タルシスの冒険者達は皆、気球艇の改良を終えて新たな空の高みへ挑もうとしていた。タルシスを抱く風馳ノ草原は今、無数の翼が蒼穹へと乱舞する。誰もが新たな力を得た気球艇の試運転に余念がない。  グルージャの父ポラーレが、ベルンド工房で小さな仕事を引き受けたのも同じ理由だった。 「わあ! すっごいお花畑……これなら花が沢山採集できそうだよっ」  ベルンド工房の看板娘は、グルージャより三つか四つほど年下らしい。そのあどけない表情を満面の笑みで飾って、黄色い歓声をあげながら駆け出した。走ると危ないよと、一応メテオーラがその背を追う。ネクタルの原料になる小さな花を摘むため、彼女は自らこの小迷宮へとやってきた。もっとも、街で噂のポラーレ達への憧れがそうさせたことくらい、グルージャにはお見通しだ。  なぜなら彼女は、毎日最もわかり易い前例と顔を合わせて付き合っているから。 「ヘヘッ、チビの奴はしゃいでらあ。かわいいもんだぜっ」 「……あなたもね、ラミュー」 「あ? なんか言ったか、グルージャ」 「なんでもない」  メテオーラを振り回しながら、森の奥へと少女は消えてゆく。それを見送るラミューの目は、心なしか視線が泳いで落ち着かない様子だ。そのことを先程船上でメテオーラは、「だって、初デートになるかもしれないじゃん?」と笑っていた。グルージャにも何故か、折をみて隙をみてラミューを二人っきりにさせるよう言ってくるのだ。訳がわからない。  だが、同行するクアンが花束を持っているということは、そういうことなのだろうか?  この辺りの機微がやっぱり、グルージャにはよくわからない。 「グルージャ、僕もちょっと行ってくるよ」 「気を利かしに?」 「ん? なんだい、気を利かすって。ああ、まあ、うん……この森、はぐれ熊が出るらしいんだ」 「……そうね。メテオーラだけじゃ心配かもしれない」  グルージャ以上に朴念仁なポラーレは、今日も端正な無表情を白く凍らせぼんやりと喋る。彼もメテオーラに釘を刺されていたのだが、やっぱりグルージャ同様、意味がわからないようだ。じゃああたしも、と言うグルージャを手で制して、静かに足音も立てずポラーレは歩く。その影のように暗く黒い姿は、あっという間に森の奥へと消えた。  そして入れ違いに、花束を持ったクアンが現れる。  グルージャは隣でラミューの呼吸と鼓動が、乱れるのをはっきりと察知した。 「おまたせ、ラミュー。……案内してくれるかい?」 「じゃあ、あたしは少し席を外すわ。ええと、お、お花を、摘みに? ネクタルは大事な薬だもの」 「ふふ、そういう風に使う言葉じゃないよ、グルージャちゃん。よければ一緒にいて欲しいな」  柔和な笑みでニコリとクアンが笑う。グルージャには良し悪しがわからないが、どこか線の細いこの青年を好ましいと噂する同性は多い。好まし過ぎてにっちもさっちもいかなくなってる人間が現に、すぐ隣でカチコチに凝立して固まっていた。  だが、ラミューの過度な緊張は、甘い予感から来るときめきではなかった。 「……わーった、行こうぜクアン。グルージャ、お前も来いよ。……来てくれよ」  あの勝ち気で強気なラミューが、平坦な声を震わせ森の奥へと歩き出した。風に揺れる花々の間を蝶が舞い、頭上を覆う木々の枝葉は木漏れ日の陽だまりを無数に作っている。その中をラミューは、まるで義務感に駆られるように歩を進めた。  黙ってついてゆくグルージャは、隣を歩くクアンの独り言を拾った。 「野放図でいい加減で、そうして無責任にいなくなって……あなたは卑怯だ、父さん」  グルージャは軽い衝撃を受けた。実の父を知らず、今の父しか知らないグルージャだから。