雲のすぐ下を流れる風は冷たく、吹きさらしの甲板を白く洗って吹き抜ける。  グルージャが手に入れた虹翼の欠片は、即座に交易所へと持ち込まれた。だが、依頼してきたダンサーの女は、最初に提示してきた報酬の代わりにこう持ちかけてきたのだ。 「これで気球艇が動けるから、それを元手にもっと稼がない、か。……どうなんだろ、それ」  グルージャは船尾で舵輪を手に取る件の女性を振り返った。褐色黒髪の美女は、グルージャの視線に気付いて顔を覆うヴェールを取り払う。顕になるのは、整った顔立ちを柔和に微笑ませる女神像。だが、毒婦と淑女が同居するその姿は、明らかに仮面を被っているとグルージャには知れる。 「改めてお礼を言うわ、グルージャちゃん? 私はそうね……ファルファラ、でいいかしら?」 「いいかしら、もなにも……それより、ファルファラ、さん。あたし、やっぱり――」 「ふふ、物入りなんでしょ? お父さん、まだ退院できてないじゃない」 「!? どうしてそれを」  グルージャの父親、ポラーレは未だ臥せっていた。街の診療所に運び込まれて、既に二日目……そして病状は二日酔い。どうも、初めて飲んだ酒が悪かったらしく、ワインのような発酵酒には極度に悪酔いしやすいらしい。父の意外な一面にも驚いたし、その父が酒を口にしたというのも未だに信じられない。  だが、厳然たる事実として、ポラーレは今も寝込んでるのだ。  そしてそれを知る人間は今、限られた者だけで。勿論、今しがた名乗った怪しげな美女は本来その枠内に入っていない。 「ま、それはおいおい……それよりグルージャちゃん。どう? 気球艇が手に入ったのよ? 少しは」 「あたしは、あたし達は! ……当分の糧があれば、事足ります。これを元手になんて」 「欲がないのね。でも、本当にこのままでいいのかしら? 考えたことはある? 明日、明後日、一年後、十年後」  グルージャには学がない。読み書きそろばんはできる方だが、わかっててやってる訳ではない。父子二人の放浪生活が、自然と必要技能を身につけさせた。動物を捌いたり、父を待つ間にする内職のあれこれと一緒に。勿論教養もないし、世間すら知らない。だが、無知な自分を知ってはいる。無知の知があることだけが、初めてぶつけられる疑問へ真剣に思惟を巡らせた。  明日をも知れぬその日暮らし、替えのケープ一枚買う余裕もない暮らし。  だが、父との日々は幸せで、それは定住の地を得れば追われることは明白だ。  父は異形の錬金生命体、血の繋がりは愚か種の繋がりすらない。別次元の物体なのにでも、グルージャには絆を感じている。  だが、頭を動かしても言葉は出なかった。 「答、出ないでしょう? そゆものよ、でもいいの。考えること自体、意味があるから」 「……父さんはすぐに元気になります。そうしたら」 「あの街を、タルシスを出る? また逃げるのね。そうして逃亡のその日暮らし。それもいいけど」  ファルファラは器用に舵輪を保持して船体を維持しながら、吹き抜ける蒼空の風に気球艇を乗せる。けたたましいエンジンの駆動音も今は、どこかグルージャには遠くへ聴こえていた。 「タルシスは冒険者の街、一攫千金のチャンスが眠る始まりの土地よ? どう、私と組まない?」 「あたしに、あたしと父さんにメリットは?」 「安定した収入、出生や身分を問わない冒険者としての地位。何より……名誉と尊厳」 「名誉と、尊厳……」 「そうよ。貴女、まさかパンとベッドだけで生きてく訳じゃないでしょ?」  考えもしなかった言葉に、思わずグルージャは目を逸らす。そのまま手すりに両肘を載せて、遠景へと視線を逸らした。  先日、森の廃鉱と呼ばれる小迷宮を歩いた時の高揚感。眠れる好奇心と探究心を刺激する、冒険の興奮と感動。  だが、グルージャは知ってしまった。その一瞬を連ねた豊かな日々に、欠かせぬものが自分にはないと。 「名誉に尊厳……あたしには無縁ね。