森の廃鉱は静けさに沈んで、嘗ての繁栄を微塵も感じさせない。かつて開拓民達がタルシスの街を開いた時に、鉱石の採掘を行なっていたのがこの場所である。だが、タルシスの街が完成すると同時に鉱脈の恵みは尽き、活気に湧く鉱夫達も消えて久しい。  今、グルージャ・メルクーリオを包む空気は、静謐なまでに厳かだった。 「こっちは行き止まり。……ふう、思うように進めない。これが、迷宮……なんだ」  グルージャは独りごちて地図を広げる。先ほどこの小迷宮の入り口で、ワールウィンドと名乗る不思議な男からもらった物だ。長らく大人達の狭間で生きてきたグルージャには、この未完成の地図が厚意による贈り物ではないことが明白だったが。だが、自分に必要なものならば得ることに躊躇もないし遠慮もしない。事実、数時間程行ったり来たりで、この迷宮の全容は彼女の手の内に集まりつつあった。  この地方では、どうやらこうした小規模な迷宮を小迷宮と分類して呼んでいるらしい。  それは必定、さらに大規模な迷宮が別種の冒険として用意されていることを暗に物語っている。 「進もう。治療費だけじゃない、当分の生活費も稼がなきゃ」  父親のポラーレは昨夜、グルージャの前で初めての失敗を喫した。それはグルージャの小さな胸の内で今も、驚きと動揺を交互に奏でている。いつも表情も感情も乏しく、しかしいつでもグルージャの側に居てくれる頼もしい保護者。ポラーレが仕事の現場をグルージャに見せようとしなかったが、グルージャがポラーレの仕事を目撃してしまうのは一度ではない。  だが、今回だけは特別だった。  自分が咄嗟に飛び込み助けなければいけないほど、ポラーレは追い詰められていた。 「……世界は広いってこと、だよ? 父さん、最近調子良かったから。ちょっと気が緩んだのかな」  自分で口にしてみて、その可能性をグルージャは即座に否定する。残念ながら、彼女の父親をずっとこなしている男は……否、生物は、そんな人間味など微塵も持ち合わせていないのだ。ただ目的のために手段を行使し、その内容はいつでも洗練された容赦のないものだ。  赤錆びて途切れがちなレールを追い、朽ちた枕木の上を歩きながらグルージャは父親を想った。  ――もう、実の父母は思い出せない。正確には、最初から知らない。遠く北方の辺境、年中灰色の極寒に閉じ込められた土地のことは忘れた。忘れていたことさえ覚えていないのだ。そんな土地で心を凍らせていた少女を、珍妙で奇妙な生物が連れ出した。それは、村の人達が噂していた化物だったかもしれない。人ですらない彼はポラーレと名乗り、同じメルクーリオの姓をくれたのだ。  身を切るような寒さの中で、初めて自分に触れてきたのは……温もりを持たぬ異形の怪異だったのだ。  それでも、数年間各地を飛び回っての放浪生活をグルージャは一生記憶に留めるだろう。  父一人子一人の思い出として。 「……だから、父さんが寝てる内はあたしが稼がなきゃ。なら、もう迷わない」  迷っている余裕など、グルージャにはない。  その手に印術の光を励起させながら、宙を走る術式の輝きにグルージャの無表情が照らし出される。特別整った顔立ちではないが、表情の彩りに欠けたその顔はあどけなさが白く凍って、まるで硝子細工のように儚い美しさを帯びていた。  僅かに目元を険しく、グルージャは歩を進める先へと目を細める。  そこには、道を塞いで牙を剥くモンスターの影。  身体を丸めて甲殻に身を覆った鎧獣が、グルージャを見るなり襲いかかってきた。 「迷わないって、決めた、から」  怯まずかざした手から、グルージャは氷の礫を現出させる。印術によって作られた凍れる鏃が、鋭さを輝かせてモンスターを貫いた。  断末魔の絶叫と共に、グルージャは全身をけだるい倦怠感が包んで足元がグラリ揺れるのを感じる。  昨夜は父親に付き添い、一睡もしていない。そんな彼女に声をかけてきたのは、不思議な雰囲気を持った踊り子だった。