凍れる大地に、しんしんと雪が降り積もる。  ただ風もなく、静かに純白は空を舞い降りる。  銀嵐ノ霊峰と呼ばれる厳寒の空気は、凪いだ海のように静けさを広げていた。その中を今、軽快なエンジン音を響かせ気球艇が飛ぶ。甲板で外の景色に視線を投じていたラミューは、隣に寄り添う体温の近さに甘い時を過ごす。……筈だった。 「ラミュー、またそんな薄着で。いけないよ、女の子が身体を冷やしちゃ」 「お、おう……あ、ああ、あっ、ありがと……クアン」  そっと肩に外套をかけられ、その襟を掴んで前を合わせるラミュー。感じる温もりの持ち主は今、すぐ側で地図に目を落としていた。その端正な横顔を見上げれば、ほのかな熱を頬に感じる。のに、同時に生暖かい視線をも感じるのだ。 「やっぱり北は閉じた渓谷になってるね。石版をはめ込むレリーフもあった。ということは」 「待てよクアン、ちょっと……その」 「ん? やっぱりさっきの西側が気になるかい? あっちの洞窟はポラーレさんたちに降りてもらったけど」 「そ、そういう訳じゃねえよ。ただ……なんでかなって。あ、あれだよ、あれ! 旦那たち!」  ラミューは船尾を指さし、ぐずった子供のように表情を歪める。  そこには、ニヤニヤと笑いながら温めた酒瓶を回す大人たちの姿があった。 「ああ、俺たちには気を使わなくていいぜ? ラミューちゃん」 「うむ。続けてもらって構わん」 「ったく、見ちゃいられない。今どき女学院の学生だってもう少し上手くやるってのに」  三者三様に声があがる。ヨルンにサジタリオ、そしてパッセロだ。三人は口々にラミューの奥手な乙女心を嘆きつつ、手にしたマグにちびちびとブランデーを注ぎ合っていた。  今日も行方不明となったなずなの捜索をする傍ら、第三大地の地図から空白地帯を追い出していたのだ。すでにその輪郭は顕になり、またしても北への道は謎のレリーフによって閉ざされている。そして、そこにはめ込む石版は恐らく迷宮の奥底。だが、巨大な氷柱が織りなす大迷宮は、今度は二つの入口でラミューたちを待ち受けていたのだ。  先ほどその西側、小さい方にポラーレがファレーナと二人で降りたばかりだ。  残りのメンバーを乗せたトライウィングは、東側の迷宮入り口上空を航行中である。 「……どーしてポラーレの旦那は、ファレーナの姉御と二人きりなんだよう」 「そりゃラミューちゃん、俺たちだって少しは明るいニュースが欲しいからさ」  唇を尖らせるラミューに、すかさずサジタリオが言葉を返す。 「じゃあ、どーしてオレは、そ、その、クアンと……ごにょごにょ」 「東側の入り口は明らかに規模がでかい。こっちには人数が必要だ」  言葉を握らせるラミューに今度は、ヨルンが事務的な声を響かせた。  ただ隣で笑ってるクアンの、そのほがらかさもなんだか面白くないラミューだった。かわいい妹を見る目で瞳を細めるこの青年は、二人きりの時間に三匹のオジャマ虫がいても、全然気にならないのだ。あるいは、そういう対象にラミューを見ていないか……それは今、ほぼ確実で少し悲しい。  それでも気を取り直して、ラミューは地図を睨みなおす。  仲間たちの書き込みが乱舞するこの羊皮紙のどこかに、なずなは今も生きている……そう信じて。 「んじゃ、とりあえず降りてみっか。なあ旦那方! それでいいだろ?」 「うむ。なずなは熟練冒険者だ……自力で迷宮内に避難しているかもしれんからな」  ヨルンの返事に頷き、ラミューはちらりとクアンを見る。すでに義兄は、医療かばんをたすき掛けに身につけて準備も万端だ。船尾でだらけていた大人たちも、重い腰をあげて冒険の支度にとりかかる。一度動き出せば、サジタリオやパッセロは機敏で動作に全く無駄がない。ヨルンが舵輪を握って高度を下げる中、てきぱきと下船準備が整い出した。  その時、ガクンと気球艇が揺れた。  最初は何が起こったかわからず、よろけたラミューはクアンに抱きしめられる。 「大丈夫かい? ラミュー」 「おおおお、おっ、おうっ! だだだだ、大丈夫……じゃ、ない、かも」 「なんだろう、風もないのに急に船が」  次の瞬間には再度衝撃が走って、気球艇は傾きながら落ちだした。同時に、頭上で気嚢に溜め込んだガスの抜ける音が響く。だが、異変と共に落下を始めた気球艇の甲板上で、サジタリオが血相を変えて声を荒らげた。 「くそっ、下から射抜かれた! しかもこの音……間違いねぇ!」 「音? クアン、なんか聞こえたか?」 「いや……でも、サジタリオさんは熟練の狩人だ。もしかしたら」  サジタリオは傾き落ちる気球艇の上から身を乗り出して、迫る白亜の大地へと視線を投じた。  その鋭い視線は何かをとらえたらしく、驚愕に見開かれている。 「矢の音を聞きゃわかる! あんなバカでかい鉄弓使ってる奴ぁ、なずなちゃんしかいねえよ!」 