きっと父さんにも。だって――」  だって、分かち合う友も、支え合う仲間もいないから。もし、先日の小さな大冒険のように、助けてくれる者達がいれば。親身に親切に、これからもずっと一緒の仲間がいてくれれば。  だが、それが無い物ねだりの高望みだという自覚がグルージャにはあった。  同時に、望む全てはポラーレが与えてくれた。父親という存在と共に。ずっと今まで。ずっとこれからも。 「冒険者、か。稼ぎはいいのかな。……暗殺や用心棒より、父さんの危険は減るのなら」  ふと眼下の草原をぼんやり眺めながら、グルージャが考えを巡らせていたその時だった。  視界の隅で何かが光った。  それを感じた次の瞬間、グルージャの瞳は違和感の正体へとフォーカスして、猫の目のように細められて脳裏に像を結ぶ。  グルージャが状況を把握して小さく叫んだのは、ガクンと船体が傾き増速したのと同時だった。 「ファルファラさんっ! あそこ、商隊が……モンスターに襲われてます!」 「あらぁ、いい眼ね……さぁて、少し揺れるわよ! しっかり掴まってらっしゃいな」  急降下で風を切る気球艇に、グルージャは思わず全身でしがみつく。だが、荒々しく舵輪を右に左にガラガラと回すファルファラの顔には笑みが浮かんでいた。腕っ節一本で容易く舵を取る、手足のような操船には驚きを禁じ得ない。謎だらけのダンサーはグルージャに、さらなる謎めいた印象を刻みながら気球艇を躍らせる。  グングン近づいてくる地表にはもう、先程まで点だった商隊の列が迫る。  その時グルージャは目撃した。  巨大な有袋類、うろつく跳獣が豪腕を振りかぶっている。その先で剣を抜くソードマンは同世代の少年、否―― 「あたしと同じ女の子っ! ファルファラさんっ、もっと寄せてください!」 「ふふ、いいわネ……面白くなってきたじゃない。お手並み拝見って、とこっ、ねっ!」  気球艇がビリビリと震えて、まるで地表スレスレに見えない水面があるかのように低空飛行。空気の飛沫を巻き上げ、船底を大地にこする勢いで、気球艇はギリギリの高度を走った。ファルファラが余裕の笑みで、どこか楽しんでいるかのように舵輪を両手で握っている。  その時もう、グルージャは身を乗り出して手すりを乗り越えていた。 「それじゃ、グルージャちゃん……さっきの話、いい返事を期待してるわよん?」  墜落一歩手前の超低空飛行で、商隊の幌馬車を擦って掠めるように風に乗る。気流を掴まえ再上昇する、その瞬間にグルージャは身を躍らせた。地表までの距離、僅かに数メートル……相対速度も手伝って、着地というより落下の体裁でグルージャは衝撃に悲鳴を噛み殺した。そのままゴロゴロと草原の若草の上に転がりながらも、体勢を整え手を伸べる。開いた右の手が大地を掴んで、草花を散らしながら土色のラインを引っ張りグルージャの身体を減速させた。そのまま立ち上がるグルージャの目の前に、白い猛獣の巨躯。  立ち上がると同時に、グルージャは目の前の有袋類へと視線を巡らせ、脳裏に印を結んで秘術を励起させる。 「くっ、避けられたの!? 巨体の割に……素早いっ」  その獣は両の前肢で拳を作って、小刻みに上体を揺らしながらステップアウトして印術を避けた。グルージャが放った火球が虚しく空へと吸い込まれてゆく。  次の瞬間には、右に左にと揺れる跳獣が距離を詰めてきた。護身用のナイフを抜く暇もなく、大きな影が日光を遮りグルージャを包んだ。 「危なーいっ! どっ、りゃあああああっ!」  咄嗟に身を固くするグルージャへと、何かがブチ当たってきて草の上へと押し倒す。今までグルージャがいた空間を、風切り音と共に強烈な一撃がすり抜けた。それは昔、父が雇われた闇の闘技場で見たことがある。グローブをつけて拳で殴りあう、ボクシングとかいう格闘技の一撃に似ていた。横薙ぎに振りぬいた拳は風を呼んで、その余波に思わずグルージャは眼を庇う。  