激闘の一夜が明けて、朝。  早朝の空を吹き渡る風が、ゆっくりとタルシスの大風車を回して人の営みを活気づかせている。ほのかに消毒液の香る一階の病室で、辛気臭い野郎二人(それもイケメンなので微妙にイラッとする)の醸し出すギスギスオーラに挟まれていても、コッペペは上機嫌だった。  勿論コッペペが上機嫌なだけで、この場にいる患者二人も、その主治医も苦虫を潰したような顔をしている。 「ったく、クアンの奴は都会から帰ってきたかと思えばこれだ。相変わらず面倒な患者を連れてくる」  ぼさぼさの頭を指で梳きながら、しわくちゃのくたびれた白衣を揺すって町医者がため息を零した。この小さな診療所で唯一の医師、パッセロ・チェロットだ。彼は交互に、昨夜持ち込まれた瀕死の重傷人を見渡しカルテを読み上げる。 「ええと、まず……なんであんた、生きてるんだ?」  包帯まみれでベッドに半裸で伏しているのはヨルンだ。その無表情を一瞥して、パッセロは再度ため息を一つ。この冒険者の男は昨夜、虫の息で運び込まれて緊急手術を受けたのだ。無数の裂傷はどれも深く致命打で、出血も危ういレベルだったのだが。パッセロが頭を悩ませるのもしかたがないとコッペペは思う。  当のヨルンは先ほど、「いつ退院していいのか」と第一声をあげて怒鳴られ今はおとなしい。  だが、パッセロの頭痛の種はそれだけではない。 「それと……ええと、こっちは、その、なんだなあ。……薬、効くんだな」  ヨルンの隣のベットには、漆黒の影が同じ仏頂面で寝かされている。  今日はなんて日だと、パッセロがうんざりするのも仕方がない。なにせコッペペ達が運び込んだのは死体一歩手前の人間と、なんだかよくわからない生物だったのだから。だが、コッペペはこの若い町医者を評価していた。ヨルンの救命措置をする傍ら、わからないなりにどんどんポラーレへと投薬していたのを覚えている。こんな小さな診療所だ、どんな薬や抗生物質だって貴重だろうに……惜しむ素振りも見せないばかりか、そのことで金の話をまだパッセロは全く口にしていなかった。 「とりあえず旦那方……俺の診療所にいるうちは従ってもらいますからね」 「だ、そうだ」 「それは、困るね」  腰に手を当て仁王立ちのパッセロを前に、不機嫌丸出しでヨルンとポラーレが小さく呟く。  二人は互いにちらりと横目で相手を見ては、フンと鼻を鳴らして視線を逸らす。その都度、間に挟まれたコッペペやパッセロは、なんとも言えない淀んだ空気に圧縮されてゆくのだった。  そんなむさ苦しくも重苦しい空気に、不意にパッと花が咲いた。 「よ、旦那! どだ? 目ぇ覚めたってクアンが言ってたからよ。……お通夜かよ、こりゃ」  現れたのはバスケットを小脇に抱えたラミューだ。彼女はなんとも言えない雰囲気の中でも、物怖じせずにずんずか病室にあがりこんでくる。そうして二つのベッドを交互に見て、まずはヨルンに頭を下げた。 「あんた、ヨルンの旦那だよな。オレ、小さかったからあんまし……でもっ、助けてくれてありがとな!」 「……大きくなったものだな。剣はワルターにか?」  頷くラミューは腰に帯剣しており、テーブルにバスケットを下ろした時に小さく鞘の中で刃が鳴る。同時に、焼きたてのパンの香りが病室の中へと温かく広がっていった。ラミューは手早くパンを配り、いいよいいよと遠慮するパッセロにも握らせる。そうして今度は、その光景を不思議そうにぼんやり眺めていたポラーレへも朝食を差し出した。 「それと、確かポラーレ……ポラーレの旦那。旦那にも助けられたな、サンキュ!」 「……これを、僕に?」 「朝飯、まだだろ? 適当に見繕ってきたからよ、パンにチーズに珈琲とミルク、ワインもあらぁ」  最後にバスケットから取り出されたボトルは、すかさずパッセロに没収されてしまった。  