トライマーチのなずなが消息を絶って、既に三日がたっていた。  各ギルドの必死の捜索をあざ笑うかのように、冒険者たちの前には凍気渦巻く竜巻が立ちはだかる。巨大な氷の竜、氷嵐の支配者の存在もあって、第三大地の地図が広がることはなかった。  そんなさなかにあって、普段と変わらず飄々と過ごす者がいる。  ファレーナはこの、なずなの姉しきみという女性を興味深く思っていた。他の人間は皆必死に捜索する中で悲壮感を高めているというのに……しきみは毎日、酒を飲んでは書を読み、楽器を歌わせてはまた酒を飲む。そんな彼女が街に買い物をと誘ってきた時は、こんな時に不謹慎だとさすがに思った反面。面白いと思った自分もまた不謹慎に過ぎるとファレーナは承諾してしまった。 「むう、ファレーナ。お主は細過ぎるのう。どれ……こういう感じでどうじゃな?」 「これが……しきみの国の着物ですか?」 「おうよ。ふむ、似合うではないか、わはは!」  カーゴ交易所には今、世界各国から運び込まれた品物が集まっている。その片隅にあるスペースを借りて、ファレーナは初めての和服に鏡の中の自分を改めて見渡す。一枚の布地からそのまま一枚の着物を縫い出すというのは、合理的で非常に面白い。一見して動き難くも感じるが、慣れれば冒険にだって着ていけそうだ。  何より、色艶やかな装飾は華美で目に優しい。肌の白いファレーナを飾るのは、朱色に白鷺が舞う振り袖だ。  くるりと回ってみるファレーナを前に、腕組みしきみはご満悦の様子。 「いいのう、雅だのう! どうじゃ、ファレーナ」 「面白い、です。異国の文化はとても興味深くて」 「なんじゃ、おかしなおなごじゃのう。綺麗、とか素敵、とかじゃなく、面白いのかや?」 「もちろん、素晴らしい着物です。……着る物にあまり頓着のないわたしにもわかります」  じゃろう、と笑うしきみの表情は、あどけない子供のようだ。  とても、妹が生死不明で塞ぎこんでいるようには見えないし、そんな素振りは一度も見せたことがない。しきみは毎日この有り様で、よくない噂も自然とファレーナの耳には入っていた。妹が仲間を守って死地に消えたというのに、姉はタルシスで怠惰な男漁りの毎日と聞く。そして悲しいことにそれは事実で、本人も否定しない。 「よしよし、ワシが買うてやろう。今夜は酌をせいよ、ファレーナ」 「は、はあ……あの、しきみ。差し出がましいのですが」  人を呼んで買い付けを手早く済ませると、もうしきみの興味は他へと映ったようだ。煙管に煙をくゆらしながら、彼女は東大陸のスリットが深いドレスを、楽しそうにファレーナへと向けて広げて見せる。  ファレーナはファレーナで、既に異国の着物から興味はしきみ自身へと移っていた。  今まで着ていたいつもの装束を拾い上げながら、それをたたんでファレーナは言葉を選ぶ。 「……なずなさんのことが心配ではないのですか?」 「ん? なんでじゃ?」 「なんで、とはまた……皆、心配しているし、それはなずなさんだけではなく貴女のことも」 「おおう、そういう話じゃったか。なに、心配無用ぞ。東国のブシドーはのう、強いんじゃあ」  にんまりと笑うしきみの顔には、焦燥も不安も感じ取れない。  言葉のままに思っているのだと、信じているのだとファレーナはすぐに察することができた。ならば、これ以上この話をする必要はない。ただ、やはりそうした姉妹の絆の強さを素直に素晴らしいと思うし、ひどく興味を惹かれる。  ファレーナはタルシスに来てからというもの、異なる文化と人種の中で毎日が新鮮だった。  その時、カーテンの向こうから声が響く。 「しきみさん、もう入っていいか? おっ、おお、俺も選んでみたぜ。これがいいんじゃねえかな!」  しきみに促されて現れたのは、本日の荷物持ちに呼び出されたクラッツだ。その手にはやはり、しきみたちの母国の着物が握られている。……ファレーナは絶対に試着しないぞと心の中で呟いた。それは同じ和服なのだが、あちこちに『天』だの『滅』だの目立つ文字が染め抜かれている。正直、ちょっと趣味に合わない。  だが、クラッツ少年にはそういうものが素敵に格好良く、無敵にオサレであるらしかった。  そのクラッツだが、和服姿のファレーナを見て口笛を吹いた。 「姐御、すげぇ! マブいッスよ、超いい……へへ、ききき、綺麗だぜっ」 「ありがとう、クラッツ君」 「なんじゃクラッツ、鼻の下伸ばしよってからに。よし、ワシはこれを着るぞ!」  どうやらしきみは、先ほどのドレスが気に入ったようだ。それを持ってそそくさと、別の試着室に入るやカーテンを閉める。それを見送るファレーナは、鼻の下を指で擦るクラッツの呟きを耳に拾った。 「しきみさん、本当は辛いのによ……クソッ、泣かせる話じゃねえか」 「……そうなのだろうか」 「おう、間違いねえぜ。気丈に強がっててもよ、妹さんがああなっちまったんだ。