だが、視界を守ってかざした手の、指と指の間に立ち上がる少女の姿が見えた。 「怪我、ないよね? うん、良かった! さあて、じゃあこっちの番……ね、わたしに続いて!」  先ほどグルージャにぶつかり押し倒した少女は、剣と盾を構えてモンスターへと突貫してゆく。言われた意味もわからぬままに、どうにか次の術を行使して術式を巡らせるグルージャ。そして気付く……切り込み役を買って出た少女の、その言葉の真意に。 「そうか、ソードマンの牽制で動きが……これなら、当てられる」 「そゆことっ! いいね、わたし断然張り切っちゃう。そんじゃまー、片付けます、よっと」  剣士の少女はフェイント気味に袈裟斬りを繰り出し、モンスターへと横移動の回避を誘発させる。そこへバックハンドブローの要領で、シールドバッシュを叩き込んだ。簡素なバックラーが、メリリとモンスターの横っ面を張り飛ばして揺るがせる。怯んだその瞬間に、グルージャは渾身の一撃を発動させた。その手から放たれる稲光が、バチバチとプラズマをスパークさせて放たれる。  だが、周囲をモノクロに塗り潰して炸裂した稲妻も、モンスターへの致命打にはならなかった。  総じて草原を徘徊するモンスターは、迷宮内の要所を抑えてうろつく猛獣と同等の強さがある。そういう話をしてくれたのは確か、狒狒からの全力逃走でヘバったあの少女だった。名は確かラミュー……こんな友達が、仲間がいればと思ったのをグルージャは思い出したし、こういう時こそと痛感した。  だが、現実には激昂したモンスターのブーメランフックが、身動きできぬ自分へと振りかぶられて、炸裂する。  ――筈だった。 「大丈夫か、君達。ふむ、珍しい種だな。この大陸の固有種か? リシュリー! 私の武器を」  目の前に今、突然割って入った長身の女性が立っていた。彼女はかざした左手で、素手でモンスターのパンチを受け止めている。微動だにせず。グルージャの目にも、今まで荒ぶり吠えていた獰猛なモンスターが、目に驚きを瞬かせるのが映る。  気付けばソードマンの少女と抱き合い互いを庇っていたグルージャは、場違いに優雅でほんわかした声を聞く。 「おばねーさまっ! 持って、来ました、わっ! お、重いですのぉ〜、おっ!」  華奢な少女が、引きずってきたハンマーをぐるぐる回して遠心力で放り投げる。  そしてそれを宙で追い越し、モンスターが反撃に振りかぶる左の拳を射抜く矢。腕封じの一撃に絶叫が迸った、その瞬間に壮麗な女性は鉄槌を受け取るや、それを迷わず眼前の敵へと振り下ろす。くぐもる声を僅かに呻いて、モンスターは白目を剥いたままその場に崩れ落ちた。 「怪我はないか? 二人とも礼を言う。商隊を守ってくれたのだな。余計な加勢かと思ったが」 「い、いえ……そんなことは。あたし、助けに入ったのに……なにも、できなかった」  グルージャへ優しく手を伸べてくる女性は、優雅な笑みをたたえている。片手で重そうな鉄塊を肩に遊ばせながら。  そして、真剣な表情を作るとグルージャ達を起こしてくれた。 「なにをしたか、なにができたかも大事だ。だが、私達には助けに来てくれたことが嬉しいのだ」 「……そうか、これが……こういう、仕事。それが、冒険者? あ、いえっ! あたしこそ――!?」  グルージャが慌てたのは、目の前の麗人が優雅に過ぎたから。それと、もう一つ。  驚愕に目を見張れば、瞳に映るのは最も恐ろしい天敵……先程の矢を放った、弓を手に持つ狩人の姿。向こうは気付いてはいない、しかしグルージャにはわかった。父から何度も聞かされている。そう、あの男は。 「あーっ、死ぬかと思った! あ、わたしはメテオーラ。……お、お腹減ったあ。もーダメっ、ダメダメっ!」  緊張感に身を固くするグルージャはしかし、隣で大の字に身を横たえる少女に毒気を抜かれる。  だが、とうとう来てしまった……自分達を狩る者が。そのことがグルージャに芽生えた新たな可能性を縛り上げていた。