払うのはやぶさかではない。半端者の冒険者が用心棒に身をやつすことも日常茶飯事だ。だが、それでも奇妙な違和感は消えない。  目の前の黒い影は今、滑るようにヨルンへと無防備に突っ込んでくる。  手練のナイトシーカーであることは確かだが、それ以上のなにかがヨルンの中で警鐘を鳴らす。 「……一当てしてみるほかにないか。これなら、死にはすまいっ!」  かざした手から電撃が迸る。掌を中心に展開された術式が淡い光を湛えて広がり、強力な印術が薄暗い蔵の中を煌々と照らした。  放たれた雷撃の印術はしかし、指向性を持って相克する人影へと吸い込まれ……そのまま突き抜けて霧散した。 「消えたっ!?」  ラミューを抱きしめるクアンの口から、驚愕の言葉が漏れ聞こえる。  内心動揺を禁じえなかったが、次の瞬間にはヨルンは次の術式を展開させつつ敵の気配を拾う。暗がりの闇に溶けこむように、相手の殺意はあっという間にヨルンの知覚から消えていた。 「旦那っ、下だ! 影が……影が、動くっ!」  ラミューの声が響いたのは、ヨルンの鋭敏な感覚が危機を察知したのと同時だった。  床を黒い影溜まりがずるずると高速で移動している。それはたちまちヨルンの足元へと広がり包み込んで……そして、恐るべき異形の力を開放させた。 「ひっ、ひいいいいい! バ、バケモノだぁーっ!」 「ぬっ、抜けさせてもらう! 命がいくつあっても足りねえぜ」  用心棒の男達は口々に悲鳴を叫んで、我先にと逃げ出す。金貸しの豪商もおたおたと後を追って行った。  だが、足元を闇に飲み込まれたヨルンは、冷静に両手へ術式を広げていた。  敵がその怪異を明らかにしたことで、ヨルンの中に一つの確信が生まれる。 「昔、アカデミーでそういう研究をしていた者がいたな。……机上の空論と思っていたのだが」  ヨルンの呟きに呼応するように、床一面に広がった影が眼を見開いた。無数の血走る瞳が連なり、あたかも黒い大地に芽吹く花の如くあちこちで瞬く。それらは全て、冷たく殺意を込めた視線で中央のヨルンを見詰めていた。  そして影は、どこからともなくヨルンへと語りかける。 「流石は氷雷の錬金術師、だね。本気で戦うしかなさそうだ」 「……やってみろ」  ヨルンもまた泰然と言葉を返す。  次の瞬間、膝までヨルンを飲み込む闇の水面で、二重三重に蠢く視線の中から影が飛び出してきた。脚を取られて身動き不能なヨルンへと、漆黒の異形が襲いかかってきたのだ。それは大きく開いた口に無数の牙を並べて、それだけでしか構成されていないおぞましさで噛み付いてくる。身を捩ってヨルンが避ければ、背後に着水して溶け消える牙は、今度は無数に連なり数で全方向から襲いかかった。  たちまち前後左右から連撃を浴びて、ヨルンのローブが切り裂かれる。舞い散る血の赤は、全て広がる闇に吸い込まれた。 「クソッ、旦那がやられちまう! クアン、オレの剣は」 「駄目だラミュー、危ないよ! ……きみを危険な目に合わせる訳には」 「オレ、思い出したんだ。あの旦那に小さい頃、オレは会ったことがある。オヤジの相方だ」 「うん。だから信じなきゃ。あの人は氷雷の錬金術師……伝説の冒険者だから」  クアンの腕の中で身を捩りながらも、ラミューが声を張り上げる。  だが、それすらヨルンには意識の埒外だ。この常識を遥かに凌駕した闘争は今、防戦一方のヨルンを激しく削っている。体力の消耗は著しく、おびただしい流血は意識を削り精神力を揺らめかせていた。  だが、猛攻にさらされるヨルンは冷静に現状を分析していた。  そう、嘗て錬金術を学んだアカデミーで聞いたことがある……無から生み出された人造生命体の話を。人間として十全の機能を持ち、それゆえ人間の制約に縛られるホムンクルスなどではない。本当に人間を超えた、人間の姿でさえ仮初でしかない新たな命。それを提唱して学会を追われた男のことを、ヨルンはよく覚えていた。  そしてそんな研究の結実が今、現実の脅威として自分を襲っているのだ。 「よぉ、やってんなあ。ええと、ラミューちゃん? 心配ねえよ、黙って見てなって」  不意に剽げた緊張感のない声が響く。一人の男が「よっこらしょ」と、土壁に開いた穴から蔵へと入ってきた。ポケットに両手を突っ込み、ひょこひょこと歩くその姿は、酷く頼りない上に軽薄だ。だが、無精髭の顔には無邪気な笑みが浮かんで、瞳には確信の色が輝いている。 「アンタは……クアン、こいつは? 冒険者だな、それも並の腕じゃねえ……ような、そうでもないような?」 「えっと、確かヨルンさんのお連れの方で」  クアンの白衣で裸体を隠しながらも、ラミューが訝しげに見詰める男。彼はラミューの前まで来ると、ポケットから解き放った両手を芝居がかった仕草で胸に当て、恭しく膝をついて頭を垂れた。 「オイラ、コッペペってんだ。冒険者ギルド、トライマーチを仕切ってる」 「トライマーチ……聞いたことがある。あのエトリアやハイ・ラガート、アーモロードの?」 「ご名答だ、お姫様。まあ見てなって。ヨルンはいけすかねえ男だが、並の腕じゃないのさ」  コッペペの視線が意味深に向けられる。  