どうして父親をそう言えるのだろう? そういうことをする父親がいるのだろうか? ……いる、いるのだ。現に、血縁上の父親は自分を捨ててしまったではないか。だが、折にふれて父親を自慢するラミューの笑顔は本物だったし、彼女が父親と慕う男こそ、クアンの父親に他ならない。  だが、この兄と妹に収まっている二人の間には、どうやら価値観の断層があるようだ。  そんなことを考えつつ、伏目がちに表情を陰らすクアンと歩いていると、行き止まりでラミューが振り返った。 「ったく、また増えてやがる。大した人気だぜ。……よぉオヤジ、会いに来たぜ?」  そこには、小さな小さな墓があった。それが墓だとグルージャに教えてくれたのは、墓石代わりに突き立てられた剣だ。雨露に濡れて錆び朽ちた剣は今、その下に永遠の眠りを迎えた主を守っているのか。この陽気に満ちた森の一角に、不思議なほどに静謐で清浄な空気が一人の男を弔っていた。  それよりもグルージャが驚いたのは、森に咲く花と競うように手向けられた、無節操で無国籍な彩り。  極彩色を無数に連鎖させながら、目に痛いほどの花が供え物と共に墓の周囲を取り囲んでいた。 「……ここで、父さんが? さっきポラーレさんも言ってたけど、ここの魔物はそう危険はないって」 「ああ、オレも最初は信じられなかったぜ。ルーキーだってピクニック気分で歩けるような小迷宮さ。それが」  ラミューは言葉に詰まって何かを飲み込み、一瞬だけ天を仰いで笑顔で振り返った。 「ったく、抜けてんだよオヤジはさ! タルシス一の冒険者が聞いて呆れらあ」  大げさに両手を広げて、やれやれとラミューは肩を竦める。それでクアンも暗い表情を振り払い、「そういう人だったから」と小さく笑った。なんだかグルージャは、胸が締め付けられるような気分で思わず襟元をぎゅむと握る。  もし、自分が今の父であるポラーレを失ったら……その時、自分はどうなってしまうのだろう。  物思いに耽るグルージャの視界を不意に白い花が覆い、鼻孔を甘い芳香が満たす。 「グルージャちゃん、これを。よければ父に、花を手向けてくれないかな?」 「クアン、さん。あたしが?」 「うん。父は賑やかなのが好きな人でね。小さい頃から家は毎日がお祭り騒ぎだったよ」  ぼんやりと花を見詰めるグルージャの手を取り、そっとクアンは花を握らせてくる。その手が温かくて、自分の知ってる手とはまるで別で。グルージャは受け取った花を両手に、おずおずと墓の前に歩み出す。  もし父を失えば、唯一握ってくれるあの冷たい手すら失ってしまう。  こうして、手向ける花を握らせてくれる人は一人もいないだろう。  そういう気持ちは芽生えて芽吹けば、もう止まらない。自分でも驚くほどに想像は広がりを見せて色付き、いつか来る未来であるかのようにグルージャの思惟を占領した。 「ヘイ、グルージャ! 泣くなよ、どしたってんだ。らしくねえぜ? ……ありがとよ」 「……え? あ、あたし、泣いてる?」  驚いて頬を拭えば、涙が肌を濡らしている。自分でもそのことに驚いて、ぐいと手の甲でグルージャは瞼を拭った。そうして手に持つ花を一輪、男を鎮魂する彩りの中へと加えてやる。かなり高価な酒も並んで、供えられた肴はどれもまだ新しい。絶えず人が訪れているのだと知れば、ラミューとクアンの父親がどのような存在だったかグルージャには自然と知れた。 「まあ、あれでも街の顔だったからな。へっ、それがこんな場所でよ……ありえねえぜ、バッカじゃねえの」  言葉と裏腹に口調は弱々しく、ラミューもクアンが差し出す花をひったくると、見もせずにポイと投げる。