タルシスより谷間を抜ければ、第二の大地が広がる。違う季節と摂理に色付いた世界を、冒険者達は誰ともなく丹紅ノ石林と呼んだ。暗い空には暗雲が垂れ込め、空気は濃密な樹木の匂いを重く沈殿させている。時々閃く雷鳴は、凶暴な肉食蜥蜴や邪羊を浮かび上がらせた。何より冒険者達を阻むのは……切り立つ断崖。  気球艇の限界硬度をゆうに超える渓谷が聳え立ち、その上には危険な魔物が跳梁跋扈する。  地軸こそ初期に発見されたが、第二大地の探索ははかどらぬまま三日が過ぎていた。 「左舷前方、視認……駄目だ、行き止まり。それと、面舵! ヤベェのが飛んるぜ」  舵輪を握るポラーレは、船首で振り向くラミューの声に舵を切る。彼の目にも、遠くの空が稲光でスパークしているのが見えた。その苛烈な雷の渦をまとって、周囲の黒雲を蒸発させながら嵐の暴君が姿を現す。  雷鳴と共に現る者、すなわち巨大な黄金の竜。  この大地にもまた、風馳ノ草原と同様に空の王が支配しているらしい。 「大丈夫ですわ、敵意は感じませんの。ほら、向こうへ飛んでいきます! ……綺麗ですわね」 「おおう、ド迫力だねえ。あれ、ドラゴンステーキにしたら何人分だろ。ジュルリ」  うっとりと目を細めるリシュリーの横では、メテオーラが口元に滲んできた涎を手の甲で拭う。ふとその姿に笑みが浮かんで、自分でもおかしな事だとポラーレは小さな驚きを無言で呟いた。  ヴィアラッテアの気球艇、エクスプロラーレ号は大きく船体をバンクさせながら転舵反転する。 「父さん、あとは北へ真っ直ぐ。それで行き止まりなら、お手上げかもしれないわ」 「うん。迷宮の一つでもあれば、少しは稼ぎになるんだけどね」  甲板上ではしゃぐリシュリーやメテオーラとは距離を置いて、愛娘のグルージャがコンパスを睨む。遠くへ飛んでゆく雷竜の威容を横目に、少女達を載せた船はゆっくりと北へ舳先を向けた。  第二大地での探索も、三日目ともなればどこのギルドにも焦りが浮かぶ。  なにせ、これといった成果もなく、挑むべき迷宮も見出だせない日々が続いているのだ。中には手柄を焦るあまり、愚かにも竜へと挑んだギルドもあるとか。勿論結果は無残なもので、そうした命知らずの遺品を集める仕事だけが酒場のクエストに並んでゆく。賢いギルドはせいぜい、飛べる範囲で地図を作りながら、食材の数々を集めて売る生活が続いていた。 「父さん、あそこ。鳥が群れで飛んでる。営巣地なのかも」 「行き掛けの駄賃という訳だね。用意をしてくれるかい?」 「うん」  相変わらずグルージャはテキパキと用意周到で手堅く、すぐに船首へと走ってゆく。気球艇には多目的用のカタパルトが搭載されており、場合によっては投げ網もできれば、水面に銛を打ち込むこともできる。編隊飛行に固まってる渡り鳥達などは、格好の的だった。メテオーラに手伝われながら、グルージャは目の細かな鳥撃ち用の網を装填している。  本当によく働く娘だとポラーレが親バカを発揮していると、不意に隣で声がした。 「旦那! なあ、ここ見てくれよ。この地図さ、北東に高度を落とせば……旦那?」 「ん? あ、ああ、ラミュー君か」  気付けば傍らで、空色の瞳を自分に向ける少女が見上げていた。真っ赤な頭巾からはみ出た前髪の一房が、金色に艶めいて揺れている。 「……君もだけど、妙な娘達だね。冒険者っていうのは、みんなそうなのかい?」 「へ? なんでだよ、旦那。オレ、そんなにおかしいか? メテオーラはそりゃ、食い意地異常だけどよ」  すかさず船首の方から「聞こえてるぞー、ラミュー!」と声が飛んでくる。なんだか柔らかな苦笑が浮かんで、やっぱりおかしなことだとポラーレは胸の奥に結んだ。  そう、この娘達はどこか異質で、自分を全く恐れない。普通なら女子供は気味悪がって近付いてこないのだが、彼女達は違う。リシュリーは懐いてじゃれついてくるし、メテオーラは頓着なく昔からの仲間のように屈託がない。そしてラミューは、どこか憧れを込めた熱い眼差しで見詰めてくるのだ。  そのことを素直に口にしたら、ラミューは豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くした。 「そりゃだって、旦那。オレぁ見たぜ……すげえ腕だって! めっちゃ格好いいじゃん」 「怖くは、ないのかい?」 「あー、そういうのはわかんねえ! ゴメン、オレぁ難しい話が苦手なんだ」  ただ、と前置きしてラミューは地図を睨みながらハキハキと喋る。この鉄砲玉娘が単純明快で、駆け引きや損得勘定ができる構造を持っていないことは既に知っている。それが今、ポラーレには知識ではなく実感として満ちる。不思議と悪い気分はしない。 「旦那は初めて会った時、オレを助けてくれたしよ。ヨルンの旦那と互角に戦える奴ぁ、数える程しかいねえって」  そう言えばコッペペも舌を巻いていた。あの氷雷の錬金術師と一対一で戦い、決着を引き分ける程の戦闘力を発揮したのだから。それは今まで親一人子一人のふたりぼっちを細々と喰わせてきた腕だが、タルシスでまさか別の使い方ができるとは思わなかった。  