その夜、ウロビト達の里を異変が襲っているとも知らず、グルージャ達は小迷宮の探索にでかけていた。薄闇の中に静かに今、巨大な毒蛾があちこちの枝葉に羽を休めている。人喰い蛾の庭と呼ばれる森は今、不気味な静寂でグルージャ達を迎えていた。 「いいか、お嬢ちゃん達……あまり物音を立てるなよ? こいつら、音に反応しやがるからな」  サジタリオの言葉に強く頷く、グルージャの手に分厚い本が握られている。立派な皮表紙で、ページの内容はまだ大半が白紙だ。これは辺境伯から個人的に依頼された仕事で、タルシス周辺や冒険の途中で遭遇したモンスターを書き記す図鑑だ。普段からグルージャがラミュー達同年代の少女と、時間を作っては魔物の生態を書き記している。  今日もまたその真っ白なページが埋まるのか、それとも己の血で染まるのか……それはグルージャ自身にもわからない。 「ヘイ、グルージャ……見たか? やっぱ間近で見るとデケェ蝶だな」 「深霧ノ幽谷の森でも言った。これは、蛾……毒蛾だって。ラミュー、忘れた?」 「わーってるよ、でもよ……蝶と蛾はどう違うんだ? なあ、おい。なにが違うんだよ」  隣に赤頭巾の友人を見上げて、クスリとグルージャは笑った。ラミューは難しい顔で腕組み首を傾げている。木の葉を踏む音さえ気をつける中での囁き合うひととき。グルージャは手持ちの図鑑を開きながらページをめくった。 「蝶は昼に飛び、蛾は夜に飛ぶらしいわ。迷宮では例外もあるって書いてるけど」 「だよな。碧照ノ樹海じゃ、昼夜ひっきりなしにシンリンチョウが飛んでらあ」 「……じゃあ、これは? 休めた羽を閉じてるのが蝶、開いてるのが蛾だって」 「それだ! なんだよもぉ、簡単じゃねえか! やっぱグルージャ、お前は……かし、こ、い……う、あ、お」  パシン! とグルージャの背を叩いたラミューが、頭の靄が晴れた喜びにあげた声を慌てて引っ込める。だが、霧に煙る空気は彼女の発声に震えて、羽音を無数に呼び込んだ。しまった、とラミューが口に手を当ててももう遅い。 「な、なあグルージャ。あれは……羽が閉じてるぜ。蝶か?」 「閉じたり開いたり、羽撃いてるわね。誰かさんの大声に呼び寄せられたみたい」 「……オレか? なあ、オレだよな。ゴ、ゴメンッ!」 「来る、サジタリオさん! 後衛のお二人にも――」  慌てて鞄に図鑑をしまいつつ、グルージャは印術を行使するべく身構える。抜剣したラミューは、そんな彼女へ覆いかぶさるようにして押し倒してきた。今までグルージャが立っていた場所を、不吉な羽音と共に巨大な人喰い蛾が横断してゆく。ビッグモスは麻痺毒を含む鱗粉を振り撒きながら、複眼にグルージャとラミューを見下ろし浮かんでいた。  さらにその背後、霧の奥から無数の羽音が近付いて来る。 「おっと、お嬢ちゃん達。やっちまったなあ。ま、図鑑に記すならどのみち一匹はやらにゃならんしな」  不快な羽の不協和音を、空気を裂くような弦の響きが突き破る。僅か一度だけ空気を震わせるその調べは、無数の矢を瞬く間に目の前の敵へと撃ち込んだ。目にも留まらぬ早業、早撃ちの妙技にサジタリオが躍り出る。彼は脚を使って敵意を引きつけつつ、巧みに狙い違わずビックモスの羽を蜂の巣にしていった。  その手に握られたコンパクトなコンポジットボウが、奏でられる度に鉄の鏃を輝かせる。 「後ろもおっつけくるだろうよ。ラミューちゃん、グルージャちゃんも。無理せず援護頼まぁ!」 「お、おうっ! グルージャ、例の連携を試すぜ……ちゃんと合わせろよっ」 「任せて、ラミュー。あなた次第で上手くやってみせるわ」  かわいくねえな、と笑ったラミューの剣が火花を帯びる。それはやがて刀身を覆って火焔となった。同時にグルージャもまた、複雑な印を指と手とで結んで連ね、頭上に火球を浮かび上がらせる。 「っしゃあ、お見舞い、するぜっ!」  地を蹴るラミューの刺突が、灼熱の刃となって手負いの毒蛾を貫く。