それはひらひらと静かな風に揺られて、周囲を埋め尽くす献花の中に混じっていった。クアンも花を手向けて手を合わせる。目を閉じて墓前に向かうその白衣の背中は、どこか消え入りそうな程に儚く見えた。  グルージャはただ黙って、どうにかラミューへと言葉を振り絞った。 「ごめん、ラミュー。ごめんなさい」 「あ? なんだよ、何がだ?」 「さっきの涙は、違うの。あたしの父さんがもしそうだったらって考えたら……」 「ああ、そうだな。ポラーレの旦那だって無敵じゃねえからな。だから、お前が支えてんだろうが」  カラッと笑って、ラミューが肩を組んでくる。自分より背の高い彼女の空色の瞳を見上げて、グルージャはふと無理に作ったやせ我慢の笑顔に正直な言葉をぶつけてみた。以前はこうして馴れ馴れしいのが不快だったのに、今は不思議とそんなことを考えないし思えない。感じることすら忘れてしまったようで、代わりに自分の胸中に満ちる意味をまだグルージャは知らない。 「ラミュー、あなたは泣いた? あなたの父さんが亡くなった時」 「ヘッ、誰が泣くかよ。泣くかってんだ。寧ろ笑える話だろ? タルシス最強の男だったんだぜ? それが」 「泣ける時に泣いておいた方がいいわ。だってあなた、この場所に来るのが辛そうだから」 「なっ……! 何ぬかしやがる手前ぇ! オッ、オレは……オレは」  離れようとするラミューの腕を掴んで、背伸びしてその頭を両手で包んでやる。おひさまの匂いがする金髪は今、真っ赤な頭巾のしたでサラサラと指をくすぐってきた。 「ラミュー、あたしにはどうすればいいかわからない。どうしたいかしか知らないの。でも」 「……泣けるものかよ。だって……泣いたら、本当に死んじまったんだって……オヤジが!」  くしゃりと顔を歪めて、ラミューの中で堰き止められていた感情が決壊した。  きっとこの娘は、ずっと自分の中に刻を止めて留めたんだと思う。亡き父親を連れて冒険することで、その胸の奥に生かしておこうと試みたのだ。だが、死んだ人間は永遠になる反面、残された人間の時間は進んでゆく。絶えず流れて吹き抜ける、この大地を洗う風のように。そのことを思い出したラミューは、火のついた赤子のように泣き出した。  グルージャは、そんなラミューに抱きつかれながら、そっと頭を撫でてやる。  自分があの人を失った時、泣けるだろうかと自問自答に疑念を重ねながら。 「オヤジは! こんなオレを自慢の娘だって……剣も酒も教えてくれた、いつも側にいてくれた!」 「うん。うんうん……そうだね、ラミュー。悲しいね。でも、これから側にいてくれる人も、いるよ?」 「オヤジは死んだ、おっ死んだ! この場所に来る度に、オレの中に繋ぎ止めたオヤジが死ぬんだ……」 「でも、それでいいんだよ。もう、楽にならなきゃ。ラミューも、ラミューの父さんも。ね、クアンさん?」  幼子のように泣きじゃくるラミューの背後に、気付けばクアンが立ち上がっていた。本当はこの男こそ、誰よりも泣きたいのではないかと思い、その考えが間違いであることをグルージャは悟る。こうして肩に涙のラミューを抱きながら見るクアンは、驚くほどに無感情な、ただの美術品のような顔をしているから。 「ありがとう、グルージャちゃん。ラミューはね、僕の分も泣いてくれてるんだ。僕は……いい仲ではなかったから」  この時、クアンの心の奥に潜む忸怩たる想いにグルージャはまだ気付けずにいた。  幼少期に家を飛び出たクアンが、異国で学ぶ間ずっとどういう気持ちでいたか。そのことも確かめに故郷に戻って、十数年ぶりに再開した妹を見てどんな想いに苛まれたか。今は誰も、この地を遠くより見守る世界樹さえも知らないことだった。