うねるような山道をゆく荷馬車は、ガタゴトと荒れた路面の起伏を拾って揺れる。向かう先、大きく開けた風馳ノ草原より吹く風は強く冷たい。だが、その先へと向かう者達は誰しも、風鳴に唸るその流れを追い風にと真っ直ぐ目指す。最果ての街、開拓者達で活気づくタルシスへ。連なる商隊の列は、どの馬車も山積みの荷物にチラホラと開拓民の姿。  吹き荒ぶ風に誰もが縮こまる中、身を寄せ合う一組の人影があった。  見る者誰しもが、その温かな言葉のやり取りに家族の姿を見るだろう。 「はいけー、親愛なるジェラ。わたくしは今――」  リンゴの詰まった木箱を机に、揺れも気にせず少女がペンを便箋へと走らせる。上機嫌で鼻歌交じりに歌えば、擦り切れたマントの端で色を抜いた髪が揺れる。あどけない顔は日に焼けて健康的だが、奇妙な違和感が同居していた。中性的な顔立ちは少年のようで、しかし星海の如き双眸が可憐な少女の愛らしさを輝かせている。  熱心に手紙を綴る少女の隣で、覗き込む視線が柔らかに目元を緩めていた。 「リシュ、綴りを間違っているぞ」 「あらら? ええと、この字は……そうですわ、間違ってますの! 正しくは……こうですわ!」  隣で微笑む妙齢の女性は、少女と並べて見れば母子にも見えるし、姉妹のように仲睦まじい。短く切りそろえた髪の下では、理知的な切れ長の瞳が美貌の麗人を飾っていた。  長身痩躯のその女は、再度少女の手元へ目線を落として頷いた。  それでリシュと呼ばれた華奢な矮躯の持ち主は、ニッコリと満面の笑みを零す。周囲で風に身を丸める者達も皆、そんな女の子の姿に自然と顔を綻ばせた。誰もが気づきもしない……今この場に、さる国の王族がいることを。それも、王女が二人も。その片方であるリシュリー・ミルタ・ミル・ファフナント自身、長い旅路で自分が王族であることを忘れ始めていた。いつから覚えていないのかも思い出せない。そして、そのことを隣で見守るエミット・ミル・ファフナントもまた悪くないと確信していた。  ふとペンを止めて、リシュリーがエミットの視線に気づき顔をあげる。 「おばねーさま、どうかしたのですか? とてもいいお顔をしてますわ。ニコニコしてますの」 「ん、いや。まあ……あの男の手紙をもらった時はどうかとも思ったが。やはり外の世界に出てよかった」 「コッペペおじさまはきっと、おばねーさまを頼りにしてらっしゃるのです。わたくしもですわ!」  エミットはリシュリーの頭を撫でて、ことさら目尻を緩める。リシュリーはエミットにとって、妹であると同時に姪、時には我が子のようにかわいい時もある。双子の姉エミッタからも、我が子をよろしくと頼まれていて、実質エミットがここ数年はリシュリーの保護者だった。  そしてそれは、国を出て各地を流離う日々でも変わらない。 「しかし、思えば随分と遠くに来たものだな」  エミットは稜線の彼方へと視線を逃し、晴れ渡る空の下でなびく髪を押さえる。  祖国ファフナント王国が、絶対王政の政権を市民達に移譲して三年が過ぎていた。南海の国アーモロードより十数年ぶりに帰国したエミットは、今まで嫌悪して憎悪し、それゆえ避けて逃げてきた父王と対面を果たした。そして、ずっと小さく老いてしまった父親を、姉エミッタの頼みもあって王の座から開放したのだ。だが、次なる王は持たず、国を民へと委ねる道を選択、ファフナントの地は共和制の道を今も少しずつ歩んでいる。  もはや自分の役目も終わったと知るや、エミットは再び旅へ出た。  妹にして姪、そしてなにより冒険の仲間であるリシュリーを伴って。 「こぉーんな大陸の奥地なんて、わたくし初めてですわ。ドキドキしますの」 「私もだ。これより先は未開の地……だが、必ずや新たな冒険を得られるだろう」 「勿論ですわ! わたくし、今度もおばねーさまもお力になります。