ウロビトの里に平和が訪れた。跳梁跋扈の限りを尽くしたホロウ達は、女王の絶命と同時に消え去ったのだ。  だが、里のウロビト達が負ったダメージは大きい。  開放された庭園内には怪我人が列をなし、治療に当たる者達の先頭では人間の医者が奮闘している。パッセロと名乗った男は先ほどから、喰わず飲まずで診察を続けていた。補佐に精を出すクアン青年など、つい先程体力が尽きて音を上げてしまったというのに。  そんな光景を呆然と、ファレーナはベンチに腰掛けぼんやりと眺めていた。  既に手当を終えた傷はまだ痛み、包帯を染める紅で生の実感をもたらしてくれる。  そして隣には、先ほどまで竜だったモノが不気味な明滅で背を丸めていた。 「……あなたは、手当を受けにはいかないのですか?」  ファレーナの声に黒い影は、のっそりと白い顔をあげてこちらを見た。澄んだ宝石のような翡翠色の瞳は、心なしか輝きを曇らせているようにも感じる。無理もない、ファレーナとて疲労困憊なのだ。まして眼前の男は、身を挺して自分達を守りつつ、ホロウの首魁を一撃のもとに千切り砕いたのだから。  そのポラーレだが、じっとファレーナを見て小さく首を傾げた。 「あなたも随分と手傷を負った筈です。……痛くは、ないのですか」 「僕は、そういう機能がなくてね。ありがとう、へ、平気、です」  それで会話が途切れてしまって、またファレーナの耳は入り込んでくる悲鳴と安堵の声に満たされる。怪我人達は呻いて痛みを訴えながらも、辛うじて守られた里の平和に平穏を見出し始めていた。その余裕が生まれてくる中でも、巫女を案ずる気持ちばかりが募ってゆくのがわかる。それはファレーナも同じで、救いだした巫女が一刻も早く目覚めればいいと祈った。  並んで腰掛ける、白い麗人と黒い影。  二人の距離は、置いた手と手の指先が触れるか触れないか。 「……ふふ」 「ん、あ、えと……? あの」 「いえ、おかしくなったのです。申し訳ない、けど……ふふふ」  気付けばファレーナは笑みが込み上げ、それに気付いた時には頬が綻んだ。その桜色の唇を手で隠しても、静かに声を震わす愉快な感情が抑えきれない。それを隣のポラーレはやはり、どこか不思議そうに無表情で見詰めてくる。 「ぼ、僕が、なにか……」 「あの時は謝ってばかりかと思えば、今度は礼を言ってばかり。あなたはまるで――」  そこまで口にして、これは非礼だとファレーナは言葉を飲み込んだ。  童子のように素直だという評価は、男子にとって必ずしも喜ばしいことではないだろう。まして隣で身を小さくしているのは、己が身一つで渡世を生きる、一流の冒険者なのだから。だが、そんな中にファレーナはどうしても、痩せて頼りない少年の姿を見出してしまう。そして、その子が気丈にもやせ我慢で意地を張って何かを守ってるような、そんな印象を受けるのだ。 「そ、そう、あ! うん、そういえば、きちんと言ってなかった。あの、ええと……」 「どうかファレーナと。ポラーレ殿、礼を言うのはこちらの方です。巫女を、里を救ってくれてありがとう」 「ポラーレ殿だなんて……お礼を言うのは、僕の方なんだ。瘴気の森で娘達を助けてくれてありがとう」  意外な言葉にファレーナは面食らった。てっきり、まずは自分を助けたことに対しての礼が述べられると思っていたからだ。だが、たどたどしい途切れ途切れの言葉が、抑揚に欠く声でぼそぼそとポラーレは呟く。 「そ、それと、うん。僕のことも、助けてくれた。……怖かっただろうに。僕の、あの姿は」 「それです、ポラーレ殿」 「……うん?」 「その言葉が、真っ先に聞きたかったのですが。それがおかしくてつい。大事な愛娘なのですね」 「う、うん。あ、その、ポラーレ殿、ってのは……よ、よしてくだ、さい」  ポラーレはあっちを向いてしまった。  その背を見詰めながら、やっぱりおかしなものだとファレーナが思っていると、周囲の騒がしさに瑞々しい声がさした。 「なにやってんだよ、シウアンはあんたに会いたがってんだぜ?」 「会ってあげて、ウーファンさん。今のシウアンには、あなたが必要」  二人の少女に手を引かれて、ウーファンが戸惑いながらも天幕の方へと歩いてゆくのが見えた。  巫女の意識が戻ったのだと気付き、ファレーナも視線でウーファンを支える。落ち着かない様子で周囲を見渡すウーファンと目が合ったので、力強く頷いてやった。それで意を決したのか、その背中は天幕の奥へと消えていった。  そうして巫女の元気な泣き声が聞こえてくると、安堵の気持ちに自然とファレーナの肩から力が抜ける。  そんな自分を照らす月明かりが、突如眼前に立つ男達に遮られた。 「よぉ、ねーさん。怪我ぁどうだい?」 「その男なら心配無用だ。人間ではないのでな。