彼女はそのまま、全力で振り抜いた剣の火柱だけを敵へと残して払い抜けた。リンクフレイムのその業火へ目掛けて、グルージャは肺腑へ息を留めて必殺の印術を解き放った! 燃えて盛る火と火がぶつかり、炎となってビックモスを小さな太陽へと変える。耳障りな断末魔を残して、その毒々しい羽は燃え尽きた。 「おっし、見たかグルージャ! な、どうよハッハッハー!」 「ええ。……炎に弱いみたいね。あとで図鑑に記しておかなくちゃ」 「……そういうのはいいんだよ。息ピッタリだったじゃねえか、オレら。なあ?」 「そうふうにも見えたわね。いいんじゃな? 極めて限定的な状況下での有効打ってことで」  ラミューは口を尖らせ「かわいくねえ!」とブーたれたが、内心グルージャは会心の一撃に小さな確信を得ていた。それが今、昔の自分と今の自分を刷新してゆくのを感じる。  ――仲間がいるって、こんなにも頼もしい。  だが、それを口に出すのが躊躇われて気恥ずかしく、グルージャは帽子をかぶり直した。 「上出来だぜ、レディ達。だがよ、ちょーっとまずいぜ? 数が増えてきやがった」  二人を褒めつつもサジタリオは番える矢を絶やさない。弓を引き絞って狙いをつける先に、まだまだ羽音は増え続ける。濃密な霧の奥から、一匹、また一匹と毒蛾のシルエットが浮かび上がった。  気合を入れ直すラミューの隣で、もう一度グルージャも大きく息を吸い込んだその時。轟! と濃霧を切り裂き貫いて、疾風をまとった一撃が頭上を擦過した。規格外の長く太い矢が、ダスン! と一匹の毒蛾を穿ち砕く。その威力は一撃必殺で、放たれた矢は木っ端微塵にビックモスを噛み千切って森の奥へと飛び去った。  何が起こったのか一瞬わからないのは、敵もグルージャも同じだったが、 「みんな、怪我はないか? すまない、姉者が採取と伐採に手間取ってな。遅れは取り戻させてもらう」  凛とした声が響いて、グルージャ達を庇うように一人の女性が片手で制して前に立つ。その腕は合金製で、薄暗い中で白銀に輝いていた。女の細腕とは思えぬ無骨な義手は、トライマーチに先日参陣した東洋の武芸者……ブシドーにしてショーグン、なずなだ。彼女はもう片方の手に、身長を遥かに超える巨大な鉄弓を抱えている。  サジタリオが口笛を吹く中、なずなは軽々と鉄弓を構えて鋼線の弦に矢を番える。  義手の肘から空薬莢が飛び出すや、機械仕掛の剛力が容易く鉄の弓矢を引き絞った。 「記録は済んだな? ならば、あとは撃ち散らすのみ!」  ビュン、と風が唸る。空気が渦を巻く。慌てて帽子を抑えたグルージャは、隣で頭巾へ手をやるラミューと頭を低く目を瞑った。放たれた一撃は狙い違わず、今度は二匹のビックモスを同時に貫き霧散させる。余りの威力に、死体すら残らない。 「なんて強弓、剛射だ。やるねえ、なずなちゃん! よくもそんな弓が引き絞れるものだ」 「この腕、すでに我が身も同じですゆえ。……サジタリオ殿、貴殿の助力あればこそ」 「へへ、気付かれてたかい?」 「貴殿の矢が一箇所に敵を集めてくれている。その正確な狙いが私に射線を」  無表情の仏頂面で、なずなの声は抑揚なく静かに響く。その間も視線を逸らさず、彼女は砲弾のような矢を射続けた。全てを貫き粉砕するその矢が剛ならば、針のように無数にばらまかれる正確なサジタリオの射撃は柔の矢だ。ビックモスは一箇所に意図的に集められた挙句、まとめて数匹ずつ減ってゆく。  淡々と弓矢を楽器のように奏でるなずなとサジタリオを、気付けばグルージャは魅入っていた。 「すげえな、なずなの姐御! 剛力無双たぁこのことだぜ……なあ、グルージャ」 「うん。それに、サジタリオさんがなずなさんの主旋律を拾って。弓が、歌ってる」  見とれてもいられず、自分達も手伝いをと思った瞬間。後ろでのほほんと呑気な声が響いた。 「愚妹、また大層な物を使っておるのう。取り回し、悪くないかや?」  