頑張りますっ!」  リシュリーはその場で立ってくるりと回ると、煤けたマントを脱ぎ捨てる。いささか起伏に乏しい平坦な、しかし細くしなやかな身体が顕になった。大きく肌を露出させた着衣は、ダンサーの装束だ。優雅な気品と無邪気な天真爛漫さを同居させた踊り子に、エミットはまた別のことを気にかけて大きく頷く。  よほどじっくりまじまじと見ない限り、リシュリーの股間の膨らみは気にする必要もないようだ。  だが、少女でありながら少年を秘めたリシュリーは、今年でもう十六になる。なのに、男にも女にもならず、成長した痕跡もあまり見られないのだけがエミットには心配だった。概ね女の子で、時々は男の子。そういうリシュリーを守るのもエミットの生きる道だ。 「踊りも、たっくさん覚えましたの。遊牧民の踊りに、東洋の踊り。どのリズムもわたくし、大好きですわ」  激しく揺れる荷馬車の上でも、リシュリーは平然とその場でステップを踏んでみせる。卓越した体幹に加えて、天性のリズム感があって、おまけに生まれながらの愛嬌もある。やや抜けたところがあってド天然だが、すこぶる健全に成長してると言えた。 「リシュ、まだ座っていたほうがいい。タルシスまではもう少しかかる。それまでに」 「はいっ。ジェラへの手紙の続きを書きますわ。ああ、でもなにから伝えたらいいのでしょう」  再びマントを羽織って、リシュリーは木箱の机に再びつこうとした。  だが、その流麗な動作がピタリと止まって、開けた視界の中央へとリシュリーの視線が固定されて吸い込まれる。  その目線を追って首を巡らせたエミットも、荘厳な絶景に思わず「ほう」と感嘆の言葉を漏らした。 「おばねーさまっ! あれ、見てください! あれがこの土地の……なんて素敵なんでしょう」  ――遥か遠く、地平の彼方にそびえるは悠遠の世界樹。  碧い光でほのかに輝く世界樹が、遠く北の果てで空に屹立していた。同時に山岳地帯を抜けた商隊は、なだらかな坂を草原へと下ってゆく。周囲の開拓民達も世界樹を認めるや、タルシスに近付いたと各々に歓声をあげる。  多くの明るく希望に満ちた声を載せて、荷馬車の列は草原の吹く風に逆らい走った。 「……随分と遠いのだな。フッ、まずは世界樹に、世界樹の迷宮につくまでが冒険という訳か」  エミットが不敵に笑うが、リシュリーは目を奪われたまま立ち尽くしていた。 「凄い……おばねーさまっ! あの世界樹は確か」 「ああ。この土地の古い言い伝えにある、伝承の巨神が根付いた姿だというが。これほど見事なものとはな」 「伝承の、巨神。うーっ! おばねーさまっ、わたくしワクワクしてきましたの!」  身震いに己を抱きながらも、リシュリーはニッコリ微笑む。  想いはエミットも同じで、始まる冒険へと気持ちが昂ぶり胸が高鳴る。 「あっ、そうですわ。早速このことをジェラへの手紙へ書かなくては。ふふ、きっとビックリしま――」  リシュリーが慌てて手紙を広げた木箱に向き直った、その時だった。  轍に車輪を取られて、大きく荷馬車が傾き揺れる。不意のことで、崩れてきた荷物の雪崩に襲われながらも、エミットは悲鳴を噛み殺して手を伸ばした。  リシュリーは突然の衝撃に小さく軽い身を宙へと躍らせ、大きく弾んだ馬車から放り出されていた。 「くっ、リシュリー!」  慌てて身を起こすエミットだったが、鍛えぬかれた騎士の肉体も今は荷物の下敷きで思うように動かない。周囲の者達が悲鳴を輪唱させる中、不意に風が巻き起こった。  風馳ノ草原を吹き抜ける風に逆らい、一陣の疾風が少女を抱き留め引き寄せる。 「よぉ、お嬢ちゃん。