獣王ベルゼルケルの討伐。その偉業を成し遂げたのが、まだ年端もいかぬ少女達のパーティだという話は、瞬く間にタルシスを席巻した。誰もが快挙と讃える反面、その後の顛末にひそひそと声を潜める。  少女達の退路を断つ赤熊の群れは、恐るべき異形のバケモノに皆殺しにされた。  そのことで今もポラーレは、酒場でカウンターで友と並ぶ背に冷ややかな視線を集めていた。 「ま、気にすんなよ相棒。人間てなぁ、強い者に憧れる反面、強過ぎる者を恐れるのさ」  フォローしてくれるサジタリオの声は相変わらずで、彼は酒のツマミに炒った豆を宙へと放る。放物線を描いて重力につかまるそれを口の中に迎えて、琥珀色の蒸留酒で流し込む姿は、いつもと変わらぬ様子でふてぶてしく堂々としていた。  だが、ポラーレは落ち着かない様子で肩越しに振り返る。  ポラーレを見ていた誰も彼もが、慌てて視線を外へと逃していた。 「……やっぱり、やり過ぎた。と、思う」 「だから、気にすんなって」 「果樹林でのことを、思い出してしまって。あの時、君に教わったことを生かせなかった」 「あ? ……ああ、そんなこともあったな」  迷宮と言えど自然の一部、そこに暮らすモンスター達の生態系は食物連鎖を循環させて一つの生活圏を築いているのだ。そこへ分け入る人間としては、無益な殺生を避け、不要な搾取を慎まなければいけない。欲にかられて生み出した歪は、やがて巨大なうねりとなって人間達に跳ね返ってくるから。  だが、あの時ポラーレは冷たい怒りに煽られるまま、目に映る全てを鏖殺してしまった。  愛娘であるグルージャのことを想うあまり、躊躇いも迷いも持てなかった。  自分がただの暴力装置として動作したことでさえ、結果を思えば罪悪感すら沸かない。 「熊ってなあ、縄張り意識が特殊でよ。多分、すぐに別の場所から来た個体がのさばると思うぜ」 「そ、そうか」 「それより、覚えててくれたのかよ。あんなどうでもいい話をよ」 「……どうでもいい話はしない質だろ? 僕もグルージャも、その、色々と学ばせて、もらってる」  ぼそぼそと抑揚に欠く言葉を、途切れ途切れに零してポラーレは酒を飲む。  空になったグラスに酒を注いでくれたサジタリオは、自分にも注ぎ足してボトルを置いた。 「なあ、あの時……お前がグルージャちゃんと、あの子鹿を仕留めていたら。どうなってたと思う?」 「親鹿は激怒して僕達を襲うと、そう君は言った」 「そうさ。お前さんと同じってこった」 「! ……僕は、怖かったんだと思う。グルージャを、失ってしまうことが」  十分だ、とサジタリオがグラスの中で氷を泣かせる。そのまま彼はポラーレと肩を組むや、そっと近づけた顔をニヤリと笑みに歪めた。 「極めて自然なことじゃねえか。それにな、ポラーレ」 「それに?」 「振り向いてみな。お前さんが招いた結果というか……守ったものをよ」  サジタリオに促されて、恐る恐るポラーレは振り向く。  そこには、ニコニコと笑みを浮かべる華奢な矮躯がじっと自分を見詰めていた。 「ポラーレおじさま、探しましたの! グルージャに聞いたら、この場所だと」 「リシュリー、ちゃん。どうしたんだい? こんな夜遅くに」  愛娘の友人達の一人が、怯えたようなポラーレを見つめてことさら眩しく瞳を輝かせる。彼女は確か、ダンサーのリシュリーだ。立ち上がるポラーレへと、彼女はしずしずと優雅な所作で歩み寄ってくる。 「おじさまにお礼を言おうと思って来たんです。感謝を、ありがとうですわ!」 「え、えっと……それは」 「おじさまが来てくださらなければ、みんなやられてましたの。おばねーさまも助けていただきましたわ」 「……怖い思いを、させてしまっただろうね。その、僕はやっぱり人間じゃないから」  あまりに純真にまっすぐ見詰めてくるので、思わずポラーレは目を逸らす。  だが、不思議そうに小首を傾げつつも、リシュリーはさらに一歩踏み込んできた。 「怖くはありませんの。人は皆、人それぞれに色々、様々なのですわ」 「僕はでも、人ですらない」 「人ではなくても、グルージャの親愛なるお父様ですの。それだけでわたくしには十分ですわ」 「そういう、ものかな」 「そういうものですの!」  ニッコリ笑うリシュリーに、ポラーレもぎこちない笑みを返す。 「ポラーレおじさま、あの……」 「ん? どうしたんだい」  はにかみつつ俯いたリシュリーの顔を覗き込むように、ポラーレは膝に手を当て上体を屈める。  その瞬間、甘やかな香りに包まれ、頬に柔らかな感触がそっと触れた。それは僅か一瞬にも見たぬ時間で、ポラーレの冷たい身体にじんわりと火を灯す。リシュリーの唇が触れたのだと知った瞬間には、彼女は弾かれたように離れて駆けて行った。 「おじさま、お礼です! わたくしも、グルージャと同じくらい、おじさまのこと大好きですわ!」  