逆巻く咆哮に空気はにらいで、戦慄に木々はざわめき葉を散らす。  怒号を叫んで荒ぶる気迫が、狂える獣王ベルゼルケルの全身から発散されていた。殺気に逆立つ毛並みは今、紅蓮の炎にも似てざわざわと風もないのにさざなみに揺れている。  既に退路はなく、目の前には絶対的な樹海の支配者がラミュー達を睥睨していた。  だが、竦む一同の前で華奢な少女が微笑み振り返る。 「さあ、皆様! 今日の大一番ですわ。張り切って参りますの!」  日焼けした肌も顕なダンサーが、ニコリと笑って剣を抜く。色を抜いた金髪が今、月光の如くきらめいてむせるような獣臭の呼気に揺れていた。そこには怯えも恐怖もなく、ただ大きな瞳を煌めかせる好奇心だけが眩しい。  リシュリーの意外なまでの落ち着きと度胸に、呆気にとられるラミューは冷静さを取り戻していた。  このお姫様は脳天気でド天然で、ほんわかといつもマイペースだ。仕事はできるが一般常識に欠け、生活力がなく存外使えない一面がある。だが、タルシスで日々冒険者として生きてきたラミューよりも、彼女は危機に際して誰よりも勇敢で賢明だった。 「おっ、おおお、お前っ! な、なあ姫、お前は……怖くはねえのかよっ!」 「そそ、そうよリシュ! そんなに、ままま、前に出たら危なっ……ううん。そうだ、やらなきゃ」  あわあわと震える声が上ずって、歯の根が合わずラミューの口は言葉を上手く紡げない。  だが、そのことで逆に隣のグルージャが落ち着きを取り戻したようだった。彼女は胸に手を当て深呼吸に肩を上下させるや、一度は閉じた瞳を大きく見開く。そこにはもう、恐惶に彩られた不安の炎は微塵も燻ってはいない。 「あたしが、あたし達がやるんだ。そうでしょ、リシュ」 「ええ、勿論ですわ! わたくし達ならできますの。それに――」  天へと吠えた獣王は、その掲げた両手に光る爪をリシュリーへと振り下ろした。空気を切り裂く轟音と共に、鋭い切っ先が光の弧を描いて矮躯へと吸い込まれる。  だが、肉を裂いて血を吹き出させる音の代わりに、金属を梳る金切り声が高らかに響いた。 「乙女達よ、今こそ起つべし! さあ、共に戦いましょう……私がお守りいたします。騎士の誇りにかけて!」  リシュリーの身体をすっぽりと覆うほどに巨大な盾が、すらりと見心地のいい長身の手で凶刃を受け止めていた。常人ならざる重さの盾を手に、レオーネは肩越しに白い歯を零して笑う。驚いたことに、彼は通常のフォートレスが扱う盾の数倍もの質量を、片手で持ち上げ強撃を受け止めている。  伊達に正義の騎士を気取って、単身ポラーレに挑んできた訳でないと察するラミュー。 「私は己の過ちが許されるとは思えません。己自身すら許せない……しかし私は、んぐっ!?」  叫んで敵意を押し返すレオーネが、人智を超えた膂力で吹き飛ばされた。  ベルゼルケルの恐るべき力が、耳をつんざく咆哮と共に開放される。ビリビリと肌を焼かれるような威圧感に、ラミューは全身の毛穴が開いて汗を吹き出すのを感じた。だが、その瞬間には隣からもうグルージャが飛び出している。  立ち竦んだラミューやメテオーラを守るように、二つの影が低く速く、滑るように風となって疾駆。 「ワルツのリズムで参りますわ。グルージャ、信じますっ!」 「やってみる……呼吸を一つに。今、力を合せなければ生き残れないのなら」  華麗なステップを踏むリシュリーの両脚が、恐々とした空気に癒しの旋律を刻んでゆく。その調べの中で彼女は、手にした剣と踊るように跳躍した。間髪入れずに、その残像が繰り出された牙で切り裂かれる。だが、上を取ったリシュリーが中空で驚異的な軽業を見せた。