薬の五、六本も取り込めばよくなる」 「もっとも、それも遠慮してこうして縮こまってる訳だけどな。こんな美人の隣だってのによ」 「……パッセロも忙しい。クアンもよく動いているが、実務経験の差が、な」  確か、ポラーレの相棒でサジタリオ。それと、ヨルンだ。  二人も相応に傷付いて包帯姿も痛々しいが、それは自分も一緒だった。立ち上がって礼をと思ったが、サジタリオが無精髭をさすりながら手で制してくる。 「お二人にもなんとお礼を述べたらよいか」 「なぁに、構わんさ。ただ、辺境伯からの話を少し聞いてくれりゃいい」 「それならば大丈夫だ。わたしとウーファン様で、責任をもって長老会議に掛け合おう」  その時だった。  ふと肩にさらさらと触れるものがあって、何かと振り向いた時には目の前に夜が広がっていた。  ファレーナの華奢な肩にもたれかかって、ポラーレが目を閉じ脱力していた。小さな驚きは、殿方がこうして身を預けてきたことではない。それが不思議と、重さを感じなかったことでもない。  ファレーナは、目の前の男達がそろって「ほほう」とニヤリ笑う前でさえ……全く嫌悪感を感じなかったのだ。  人間ではない、生物であるかどうかすら疑わしい人外のバケモノ。一度人の身を解けば、その姿は恐るべき黒狼竜となって殺意に漲るというのに。今、静かに自分にそってずり落ちる姿は、穏やかな子供の寝顔そのものだった。 「あ、こんにゃろ! ……そういう手があるのか」 「活動限界のようだな。全身の術式を維持するため、核が休眠を選んだか」 「術式……核、とは? この人は」  今はもう、興味を隠すこともできない。  あの時、ウーファンに強い言葉で人とのつながり、育み守るべき者への決意を語ったポラーレ。その素性をつい、探ってしまう。  ニヤニヤとしまらない笑みのサジタリオに肘で小突かれ、ゴホン、とヨルンが咳払い。 「ポラーレは錬金術で造られた人造の生命体。人ではない、が……あとは言わずともわかるのでは?」 「ええ。わたしには彼は、人との絆を語るに値する人間に思えます。それはあなた達も同じだ」  そう、この時はまだ同じだった。  多くの冒険者達の、その一人。外の季節と時代を運んで、そのまま吹き抜けてゆく黒い風。  この時は、まだ。 「今ならわかる。遥か太古の昔、やはりわたし達はこうして共に生きていたのだと」  ファレーナはそのまま、ぺしゃんと崩れてゆくポラーレの頭をそっと膝の上に載せた。  そうして、さらさらと妙に肌触りのいい黒髪を指で梳く。この里の為に死力を尽くした竜には今、休息が必要だったから。 「あー、見ちゃおれん。行こうぜ、ヨルン。くそっ、あとでぜってー高い酒を奢らせてやるっ」 「同感だ、それではファレーナ。俺達はこれで失礼する。……そうそう、忘れるところだった」  ふと、去りかけた二人の片方、ヨルンが脚を止めて振り返った。彼は胸元から一枚の紙片を取り出し、それをファレーナへと向けてくる。それは、奇妙な絵画だった。小さな中にまるで本物を閉じ込めたように写実的で、それを彼等は写真というのだと説明してくれた。  多くの冒険者達の笑顔が並ぶ中で、ヨルンの隣に一人の貴婦人が微笑んでいる。 「この女を見たことはないだろうか? この里に以前、人間が迷い込んだことは?」 「……わたしが知る限り、そのような話は。あなた達が初めてだ。この数百年、巫女以外の人間は一人も」 「そうか」  ヨルンは写真へと視線を落として、わずかに目元をゆるめた。仏頂面の無表情はポラーレ以上で、無愛想な美丈夫に見えたその顔が少しだけ氷解した。冷たい印象の底にファレーナは、穏やかな感情が凍りついていたのを見る。  だが、それも一瞬のことで、氷雷の錬金術士はすぐに写真を胸元にしまった。 「その人は? もしや、あなたの」 「俺の家族、そして半身……あるいは、俺の全てかもしれん。そういう女だ」  それだけ言って俯くヨルン。だが、サジタリオが肩に手を置くと顔をあげて、二人は行ってしまった。  その背を見送るファレーナは、気付けば自然とポラーレの髪を撫でている自分に気付く。 「あなた達は持っているのですね。自分より大事なものを……わたし達にとっての巫女に等しいものを」  そして男達は無言で物語っている。  それが全て、自らの手で勝ち取り守ってきたものだと。望んだからこそ得られた、かけがえのないものだと。  ファレーナの膝の上で今、わずかに眉をしかめてポラーレが寝言を呟く。 「グルージャ、いけないよ……風邪を引いてしまう。ほら、ちゃんとコートを……」  このままここへ寝せててもいいのだが、動くに動けず、それを不都合にも感じない。  しばらくそうしてファレーナは、徐々に落ち着きを取り戻し始める里の風景に目を細めていた。