「なずなの姉御!? じゃ、じゃあ、なんでオレたちの船を――」 「クソッタレ、浮力が維持できねえ! 落ちるぞ! 全員、何かに掴まれっ」  直後、激しい衝撃と共に船体が地面に触れる。  幸いにも直下の大地は、降り積もり柔らかな綿雪に覆われていた。それでも、墜落の衝撃でラミューは宙へと投げ出された。自分の名を呼ぶ、逼迫した声と共に。そうして再度強く抱き締められた瞬間、何度も地面にバウンドしながら雪原を転げまわる。固く目を瞑ったラミューの感覚は、愛しい男の甘やかな体臭だけを感じていた。  永遠にも感じる一瞬が過ぎ去った時、そっと目を開ければ―― 「クアン! くそっ、船も! ……おい、クアン! しっかりしろよ、馬鹿野郎っ」  ラミューはクアンの腕の中で身を起こした。そうして、ぐったりと脱力したまま雪の上に身を横たえる義兄を見下ろす。眉根を寄せて唸るその表情は生きているが、ラミューの呼びかけに全く反応を返してこない。  ラミューが必至でクアンの身を揺さぶっていると、声。  それは、場の緊迫した雰囲気ににつかわしくない、ぽややんとおっとり響いた。 「やっぱり客人の弓は、わたしには無理ですねぇ。ちょーっと大きくて重すぎますぅ〜」  声のする先に首を巡らせ、ラミューは目を見張った。  そこには、獣貌の人影がなずなの鉄弓を手に立っていたから。周囲にも十重二十重に鎧姿が立ち上がるが、そのどれもが人の顔をしていない。完全に囲まれた状態で、鉄弓の兎美人はラミューたちへと歩み寄ってきた。 「なっ、なんだ手前ぇら! どうしてオレたちの船を襲いやがるっ」 「えっとぉ、それはこっちの台詞ですよぉ? 人間さん、どうしてわたしたちの里に?」 「里? じゃあ、もしかして……手前ぇら、この先の迷宮に住む亜人か!」 「はぁい、正解。久方ぶりの客人に続いて、お空から何度も人間が……で、みんなカッカしちゃってぇ」  片耳をぴょこんと曲げながら、兎面の亜人はニッコリと笑った。 「災いの病をもたらしたのは、もしや突然現れた人間たちかも、って。そしたら若い衆が殺気立っちゃったんですよぉ」 「なっ……災いの病? それでオレたちを? ま、待てよオラァ! 黙って聞いてりゃ――」  ラミューはすかさず腰の突剣に手を添えた。いつでも抜刀できる構えで立ち上がる。  だが、そんな彼女の視界の隅で、ひっくり返ったトライウィングから白衣姿がよろりと這い出た。 「待てって、ラミューちゃん。早まるな……クッ、いてえ。打ち身か、でも骨は折れてねえな」 「パッセロの旦那!」 「何度も言わせんなって、旦那って歳じゃねえ……それよか」  パッセロだ。彼は片手で己の肩を抱きつつ、片足を引きずってラミューの前に出る。 「俺ぁ医者だ、ウサギさん。災いの病ってなんだ? それと……そこの若いのを手当させてくれよ」 「パッセロの旦那……そ、そうだ、そうなんだ旦那! クアンが!」  だからラミューちゃん、と苦笑しつつ、パッセロはよろよろと二人の方へ振り返る。  その時、以外な声がトーンを跳ね上げた。 「まあ! お医者様? お医者様なんですかぁ?」 「見りゃわかるだろ、ウサギさん。っと、こりゃひでえな。おおかたラミューちゃんを庇って……」 「あらあら、どうしましょぉ……お医者様。あ、あのぉ……石高はいかほどで? その、年収的な意味で」 「あ? 何言ってんだ? こちとら貧乏町医者だよ、ウサギちゃん。日に三食不自由しねえ、それだけだ」  なんだかウキウキと声を弾ませる亜人……否、獣人を背に、パッセロはてきぱきとクアンへ応急処置を始めた。 「あら、残念……優良物件様かと思ったのにぃ。では、質問変えますぅ……お医者様、腕はいかほど?」 「知らねえ病は治せねえぜ、先に言っとく。だが、病を前に知らねえ顔はできねえ質でな」  そう言いつつも、パッセロはそっとラミューの耳元にこうも囁いた。 「ラミューちゃん、隙を見て逃げろ。すぐ西の入り口から迷宮に入れば、今ならポラーレの旦那たちに合流できる」 「! ……でも、そいつぁ」 「サジタリオもヨルンの旦那も、あの程度じゃ死んじゃいねえさ。それより……いけるか?」  頷くラミューは、視線を左右にくばって身を沈める。完全武装の獣人たちは、馬や虎の険しい表情で隙がない。だが、この囲みを抜ければ脚力には自信があった。  最後にちらりとクアンを見て、その苦悶の表情にそっと触れる。  愛しい体温を拾った手を握りしめて、意を決するやラミューは地を蹴った。 「キクリ様! 人間が逃げます!」 「追うぞ、皆の衆っ! 里に災厄を運んだ者ども、一人たりとも逃がすな!」 「囚われの客人ともども、キバガミ様の前へ引きずり出すのだ!」  口々に咆える獣人たちに追われながら、その声を引き剥がしてラミューは走った。  零れそうになる涙を零すまいと、必至に歯をくいしばって。