辛ぇぜ、こいつは」 「なるほど、君にはそう見えるんだね」 「あっ、ああ、あったりめえよ! しきみさんのことで俺が知らないことはないぜ?」  おっと、それ以上は聞いてくれるなよ、という顔をクラッツがするので、思わずファレーナは苦笑が溢れる。促されたって聞くまでもない、勝手に耳に入ってくるのだから。トライマーチの鉄砲玉、切り込み隊長のクラッツが病気なのをみんな知っているから。そう、十代の少年がかかる特有の病魔で、その彼をしきみが特別にかわいがっているのも有名な話だ。  だから一声かければ、こうして彼は荷物持ちに馳せ参じる訳で、このあと昼食もおごってくれるらしい。  これはこれで興味深いのだが、同時にあまり知りたくないような気がするファレーナだった。  だが、キザったらしく鼻で笑いながら、クラッツが表情を無理に作って遠くを見詰める。 「やっぱ女の子だからよ、こういう時は男が支えてやんなきゃなんねえ」 「それを、君が?」 「ああ。……しきみさんを励ましてやらにゃあ。なずなさんは生きてるってな。俺もそう思うしよ」  へへっ、と笑うクラッツの表情は、この時ばかりは歳相応の少年の輝きを灯す。それは、仲間を信じて疑わない冒険者の笑顔だ。いきがるだけの傭兵崩れだと言う者もいるが、ファレーナはクラッツの原石剥き出しな善意と良心が好ましいと思った。  勿論、異性としてどうこういう気持ちは微塵も動かない。  存在しないものは動くことがない、そうした男女の機微にファレーナは疎かった。 「でもよ、ファレーナの姐御。捜索が遅々として進まねえ……あの竜巻の先に行けねえんだ」 「……わたしたちの気球艇では、今以上の高度は難しい。そしてあの天候に竜だ」 「くっそー、ヨルンさんもコッペペさんも、俺を銀嵐ノ霊峰に連れてってくれればよ!」 「何か考えでもあるのかい? クラッツ君」  その時、クラッツは「待ってました!」と得意気に、そして不敵に笑った。  人間は時々、諦めと絶望を踏破する。その精神的な強さは、感情のフラットなウロビトにはない激情から来るのか? 興味は尽きないが、それよりも面白いのは……やはり、少年特有の青い世界を広げるクラッツだ。  面白いと感じると同時に、頼もしくも思う。迷いのない無知と蛮勇は、時として臆病に勝るから。 「俺ぁ竜鱗の剣を持ってんだぜ? ダチから借りたもんだけどよ。こいつであの竜巻を……斬る!」 「……はあ」 「だってよ、竜はあの嵐の中でも飛んでんだ。竜の翼が制する嵐は、竜の鱗で斬れるはずだぜ!」 「あ、ああ……うん。そう、だと、いいね」  ファレーナの作った笑顔に、クラッツは得意満面で破顔一笑。  無邪気なものだと思ったその時、カーテンの向こうで起伏に飛んだシルエットがクラッツを呼んだ。 「少年、ちと来るのじゃ。背中のファスナーをあげてくれ」 「お、おうっ! へへ、しょーがねえなあしきみさんは。……根本を斬りゃいいんだよ、竜巻なんざよ。下は細いんだからよ」  手を揉み腰を低くして、クラッツが歩み出る。その先でカーテンがレールを走る音と共に、白い背中を露わにしたしきみが現れた。  どう見ても手が届きそうなファスナーだったが、なんだかしきみが楽しそうなのでファレーナは黙っていた。その時、脳裏に電撃が走る。 「……竜巻の根本……下は細い。そう、気圧と温度の差で生じる竜巻の底は」  徐々に考えがまとまり、ファレーナの中に閃きが発現する。  それは逆転の発想。竜巻を乗り越えようとするから、調査は行き詰まっていたのだ。 「乗り越えられぬものは、くぐれば……低空を這うように」 「なんじゃ、ファレーナ。どした? よし、ワシはこれを買うぞ。クラッツ、どうじゃ?」 「ににに、似合うッス! もぉ最高……は、鼻血が」  見るも扇情的なドレスは、胸元も顕でたわわな二房の実りが零れそう。むっちりと質感に溢れた太ももも、深く切り込んだスリットから丸見えだった。そんな、ある種いかがわしいいでたちのしきみも、ファレーナの目には入ってはこない。 「あの人に、ポラーレ殿に相談しなくては。先に進めるかもしれない」 「あ、姐御? しきみさん、ファレーナの姐御が――」 「しっ! ちと黙るのじゃ、少年。ふむ、果報は寝て待てというしの。男と寝て待つが一番って話じゃな」  ファレーナは即座に走り出した。和服を脱ぐのも忘れて、着替えもせずそのままの格好で。  カーゴ交易所に行き来する誰もが、その見目麗しい姿を振り返る。  だがファレーナは慌てて引き返すと、煙管を燻らすしきみと、その横で荷物の山を抱えるクラッツの元へ戻る。 「しきみ、これを。着物の代金と、あと二人で昼食でも。ありがとう、今日は楽しかった」 「なんの、礼を言うのはワシの方じゃあ。……上手くやるんじゃぞ?」 「ちょ、ちょっとファレーナの姐御! こんなお金……しきみさん、どうなってんだ? 姐御はどうして」  にっぽり笑うしきみに背を押されて、ファレーナは走った。  冒険者たちの凍り付いていた日常に、僅かな光がさした瞬間だった。