怪我ぁないかい? ちょいと揺れるからな、も少しおとなしく座ってな」  リシュリーを抱き上げ立ち上がったのは、無精髭の男だ。年の頃はエミットより少し上、三十代に入ったばかりだろうか。精悍な顔つきは今、くしゃりと笑顔で白い歯を見せている。旅装に身を固めたその姿に、抱き上げられるリシュリーもぽーっと頬を赤らめ瞳を潤ませていた。  そしてエミットは、気付けば自分もリシュリーと同じ熱量に頬を染めていて、慌てて大きく首を左右に振る。 「あっ、ありがとうございます、おじさま」 「ハハ、いいってことよ。元気のいいお嬢ちゃんだ、冒険者だな?」 「はいっ! おじさまは」 「俺は……狩人さ。ほら、商売道具はあれだ」  世が世ならお姫様なリシュリーを、本当にお姫様のように抱いたまま男が顎をしゃくる。その先を見れば、簡素な荷物と一緒に弓が置かれている。なるほど、この男はどうやら野の獣を追う生業らしい。だが、エミットは些細な違和感に陽気な笑顔を注視した。  この男は、不意に襲った揺れの中、放り出されたリシュリーを救ってくれた。  荷物が崩れてきたとはいえ、エミットが身動きできず、周囲が叫ぶ中で迷わずに。その卓越した身体能力は、とても一介の狩人とは思えない。野にモンスターは数多く、それを狩る者達は皆勇敢で屈強だ。それでも、長らく無頼の者達の中で渡世を生きてきたエミットにはわかる。否、感じるのだ。  この男は、底知れぬ恐ろしさを秘めている。  一番恐ろしいのは、それが全く周囲の者達に気取られないことだ。 「おっと、姐さん。お嬢ちゃんを返すぜ。そんな怖い目で見ないでくれよな。美人が台無しだぜ?」 「あ、ああ。すまない。改めて礼を言う、ありがとう」 「なぁに、いいってことよ」  覇気は感じられない。強い気を感じさせない。どこにでもいる普通の男で、自ら名乗らなければ狩人とさえわからなかっただろう。あまりにも普通に男は、周囲の称賛に照れながら手を振り、再び背景の一部になろうとする。  だが、エミットの元へ戻ってきたリシュリーは、そんな男の背中に声をかける。 「おじさま、お名前を教えてくださいまし。わたくし、なにかお礼を」 「ん? お礼かあ。そうさなあ、じゃあ……おじさんのお嫁さんにしちゃうぞー! わはは!」 「きゃっ! それはちょっと難しいですわ。……だってわたくし、ちょっと普通と違いますもの」  冗談めかしてガオーと両手をあげた男に、リシュリーもにこやかに笑みを向ける。なんとも微笑ましい景色だったが、不意に男は表情を引き締めた。 「ま、俺だって普通じゃねえさ。得物は魔を穿ち貫く必殺の鏃、獲物は闇に蠢く魑魅魍魎とくらあ」  自嘲気味に笑う男の横顔が、急に哀愁を帯びて鋭いカミソリのように輝きを放つ。エミットは背筋が寒くなると同時に、やはり只者ではないと思いながらも警戒より先に興味が湧いた。  商隊の先頭で声があがったのは、そんな時だった。 「モッ、モンスターだ! くそっ、こいつはええと……おいっ! 誰か!」 「黒檀ニンジンだ、持ってこ――お、おいっ! そこのガキ、一人で飛び出すんじゃねえ!」 「くそっ、積荷を守れ! モンスターの襲来だ!」  騒がしい悲鳴と怒号を聞いた瞬間、エミットが身を固くする。その瞬間にはもう、男は荷物から弓を取り出していた。 「やれやれ、物騒な土地だなタルシスってなぁ……俺はサジタリオだ、姐さんは?」 「私はエミット、エミット・ミル・ファフナ……いや、エミットだけでいい」 「厄介事らしいが、あんたぁどうにかしようって顔してらあ。いけねえなあ、そういうのは」 「そうだろうか? ふふ、見過ごせん性格でな。リシュ、ここで待ってるんだ」  止まってしまった荷馬車から身を翻し、エミットは大地に脚を下ろす。  それは、頭上を巨大な気球艇の影が通り過ぎるのと同時だった。