だが、悪びれた様子もなくラミューは、ぼんやり見詰めるだけのポラーレへと、マーガリンを塗りたくったパンにあれこれ野菜とハムを挟んでチーズと一緒に渡してやった。そのまま受け取るポラーレが、やはり不思議そうに小首を傾げている。  コッペペにはその姿が、見た目よりもずっと幼い少年のようにも見えた。 「それはそうと、ラミューちゃん。酒はワインだけかい?」 「コッペペの旦那? やめてもらえますかね、患者の前で。それも朝っぱらから」  呆れた様子のパッセロの一言に「全くだ」と腕組み頷くヨルン。だが、次の言葉が真顔で放たれるや、パッセロの片眉がピクンと跳ね上がった。 「なにより医者の前でというのがまずい。ラミュー、コニャックがあれば頼む」 「オーライ、旦那! ……じゃあ早速買って、こよ、う……かな、あとで。あとで差し入れらあ」  平坦なジト目を向けるパッセロに気圧され、ラミューはそのまま言葉を濁して視線を逃した。  一連のやり取りもしかし、一向にポラーレの警戒心を和らげず、その態度を軟化させることはない。だが、彼はどこから取り出したのか、相変わらずの黒衣姿から紙片をヨルンへと差し出した。  それは先日、ヨルンが突きつけポラーレが切り裂いたものだ。 「これを、返しておくよ。……悪いけど、その人は見たことがない」 「そうか」  ヨルンは千切れた写真を受け取り、その断面をぴたりと合わせて指でなぞる。  簡単な錬金術の術式が展開されてぼんやりと光り、分子的な結合を断たれてしまった物質の補完がなされた。全く元通りになった写真へ一度視線を落として、それをヨルンは胸元へと仕舞いこむ。  その様子をポラーレはやはり不思議そうに見ていたが、視線に気付くやヨルンは咳払いをしてそっぽを向く。  コッペペは気付き始めていたが、二人が似たもの同士だということは黙っていることにした。  再び沈黙が訪れて、コッペペがもぎゅもぎゅとサンドイッチを食べて珈琲をすする音だけが響く。 「なあ、パッセロ先生。二人共しばらく動けないんだろ? こっぴどく削りあったからな」 「全治三週間、絶対安静の筈だけどな。まあ、食欲もあるようで大事ないとは思う」  むっつり黙ってパンを食べるヨルンとポラーレを、ラミューはまじまじと見詰める。その目には今、憧れの輝きが灯ってキラキラと朝日の光を反射していた。空色(スカイブルー)の双眸を何度も瞬かせながら、彼女は嬉しそうに二人を見やる。  だが、ふと不意にバスケットの中に一人分の朝食が余って、それでようやくラミューは気付いた。 「あれ? そういや、もう一人いただろ。なんかこう、無愛想な娘っ子がよ。オレと同じくらいの」 「グルージャの、ことかな」  抑揚に欠く平坦な声を返して、それでようやくポラーレも気がついたようだ。恐らく、今まで警戒心を高める余り忘れてしまっていたのだろう。自分でもそのことで、まるで自分を責めるように頭を抱えてしまうポラーレ。  無理もない事だった。彼は暗殺や調略、破壊工作のために作られた亜生体……瀕死のダメージを負えば自己保存を第一に考えてしまう。そういうふうに作られた生物なのだ。 「なんてことだ、僕は、また……グルージャ、いったいどこに」 「そういやいねえなあ。昨夜は寝ずの番でずっとあんたの横にいたんだけどよ」  コッペペはサンドイッチの欠片を口に放り込んで手をパンパン叩き、嫌そうに顔をしかめるパッセロへと問いかけの視線を送る。  パッセロの対応は迅速だった。 「あの()も疲れてる、いったいどこに……いいです、俺が探してきますから。旦那達はおとなしくしててください」  白衣を翻してパッセロが出てゆき、首だけをひょっこりと振り返らせる。 「それと二人とも! 絶対安静にしててくださいね。俺ぁ患者に死なれるのと、患者に勝手されるのが嫌いですから」 「わかった、覚えておこう」 「動こうにも動けないけどね、まだ回復が……でも、投薬は助かったな。随分と構成物質が補填できてるみたいだ」 「ったく、不死身の冒険者に未知の生命体か。