ヨルンは未だ、淀む闇の淵に脚を取られたまま蝕まれ続けていた。嬲るような攻撃ではない、どの一撃も必殺の刃となって擦過する。当たれば致命打は免れない猛攻を避け続けながらも、ヨルンは冷静に術式を練り上げ、その手に凝縮してゆく。 「……一つ聞こうか。どうしてそうまで戦える?」  ついにはよろけて、ヨルンは片膝をつきながらも問い質した。  返答は淡白な声で、抑揚に欠き感情の起伏が感じられない。 「仕事、だから」  ヨルンは会話で時間を捻出しながらも、喋る一方で必殺の一撃を構築してゆく。 「律儀なものだな。バケモノの分際で」 「今日の糧を、明日への寝床を稼がなければいけないんだ。全てはあの娘のためだよ、人間」 「ふん、女か」 「笑える話かい?」 「いいや……男が命を賭けるに相応しい。さぞかしいい女なのだろうな」  不意に闇の水面が静まり返って、襲い来る無数の敵意が鳴りを潜めた。  それはしかし、満身創痍のヨルンへとトドメを躊躇わない、純然たる力が引き絞られる瞬間。次に恐らく、最大の攻撃で一気に決着を付けるつもりなのだろう。  だが、それはヨルンも同じ腹積もりだ。 「……娘なんだ。僕は父親として、あの娘を守らなければいけない」 「そうか。ふん、気が引ける……聞かなかったことにしておくぞ、ポラーレとやら」  次の瞬間、足元の闇が膨れて弾けるや、ヨルンの全身を飲み込んだ。ラミューとクアンの悲鳴が響く。平面を脱して荒れ狂う濁流となった影は、その中へとヨルンを引きずり込んだのだ。そして、蠢く闇の柱からは無数の刃が離れて浮かび、それは反転してヨルンを取り込む中へと吸い込まれてゆく。  人智を超えた圧倒的な殲滅力にしかし、コッペペだけがニヤニヤと不敵な笑みを絶やさない。 「……終わったね。ごめんよ、恨みはないんだけども」 「おい、あんちゃん! ……だよな、男の声だ。あれか、殺ったつもりか、そらぁ」 「僕は人間じゃないけど、人間のことは誰よりもよく知ってるよ。どうすれば死ぬのか、殺せるのか」 「じゃあ、もちっとお勉強してきな。……一流の冒険者は、そんなにヤワじゃねえのさ」 「なにを……僕の中は真空の密閉空間、深海にも似た超高圧と低温の世界だ。僕の闇に飲まれて――!?」  その時、突如としてポラーレは喋るのをやめた。蠢く闇がピタリと静止し、その中から……ズン! と氷の刃が突き出した。それはやがて無数に増えて、内部からポラーレの異形の身体を串刺しにする。堪らずするりと極寒の剛爪から逃れるポラーレは、ゆるりゆるりと人の姿へ解けていった。だが、その胸から生える腕は今、翡翠色の輝きを手に握っている。  血塗れのヨルンが中から姿を表し、そのかざした右手にポラーレが人の姿で集められてゆく。 「これが核か。なるほど、いい術式だ。並の術師ならば、見つけることすら無理だろうな」 「ま、まさかこのために……?」 「馬鹿を言うな。博打だったさ……貴様の力は強過ぎる。だが、分の悪い賭けは嫌いじゃない」 「わからない……どうして人間は、そうまでして戦えるの? 僕は――」 「考えてもわかるものではないさ。感じることもないだろう……おやすみだ、バケモノ」  錬金術が生み出した異形の生命であるポラーレの、その中心たる術式……核を握ったまま、ヨルンはもう片方の手に稲妻を集める。絶対必中の零距離で今、氷雷の錬金術師は怜悧な無表情を煌々と蒼雷で照らしていた。  だが、轟音と共に光が爆ぜた、次の瞬間にヨルンは目を見張った。ついぞ余裕の態度を崩さなかったコッペペでさえ、唖然として驚き惚ける。  ヨルンの必殺の一撃が今、眩い光を放って弾かれた。 「……父さんは、やらせない。その手を放して。父さんを、放して」  低く冷たい、聞き取りにくい小さな声だ。凍れる氷河のような、触れる全てを凍えさせるような声。だが、それを殺気と共に放っているのは小さな少女だ。ポラーレとヨルンの間に、一人の女の子が飛び込んでいた。その突き出す両手に、ルーンの盾が輝いている。  ヨルン程の術士が繰り出す全力の印術を弾く、それは並大抵の力ではない。現に今、彼女が顕現させたルーンの盾は、その光が肉眼で確認できるほど強いものだ。 「グルージャ……いけない、駄目だよ。宿で待っていられなかったのかい? 危ないよ、この人は」  弱々しく呟くポラーレの、今は人の姿を象る表面が泡立つ。明らかに今、動揺しつつも最後の力を使おうとしている。自分の命そのものである核を鷲掴みにされているにもかかわらず。現れた小さな女の子のために、それを捨てようとしている。 「父さん、もう逃げよう? この街は駄目、あたし達の居場所はない……あの男がくる」 「あの男が……グルージャ、それは」 「あたし達は雇われると同時に裏切られていたの。もうすぐあの男がくる。影から影へと闇を狩る、夜の狩人が」  ポラーレの白い顔が戦慄に戦慄いていた。それは、ヨルンが初めて目にするこの男の感情らしき表情。それは追われる者の恐怖と、守るべきものを持つ悲壮感が浮かんでいる。  だが、そこまででヨルンの意識は肉体を裏切り闇に沈んだ。全力全開で飛ばしすぎたツケが、彼を重い眠りに突き落とした。