遅れて来たしきみをチラリと振り向いて、珍しくなずなが溜息を零すのをグルージャは見た。なるほど呆れてしまう、防具を着込んだなずなと違って、しきみは胸元をはだけた着流し姿だ。ともすれば寝巻き姿にすら見えるしどけなさで、自分がこんな格好をしていた心配性の父からお小言が飛んでくるだろう。  しきみは先ほど伐採してきたのだろうか、湾曲した樹の枝を握っており、それに小刀を当てている。 「サジタリオの弓はそれ、南蛮か西洋の弓じゃなあ。よくしなりよる……いいのう、欲しいのう!」 「おいおい、まってくれよしきみ。こいつぁ俺の商売道具だぜ? 昨日の夜、触らせてやっただろう」 「うむ、まっこと合理にかなったいい弓じゃあ。ワシはどれ……こんなもんでいいじゃろか」  呆れたことに、しきみは冒険に手ぶらで来て、伐採したばかりの枝に弦を張り出した。ぱさりと総髪に結っていた漆黒がほどけて、縛っていた紐を弓なりの枝へと結わえてゆく。グルージャの視線に気付いたしきみは、にんまりと子供のような笑みを浮かべた。 「武家の女は常在戦場での。これはなに、張れば弓の弦にもなるし、臥所で敵を絞め殺すのにも使えるのじゃあ」 「ぶ、物騒だな、しきみの姐御」 「でも、髪が……あ、あの、これ」  慌ててグルージャがポーチから取り出したリボンを、ニコリと笑ってしきみは受け取った。そうして再度髪を結んだ彼女は、今しがた作った弓を手に、弦の張りを確かめて前衛へと躍り出る。そのゆったりとした動作には気概も気負いもなく、力みがまったく感じられない。残った毒蛾達すら、新たに増えた恐るべき射手の殺気に気付かない。 「ちょいと拝借」 「お、おい、しきみ。ったく、本当に野放図な……奔放な女だな、お前」  なんとしきみは、サジタリオの矢筒から矢を拝借すると、それをなんとはなしに射掛けて……狙いを定めた様子も見せず解き放つ。案の定、即興で作った弓が妙な音を発して、矢はビッグモスを掠めもせずに遠くへ消えた。 「……姉者」 「あっはっは! こりゃいかん、もちっと真面目に作ればよかったかのう!」  だが、なずなとサジタリオがあらかた敵意を散らして片付けると、残った羽音は本能で危険を察知し飛び去った。  それは、霧の向こうから荷物を背負った人影が現れるのと同時だった。 「やあ、また会ったね。助かったよ。サジタリオ、だったかな? 君の矢のお陰で俺も命拾いさ」  ぼんやりとした口調で喋るのは、同じタルシスの冒険者。名前は確か、 「ワールウィンド、だっけか? いや、その矢は――ははぁん、なるほどねえ」 「君じゃないのかい? 人喰い蛾から逃げていたら、これが飛んできてね」 「よく俺の矢だってわかったな? ここには射手が三人いるが……よく見てるじゃねえか」  タルシスにスナイパーは腐るほどいるが、一人一人の矢は弓に合わせて一本一本異なる。値段も素材もばらばらだし、先ほどそれを射掛けたのはしきみだ。しかし、手にした矢をワールウィンドはサジタリオの物だと断言した。妙な違和感をグルージャも感じて、サジタリオの表情が真剣味を帯びるのを察した。  それを敏感に察知したのか、ワールウィンドウは言葉を続ける。 「ところで、こんな所で油を売っててもいいのかい? ウロビトの里に行ったとばかり」 「ああ、相棒がヨルンの旦那達と向かったぜ? 辺境伯の親書を持ってな」 「そのウロビトの里が今、大変なことになってるみたいだったけど……聞いてはいないのかな」  ウロビトの里が、ホロウと呼ばれる虚無に襲われた。  その事実を聞いた瞬間、グルージャは血の気が引く音を聞いたような気がした。父は仲間と、ウロビトの里に行っている。ヨルンやパッセロも心配だったし、レオーネとメテオーラのことも気がかりだ。  その時、どうしてわざわざそのことを伝えてくるのか……ワールウィンドに疑問を抱く余裕がグルージャには持てない。  それは、サジタリオとしきみ以外、皆が皆驚き焦るあまり同じだった。