いいですね! ヘタすると死にます……死んだらブッ殺しますからね!」  それだけヨルンとポラーレに言って、パッセロは今度こそ出て行った。その背を見守り、ポラーレは幾分安心したように、しかしそれでも自分が動かなければと責め立てられているようだった。身を起こそうとすればしかし、彼の黒い四肢に不気味な明滅が筋と走る。 「やめておけ。その肉体を維持するだけで精一杯の筈だ」 「でも、じっとしてはいられない。僕は、あの子の、父親なんだ」  無表情ながらも言葉に苦悶を滲ませるポラーレ。見守るコッペペは、気付けばヨルンが手を貸そうとしているのを察した。  そして同時に、窓の外に尋常ならざる気配を感じる。ほのかに薫る香水と共に。 「貴方のお嬢ちゃんなら、小迷宮よ……森の廃鉱。お金が必要だって言ってたから、フフフ」  若い女の声だ。そのしっとりと鼓膜に浸透してくる美声は、どこか冷たいのに蠱惑的に響く。  窓の外に今、褐色の肌も顕な踊り子の女が立っていた。その顔は薄布のヴェールに覆われ、表情は目元しか読み取れない。宝石のように光る瞳は、まるで獲物を吟味する猫のようでもあり、深海の奥底に秘められた真珠のような潤いをたたえている。 「……きみは、誰? グルージャに、なにをした」 「その答えを知るのはまだ早いわ。でも、代わりにもう一つ……あの男を呼び寄せたのは、私」 「あの男(イェーガー)……そうか、僕達を雇い主に引き合わせつつ、追手へと連絡をつけたのは」 「ええ。だって貴方、ものすごい賞金首ですもの。裏の世界じゃ有名よ? それと、そっちの色男さん……氷雷の錬金術師も」  それだけ言うと、次の瞬間には窓枠の中から女の姿が消える。  粗末なサッシを額縁のように飾っていた貴婦人画は、あっという間に日常の風景に戻った。  咄嗟に立ち上がって窓から身を乗り出したが、コッペペが往来を左右見渡しても女の姿はなかった。ただ蝶のようにふわふわと、謎のダンサーは消えていた。その言葉はしかし、コッペペの中に確信として満ちる。嘘は言ってなさそうだ。 「っと、こいつはやべえな。おおかた治療費のことでも考えたんだろ。さぁて、オイラが」 「森の廃鉱か。おっし、オレに任せなって。旦那は休んでてくれよ、一睡もしてないんだろ?」  不意にラミューはパン! と右の拳を左手で包んで叩く。そうして彼女は、スカートのポケットから真っ赤な布切れを取り出した。それは若干日焼けして色あせているが、どうやらスカーフのようだ。それを彼女は頭巾のようにかぶって金髪を覆う。 「それかい? ラミューちゃんの宝物ってなあ。取り返せたんだな」 「おうっ! ……これは、迷宮で捨てられてた赤子のオレの、首に結んであった布なんだ」 「……首に? そりゃ穏やかな話じゃねえな」 「みんな、絞め殺そうとしてできなかったって言うけどな。でも、オヤジやクアンは違うって。オレも、そう思う」  ラミューは颯爽と病室を出て行った。  目指すは街を出てすぐ西にある、今は使われていない炭鉱。そこは小迷宮と呼ばれる、冒険者達のささやかな生活の場になっていた。モンスターが跳梁跋扈し、小さいながらも危険の多い魔宮と化している。コッペペは自分も同行しようかと思ったが、ラミューの実力が見たくて残ることにした。  そしてもう一つ……あのヨルンの術を弾いて防いだ少女のことが気がかりで、そのことも少し知りたくてバスケットの中に手を伸ばす。 「……きみ達人間は、よくお酒を飲むよね。まだ日も高いよ、ええと」 「オイラか? コッペペってんだ。その面まさか……へへ、飲んだことないみたいだぜ? ヨルン、どうするよ」 「決まっているだろう、飲ませてみろ。……少しは気が紛れるかもしれん」  よく見ればポラーレは、落ち着かない様子で凍えたように己の身を抱いている。  コッペペは安心させるように微笑みながら、コルクの栓を抜き放った。