ここではポラーレの力は、奪い殺して壊す為ではなく……探して調べ切り開く為に使われるのだ。 「それによ、あの愛想ねえグルージャが懐いてんだ。そりゃ、悪ぃ奴な訳ねえだろ」 「……そうか」 「そうだぜ、旦那。だってよ、あんにゃろ……メチャクチャかわいげねえぜ」 「や、やっぱりそう思うかい?」  ポラーレもじっと、カタパルトの操作席に小さな身をよじ登らせる娘を見詰める。グルージャは相変わらずの無表情で、淡々と鳥の群れへ照準を合わせていた。鶏肉をシチューにするか蒸し焼きにするかで、リシュリーとメテオーラは年頃の女の子らしくキャイキャイと華やいでいるのに。グルージャときたら、まるで熟練の狩人のような目付きだ。  だが、ラミューは口では文句を言う割にその表情は優しい。 「オレさ、わかるんだ。……オレも親父っ子だったから。あいつも親父のこと、旦那のことが」 「そうか。人にもやっぱり、そう見えるものなんだ」 「いやあ、ありゃ見なくてもわかるレベルだぜ? ……旦那、死ねねえな」  ――迷宮では凄腕の熟練冒険者でも、些細な事で命を落としてしまうから。  切実なラミューの声に、ポラーレは黙って頷くしかない。 「保護者冥利に尽きるね。ありがとう、ラミュー君」 「なっ、なんだよ旦那、改まって! そりゃオレ達のセリフだって。もー、よせよなあ」 「きっとクアン君も、こういう気持ちなんだろうね。娘に親しい同年代の友達ができる、なんだか嬉しいよ」 「……うーん、やっぱそうなのかなあ。クアンは、オレの保護者……まあ、そうだろうなあ」  急に難しい顔で、ラミューは腕組み俯いてしまった。  ポラーレが小首を傾げていると、船体に軽い振動が走る。グルージャが狙いを定めて鳥の群れへとカタパルトから投げ網を発射したのだ。空気を巻き込むような音と同時に、鳴き声を響かせ鳥達が散開する。 「あっ、逃げるよグルージャ! 今夜のおかずがっ! 蒸し焼き、照り焼き、丸焼きがああああああ」 「ちょっと、失敗。リシュ、網を回収し、よう……? 待って、あの鳥」  グルージャの放った網をすり抜けて、鳥達は低空で編隊を再編成するや速度をあげた。どうやら低高度に空気の層があって、その上に渦巻く対流を利用するらしい。あっという間に加速して、鳥達は北東へと飛び去る。  その行く先には未だ雲が煙っていて、地図の空白地帯が広がっている。 「みんな、掴まって。高度を下げて鳥達を追う。どのみち、あっちを調べて帰るつもりだしね」  ゆっくりと船首を傾けて空気に沈む気球艇が、周囲をすり抜けてゆく気流にギシギシと軋む。ポラーレは重い舵輪をピタリと片腕でホールドしたまま、高度計を読みながらレバーで火力を調節した。軽快な音を立ててプロペラを回すエンジンが、蒸気を排出して静かになった。  見えない風の流れに乗った船は、惰性でそのまま静かに運ばれてゆく。  目の前に聳えて連なる絶壁が、不意に左右に開けて視界の彼方に奥まった渓谷を広げた。 「ドンピシャ! 旦那、この奥に……」  気嚢の中の空気を調節しながら、ラミューが首に下げた双眼鏡を目に当てた。  だが、静かに瞳孔を小さく絞って千里眼を発揮したポラーレには、もう見えていた。 「おじ様! あそこ! 迷宮ですの」 「わぉ、凄い樹海……あの巨木が、世界樹、なのかな?」  見上げる崖の上に、半ばはみ出て身を投げるように生い茂る樹木の群れがあった。枝葉の一本一本が織りなす複雑な迷宮に、少女達がパタパタと甲板上を走り回る。 「旦那、高度をあげてくれっ! あそこに新しい迷宮が……ヘヘッ、一番乗りとしゃれこもうぜ!」 「少し、届かない。ラミュー君、この船では無理だよ。無茶をすれば……残念だけどね」  ポラーレの眼力が正確無比に標高を測って、瞬時に脳裏で測距された数字を弾き出す。やはり、断崖の上に飾られた緑の迷宮へは届かない。濃い霧が立ちこめる中に、原初の森は新たな冒険の場を隠したままポラーレ達を見下ろしていた。  だが、意外な声が身を乗り出すグルージャからあがる。 「なら、高度をもっと下げて。父さん、みんなも。……あそこにも、小さな迷宮がある」  それは、濃密なガスが充満して視界を奪う下にあった。  灯台下暗し。巨大な大明宮の麓に、その小さな森はぱっくりと口を開けている。 「オッシャ、ナイスだぜグルージャ! 上陸準備だ、行こう旦那!」 「待って、なんだか様子が……この臭いは、硫黄かな? 呼吸は問題無いと思うけど」  いそいそとラミューは待ちきれぬ様子で、ゆっくり降下する船上で動き出す。メテオーラやリシュリーも、待ってましたとばかりに縄梯子を取り出し自分達の装備を確認した。  相変わらず甲板の手すりから身を乗り出すグルージャだけが、難しい顔でポラーレを振り返った。  ポラーレは今日のパーティの責任者として、愛娘を安心させるように大きく頷く。  自然と象られた表情が違和感だったのか珍しいのか、グルージャは呆気に取られたあとに頷きを返してきた。