一度だけ振り返って大声で手を振ると、お姫様は行ってしまった。彼女は叔母であり姉でもあるエミットに迎えられ、同時にポラーレは深々と頭を下げられる。エミットもまた、暴走した自分に助けられた一人。彼女がリシュリーにとってどのような存在かが、自分とグルージャに当てはめて考えれば自然と知れた。  ポラーレはぼんやりと、頬に手を当てその中に熱を拾いながら立ち尽くす。 「ハハッ、よかったじゃねえか。な? 悪くはねぇだろ?」 「……うん。どうしてでも、あの娘は僕を恐れないんだろう」 「友達の親だからだろ? それと……冒険の仲間だからさ」  からかい半分に笑うサジタリオの隣へ戻ろうとしたその時、ポラーレの背に先ほどと同じ声音が投げかけられた。 「おじさま、おじさまが望むなら……わたくしを一晩好きにしてもいいですわ。お礼ですもの、ふふ」  全く気配のないところからの声に、その内容に剣呑な顔でポラーレは振り向く。  そこには無邪気で無垢なリシュリーとは対極を演じる人物が立っていた。妖艶な笑みで子供のように笑うのは、ファルファラだ。この謎の踊り子は、常にポラーレ達の周囲を蝶の様に舞っては時々ちょっかいを出してくる。  無粋な言葉に先ほどの温かさが溶け消えて、憮然とポラーレは無表情に戻る。 「悪趣味な声真似はよしてくれないか」 「あら、そう? 似てると思ったのだけども。それとも、大人の女は嫌いかしら?」 「意図の知れない者は、男女を問わず好きにはなれないよ」 「あら、嬉しい。好きの反対は無関心ですもの。今はそれで十分よ。……今は、まだ」  酔っているとはいえ、あのサジタリオですら彼女の接近に気付かなかったらしい。驚き腰を浮かせる彼の肩に手を置き座らせながら、ファルファラは肩から下げた革袋を差し出した。受け取るポラーレは、濡れた視線に促されるまま、その中身を取り出す。  出てきたのは、奇妙な紋様を刻んだ石版だ。  だが、見た瞬間にポラーレはサジタリオと顔を見合わせる。 「これは……」 「ラミューちゃん達が言ってた、北の谷にある紋様と同じか? これは」 「誰かさん達がベルゼルケルと戦ってる間に、ちょっと。ふふ、助かっちゃった」  ファルファラの説明では、どうやらベルゼルケルが鎮座する巣の奥に安置されていたらしい。驚いたことに、ラミューやグルージャが戦っている間に、彼女はこれをくすねてきたと言うのだ。さらに、次の言葉がポラーレ達をさらに驚かせる。 「これは手土産。ヴィアラッテアの仲間に加えてくださらない? 私と、彼と」  長い睫毛を湿らせながら目を細めて、褐色の指先をついとファルファラは伸べる。  その先へと視線を巡らせれば、一人の騎士がこちらの様子を伺っていた。声をかけようにも踏ん切りがつかず、不器用にも行ったり来たりを繰り返している。ファルファラの手引でこの場所に来たその男は、以前ポラーレを悪のバケモノと断じて襲いかかってきた騎士だ。名前は確か、レオーネ。暁の騎士などという、御大層な通り名を持つ者だ。  彼はファルファラの手招きに、背の巨大過ぎる盾を背負い直して歩んでくる。 「おい。短気は起こすなよ。この石版……もしかしたら北への道が開けるかもしれねえ」 「わかってる。それに、彼には礼をしないとね。いつぞやの借りもあるし」  サジタリオの低い声に応えて、ポラーレもまた歩み出す。  二人が互いに距離を埋め合う度に、酒場を緊張感が満たして客達の注目を集めた。誰もが、張り詰めてゆく空気にゴクリと喉を鳴らす。  ポラーレもまた、近付いて来るレオーネの顔に緊張を見た。  だから、互いが脚を止めて必殺の間合いに相手を捉えた瞬間。同時に両者はアクションを起こした。 「ポラーレ殿! まずはお詫びをさせていただく! 私の短慮と早とちり、どうかお許しを!」 「娘を助けてくれてありがとう! こ、この間は、その、すまなかったね」  二人同時に、頭を下げた。ポラーレは人に頭を垂れるなど初めてだ。だが、今この場で相応しいことがこれしか浮かばなかった自分がおかしい。今まで、謝罪や感謝を伝えてまで繋げたい人の縁も、そうまでして続けたい関係も持ったことがないから。  愛娘のグルージャだけは別で、縁もゆかりもないのに強い絆があるが。  そしてグルージャは、言葉や行為で伝えずとも、常にポラーレを許して寄り添うのだ。 「……あれ? ええと、レオーネ君。その、僕は」 「ええ。その、私もまた己を顧みて猛省をですね。それで――」  二人は同時に顔をあげて、すぐ目の前でじっと見詰め合う。気の抜けた溜息が酒場のあちこちに連鎖した。 「ま、そういう訳なのよ。よろしく頼むわよ? ふふ……楽しい冒険になりそうね」  訝しげなサジタリオの視線を受けて、ファルファラだけが笑っていた。