褐色の肌も顕なダンサーの女性は、グルージャに治療費のあてはあるのかと聞いてきた。首を横に振るしかなかった彼女は、街外れの小迷宮へと危険なお使いを頼まれたのだ。提示された報酬の魅力に、グルージャは拒む理由を見つけられなかった。 「んっ、駄目……まだ、倒れては、駄目」  目の前で力尽きたモンスターへと、護身用の小刀を抜きながらグルージャは歩み寄る。動物を捌くのは慣れてるし、換金できるならなんでも持ち帰るつもりで逆手に刃を握り直す。だが、一歩を踏み込んだつもりが、気付けばグルージャは大地に膝を付いていた。印術は精神力を酷使する。まして一人でマッピングや探索をしながらの連続戦闘ともなれば、睡眠不足の乙女ならずとも消耗は激しい。  霞む視界が大きく揺れて、その中に新たなモンスターの影が浮かび上がる。  グルージャが歯を食いしばって立とうとした、その時だった。 「危ねえっ! オラオラッ、どきな! ボッとしてっと怪我するぜっ」  閃光が走って風景が両断された。突き抜けた光の筋はそのまま、軌跡で巨大な昆虫のモンスターを両断する。  助けられたと気付いた時には、隣にグルージャと同じ年頃の少女が立っていた。金髪を赤い頭巾で覆って、空色の瞳を輝かせている。自分よりも一つか二つ年上に見えたのは、自分と違って優雅なスタイルのよさが目についたから。その少女は、手にした突剣をヒュンと振って血糊を吹き飛ばすと、納刀と同時にグルージャへ向き直った。 「オイッ! 怪我ぁねえか? ねえな? ったく……素人が一人で迷宮だなんて、どうかしてるぜ」  少女はポンポンとグルージャの肩を叩いて、安堵の表情を慌てて苦々しさで覆った。忌々しそうに舌打ちをしてみせて、わざとらしくため息を大げさに零す。  今、死にかけた。目の前を生死を分かつ運命が通り過ぎた。  なのに、グルージャの口から突いて出た言葉は、 「貴女、誰? ああ、昨日の……半分ずつの人」 「半分ずつって言ーなっ! オレはラミュー、ラミュー・デライト。冒険者さ、オチビちゃん」 「あたしはグルージャ、オチビちゃんじゃないわ。でも、ありがと。もう、大丈夫だから」  無愛想に自己紹介を終えるなり、ついでに礼を言ってグルージャは先を急ぐ。まだ足元が若干ふらついたが、ラミューと名乗った少女のお陰で意識が鮮明になった。昨夜の彼女の痴態たるや、忘れたくても忘れられないインパクトがあったから。  だが、そんなグルージャの細い手首を乱暴に掴んで、ラミューはその華奢な矮躯を引っ張り戻す。 「おっと、悪いが素人はここまでさ。悪ぃな、オチビちゃん。ここから先は冒険者の領分さ」 「……放して。あたしはこの奥に用があるの。鉱石を、虹翼の欠片を持ち帰らないと」 「オーライ、話はわかった。ならここで待ってな。オレが取ってきてやる。鉱床はやべえデカブツの巣だからな」 「そんなこと、頼んだ覚えはないわ」  振り払ったラミューの手は、グルージャの首元へ伸びて襟を鷲掴みににしてきた。踵が地を離れて、吊るされるように引き寄せられれば間近にラミューの上気した顔が近い。空色の瞳は今、怒りにも似た感情が燃え盛っていた。 「迷宮なめんなよ、オチビちゃん。死んじまうんだ……っ! ……オヤジみたいな熟練の冒険者でも」  それだけ言って手を放すと、ラミューは迷宮の奥へと行ってしまった。  呆然と立ち尽くすグルージャの周囲に再び静けさが舞い戻る。そして、その静寂に相応しい柔和な声が響いた。 「妹がごめんよ。怪我がなくてよかった。きみが森の廃鉱に向かったって聞いてね」  振り向けばそこには、ひょろりと頼りない優男が立っていた。確か、先程のラミューと同様、昨夜の乱痴気騒ぎの場にいたような気がする。白衣を着込んで「これの出番がなくてなによりだよ」と、微笑みながらポムと診療鞄を叩く。 「ここは駆け出し御用達の小迷宮だけどね。危険なことには変わりはないから」 「あの人……ラミューは」 「ああ、僕の自慢の妹さ。