木々の枝から枝へと舞うしなやかな体躯は、ベルセルケルの頭上で翻るや、真っ逆さまに刃を翻す。  ベルセルケルの首筋にリシュリーの剣が突き立つと同時に、華麗にふわりとその主が着地する。  絶叫にのけぞる獣王を背に、典雅なお辞儀で身を屈めたリシュリーの手から、両刃の長剣は離れていた。それは今、絶叫を迸らせるベルセルケルの上に十字架となって屹立している。 「剣よ、あたしの光を導け……ッ!」  瞬時に場の空気が、グルージャの励起させる雷の聖印で塗り替えられる。獣達の獰猛な殺意が消え去ると同時に、グルージャの中で生じた光が空気中に印紋を輝かせた。場のエーテルが帯電してグルージャに雷神の加護を宿らせる。そのままグルージャは両手の指を複雑に結んではかざし、高速で印術を組み上げるや処理を実行した。  術者の力量に応じて顕現する光が膨れて爆ぜるや、雷光渦巻く稲妻の濁流がベルセルケルへと注ぐ。  リシュリーが突き立てた剣へと、次から次に落雷が誘導されて炸裂した。 「やった……?」 「いいえっ、まだですの!」  白煙を巻き上げるベルセルケルの強靭な四肢は今、緊張に筋肉が膨張して血管を浮き上がらせている。奴はまだ、生きてる……全てを砕く暴虐の力と共に。そして今、その身に蓄積された恐るべき殲滅力を凝縮させ始めた。あれだけの印術を受けて尚、獣の王はこの樹海への侵入者を許そうとしない。  瞬間、ラミューは手を握られて引っ張られる。気付けば彼女は、引きずられるように走り出していた。 「ラミュー、一気に押しこむよっ! 手伝って……わたし達なら、できる! わたし達が決めるの!」 「メテオーラ。お、おう……おうっ! 次で決めるっ、お見舞いッッッ、するぜぇーっ!」  もつれる脚から震えが去って、地を蹴る力が一歩を踏みしめる度に加速度を増す。互いに先を奪い合うように走る二人の剣士は、真正面からベルゼルケルへと突貫した。  それは、全身からかき集めた力をベルセルケルが開放せた刹那の瞬間へと吸い込まれてゆく。 「乙女達よ、翔ぶのです! 牙を砕いて爪を裂き……翔べ、流星っ!」  自ら突進することで、ラミューとメテオーラを迎え撃つベルセルケルが距離を喰い千切った。瞬く間に零距離にそびえる巨大な狂獣が、力任せに両腕を振り回して風を起こす。吹き荒れる突風の中でしかし、さらなる加速にラミューは身を沈める。すぐ上を擦過する爪と牙は、二人が最後の一歩を刻んだ場所で受け止められた。  レオーネがその身の鎧と盾とで全てを受け止め、地面に沈んで片膝を突きながらもベルセルケルの動きを封じる。  久遠の果てへと引き伸ばされる一秒の、その何万分の一にも満たない時間……一瞬、呼吸も鼓動も重ねて。  ラミューは自分の中で昂ぶる勇気が撃発するのを感じて剣を振り抜いた。メテオーラと共に。 「これでっ!」 「終わりっ……うなあああっ!」  一閃で払い抜けたラミューの斬撃を、その軌跡を綺麗にメテオーラの一撃がなぞる。重ねた刃の相乗効果が、自乗を連ねた威力でベルセルケルの首筋をえぐる。あまりに鋭く深いダブルスラッシュに、ピタリと彫像のようにベルゼルケルは停止した。  そして、真っ赤な鮮血の間欠泉が、断末魔の絶叫を引きずり出す。  二人の剣技で抉れた傷口からはじき出されて、くるくるとリシュリーの剣が宙を舞う。 「これにて、フィナーレですわっ!」  主を求める相棒へと鞘を向け、リシュリーがその剣を招き入れる。  パチン! と鞘鳴りに納刀の音が響くと同時に、大地を轟かせてベルゼルケルは突っ伏した。 「はぁ、はぁ、やった……っぶねえー! おいメテオーラ」 「は、はは、はぁ……ラミュー、わたしもう駄目だぁ」 「っ! どこかやられたか!? おい手前ぇ、なに勝手に怪我してんだ畜生っ! どこだ、痛むか?」  