僕はクアン、クアン・デライト。よろしくね、グルージャちゃん」 「……ラミューは、どうしてあんな顔を」  グルージャにおせっかいを焼いて奥へ消えた少女は、一瞬だけ泣きそうに顔を歪めていた。そんな表情を向けてくる人間などグルージャにはいなかったし、そうした感情をぶつけてくる相手は会ったことがない。そして今、初めて出会った。触れ合った。  そのことを胸中につぶやいていると、バツが悪そうにクアンは頭をかきながら俯いた。 「父さんが亡くなってね。あんなとこで死ぬような人じゃ……あ、それよりどうして虹翼の欠片を? もしかして――」  クアンの言葉もラミューの事情も気になったし、他人が気になる自分にも少し驚いたが。それでもぼそぼそとグルージャが事情を呟いた、その時だった。奥からエコーを響かせ、あられもない絶叫が響いてきた。その源が今、恥じらいも忘れて全力疾走でグルージャ達へと突っ込んでくる。 「あれ? ラ、ラミュー? 調度良かった、きみも一人で先走っちゃ駄目だよ? 一緒に」 「わっ、悪ぃクアン! ちょっちシクったぜ……滅茶苦茶怒らせちまった! 逃げろ!」  その時、グルージャは見た。ラミューの背後に、筋骨隆々たる巨大な狒狒のモンスターを。顔を怒気で深紅に彩り、目を血走らせて通路狭しと迫ってくる。そういえば、ワールウィンドと名乗って地図をくれた男が言っていた。虹翼の欠片が採掘できる鉱床の近辺には、一段と危険度の高いモンスターが徘徊していると。  それが迫っていると察した時には、逃げようと手を引くクアンをグルージャは振り払っていた。 「借りを返したいんだけど? いいかな、ラミュー」 「ばっ、馬鹿言ってんじゃねえっ! こういう時ゃあ逃げるんだよおおおおっ!」 「昨日の人はたしか……こう。直接印の結びを見た訳じゃないから。そうだ、きっと……こういう感じ」  目の前でヘッドスライディングに身を躍らせたラミューへと、のしかかるように飛び出した狒狒が宙を舞う。  その時グルージャは、躊躇せず自ら飛び込んで距離を潰した。目の前に呼気を荒げて唸る猛獣の息遣いを感じて、むせるような獣臭に包まれた殺気が肌を刺す。だが、グルージャを包む空気は次第に氷結して白く煙り、水分は結晶化して色素の薄い髪をさらった。帽子がふわりと大気のうねりにさらわれ、ローブが吹きすさぶ風に遊び出す。  構わずグルージャは、己の手の内に集めて紡いだ印術を、印紋の輝きと共に突き出した。 「……失敗。そりゃそうね、見よう見まねでできたら苦労はないもの」  グルージャと空中で交錯して、鋭い牙と爪で虚空を裂いたモンスターが着地する。  その全身は、内側から飛び出した巨大な氷刃で串刺しになっていた。あまりに鋭利……そして低温の氷柱は、吹き出す血さえも凍らせながら赤い霜を降らせた。ラミューを抱き寄せ抱きついて庇うクアンも、あまりの光景に言葉を失っている。  そう、氷雷の錬金術師を真似てみたが失敗したのだ。  本来ならば出血すら許さず、モンスターは二度と地を踏むことはなかっただろう。  それでも、体内から氷に侵され出血死してゆく狒狒は、自分が死んでゆくことにも気付かずその場に崩れ落ちる。  まるで先程の自分のよう……生と死は常に傍らにあって、片方に手を伸ばし続けなければもう片方に飲み込まれてしまう。だからポラーレは父としてグルージャに言い聞かせたし、自分にも呪詛のように呟いていた。今日の糧を、明日への寝床を。  だが、それだけでは死に抗うことしか、死なないことしかできないとグルージャはもう知っていた。  丁度自分が、寂しい影の魔物にさらわれた時に気付いたのだ……その日きっと、自分は初めて生まれて生き始めたのだから。 「これで貸し借りはナシ。でも、こんなのがうろついてるなら、三人で行く方が安全ね。……駄目? ラミュー」  顔を真っ赤にして兄の抱擁を引剥がした少女へと、グルージャは手を差し伸べてみた。  初めて不器用に微笑みながら。