がくりとその場に崩れ落ちる仲間を、ラミューは支えて抱きとめた、が。 「お腹、減った。ふらふらする。カロリーがもう……あぐっ!」  メテオーラの言葉にラミューは、手を離した。ドサリとその場に倒れこむメテオーラ。 「手前ぇ、いっぺん死ね! 腹ぁ減るのは生きてる証拠だっつーの」 「そ、それより、エミットさんを……わ、わたしのことは構わず」 「わーってら、誰が構うかっ! ちょっと伸びてろ、後でたらふく飲んで食うかんな!」  振り向いた時にはもう、血相を変えて走るリシュリーの背が迷宮を引き返す。すぐ背後では真っ赤な獣の死体が折り重なる中に、一人の女性が猛威へ晒されていた。  ベルゼルケルと戦う間、背後から他の獣が襲ってはこなかった。  押し寄せる血の裂断者を、エミットが一人で食い止めていた。 「おばねーさまっ、お手伝いしますのっ!」 「いかん、リシュリー! 数が多い……消耗したお前達では」  肩越しに振り返るエミットの痩身が、左右から押し寄せる荒熊達の群れなす波間に消えてゆく。圧倒的な物量で押しつぶされてゆく仲間の中へと、ラミューは必死で走った。だが、先ほどの高揚感に軽い身体はうたかたの夢のようで、今はふらふらと力が入らず鉛のように重い。ラミューをグルージャが追い越し、その背をレオーネが追っていった。 「ここは私にお任せを! 乙女よ、貴女も消耗が激しい……先日の償いの意味も込めて私が」 「謝るなら、父さんに謝って。ちゃんと生きて帰って」  二人はしかし、残存する人喰い熊の猛攻に救援もままならない。再度電撃を呼ぼうとしたグルージャの手に印紋が弾けて霧散し、慌てて火球を作ろうと再度印を結んだまま、グルージャはその場に倒れ込んだ。助け起こすレオーネも防戦一方。群れの長を失い混乱状態に陥った熊達は、怯え狂って周囲の木々を薙ぎ倒しながら暴れ出す。  流石のラミューにも絶望が忍び寄って、その胸の内に黒く広がってゆく。  それでも走る彼女はその時、先ほどレオーネが飛び出してきた茂みの隙間に闇が澱むのを見た。 「頭を下げてもらう必要はないよ。死なれちゃ目覚めが悪い。……って、人間なら思うだろうね」  低く冷たい、怒りを込めた極上の殺意が鳴り響いた。その声音に色がついているとしたら、全てを飲み込む漆黒だ。  ゆらりと吹き出した影が場に滞留して人の姿を象り、白面黒衣の夜賊が現れた。 「帰りが遅くて心配してたんだ。でも、よかった。さあ、帰ろう……グルージャ」  穏やかにすら感じるほどに落ち着いた声色で、ポラーレが歩き出す。その足取りへと襲いかかった赤熊が、ただすれ違うだけで輪切りに転がった。そこにはもう、冒険者の矜持も夜賊の手並みもない。ただ、怒れる暴力の権化が、触れる全てを無残に散らしてゆく。命を肉塊に変え、踏みしめる大地の草花を枯らし、場の空気を絶対零度に凍らせながら。 「と、とう、さん」 「ご息女は無事です、ポラーレ殿! それ以上荒ぶられては」 「うん? ああ、そうかい? よかった。あとは……邪魔者を、消すだけだね」  その時ラミューは、改めてポラーレの恐ろしさに震撼した。グルージャを抱き上げるレオーネですら、その場に立ち竦んで動けない。横をぶらりと静かな足取りですり抜け……ポラーレは逃げ始めた獣達の背へと影を向ける。足元から地を這う黒い刃が無数に伸びて、四散した赤熊を一匹たりとも逃さない。樹海に絶命の悲鳴が輪唱をこだまさせ、やがて死が満ちた静寂を連れてくる。  ポラーレはさして感ずるところもない様子で、無表情に暗い瞳を眼光鋭く光らせていた。