その迷宮は奇妙な複合構造で、二つの入口から連なる回廊は入れ子になってポラーレを出迎えた。遠く見えるが川を挟む場所は、恐らく東側の大きい入口からの通路だろう。  なにより、後に冒険者たちが金剛獣ノ岩窟と呼ぶことになる洞穴は、極寒の外が嘘のような熱気でポラーレとファレーナを迎え入れた。 「地熱でしょうか。随分と中は暑い」  周囲を見渡すファレーナは、羽織った外套に積もった雪をそっと手で払い落とす。純白は地面に落ちるや、すぐに色を失い大地の染みになった。ポラーレもまた無造作にぶるぶると雪を追い散らして、油断なく周囲を警戒する。  新しい迷宮に二人きりというのは、ポラーレには緊張感以外のなにものも生まない。  五人一組が冒険者のならいだが、そもそもどうして二人きりなのかが理解できなかった。  これは、サジタリオやヨルンがそれとなく二人きりへ仕向けたのだが。 「なるほど、これなら二人でも十分なのかもね。周囲に敵意はない。多分、本命は東側……大きい方の入口だったんだ。ということは、此方側は……ファレーナ?」  ひとごこちついたポラーレの言葉に、妙にそわそわとファレーナが振り返る。その白い細面は相変わらず美しくて、まっすぐ見詰めてくるのでついポラーレは目を背けた。直視できない理由もわからず、見当もつかないままに。 「ああ、外が外だけに冷えたのかな。でもほら、ここは暖かいから大丈夫」 「ええ。でも、その急激な気温差がちょっと」 「……そ、そういうものなのかい?」 「そういうものなんです。ふふ、貴方は面白い人だ。さて、少し失礼を許して欲しい」  ふらりとファレーナは歩き出す。  それは、ポラーレがよく知ってる気配を背後に感じるのと一緒だった。 「ファレーナ、どこへ? 一人は危ない。僕が先頭に立つから、後ろの方を頼むよ。……敵意はないけど、お客様かもしれない」 「あ、いえ……その、ポラーレ殿」 「そ、その、ポラーレ殿っていうのは、どうか……僕も、落ち着かなくなる」  ファレーナのそわそわが伝染したかのように、ポラーレまで心が浮き上がる。  ファレーナは困惑したかのように、しかしちょっとポラーレから距離を取った。 「では、ポラーレとお呼びします。ギルドマスターなのですから、本当は不躾なんだけど」 「そ、そうして、欲しい。うん、じゃあ……行こうか」 「その前に。ええと、申し訳ないのだけど、ちょっと」 「ちょっと?」  察して欲しいファレーナの伏目がちな表情から、なにも読み取れないポラーレだった。  薄く紫に彩られたファレーナの唇は今、何かを言いかけては噤まれ、ついにはとうとう、 「ポラーレ、わたしは花を摘みに少し」 「あ、ああ。ごめん、なるほど」 「そういう訳なのです、ですから――」 「うん、僕も手伝おう」  ファレーナが目を丸くした、それが何故かはポラーレには理解できなかった。 「ファレーナは色々調べ物をしてるし、植物や動物の本もよく読んでる。標本の採集なら僕も……他にも採掘や伐採、だよね。素材の収集はサジタリオたちもよくしてるし」 「……え、ええ。ですが」  戸惑う表情を浮かべたファレーナはしかし、プッ、と吹き出し笑いを手で抑えた。  突然のことでポラーレは、首を捻って硬直してしまう。 「ふふ、ごめんなさい。でも、無理もないか……とにかく、少し席を外したいのです」 「そ、そうなのかい? ……僕になにか、非礼か落ち度が」 「いいえ、ちっとも。ただ、少し面白くて。それに、あなたは敵意が周囲にないと言った。それは何より安心と安全をわたしに保証してくれている」 「それは、そう、だけど」  意味がわからない。  同時に背後、少し遠くで溜息が零れた。  ともあれ、ファレーナは「すぐ戻ります」とだけ残して、行ってしまた。その細い背中が見えなくなるや、なんだか奇妙ないたたまれなさが不思議で、ポラーレは手近な岩に腰を下ろす。同時に、振り返って小さく声を尖らせた。 「出てきたらどうだい? まったく……小さな女の子が一人で、危ないじゃないか」  びくりとする気配は恐らく、自分を上手く隠せてたつもりだったのだろう。正直、ポラーレもなかなかの及第点だと思える隠密だった。  なにせ、ほかならぬポラーレ自身が教えた技だから。 「……父さん。その、ええと。二人だったから、気になって」 「駄目じゃないか、グルージャ。どうやってここに? 僕たち二人が降りた時は、どこにも」 「密航、かな。その、今日の小迷宮調査は、レオーネさんが、代わってくれたし」  おずおずと岩陰から現れたのは、愛娘のグルージャだった。その無表情は今は普段の五割増しでフラットになっており、どういう訳か悲しそうな虚しい色に瞳を染めている。そういう視線がなぜ自分に向けられているのか、どうして可哀想なもののように見られるのかがポラーレにはやはりわからない。 「あ、あのね、父さん。お花を摘みにっていうのは――」  だが、その時だった。  かわいい小さな追跡者に気を取られたあまり、ポラーレは気付けなかった。真に恐るべき猛者が、すぐ近くまでその巨体を忍ばせていたことを。恐らく不意打ちを食らっていれば、親子揃って痛撃を被っていただろう。  だが、突然の襲撃者は一撃よりもまず声を張り上げた。 「よくぞここまで来た、人間っ! これより先、里へは通さん……このワシが許さぁん!」  ポラーレは目を見開いた。グルージャも同様で、親子揃って同じリアクションを挟んで身構える。咄嗟の対応力は、長年裏社会で生きてきた過去に染み付いて、身体が反射レベルで覚えこんでいた。  だが、それでも驚きは隠せない。  目の前に今、巨漢の牛貌鬼が金棒を振り上げ立ちはだかっていた。筋骨隆々たる褐色の肉体は、マッシブなその輪郭をパンプアップさせている。ひと目で臨戦態勢と知れたが、両手に剣を現出させるポラーレは小さな疑問符を脳裏に浮かべた。  その引っ掛かりを体現するように、逆手に持ち替えた双刃は短剣へと変化する。 「獣人っ!? モンスターが喋っ――と、父さん」 「……グルージャ、下がってて。僕が、一当してみる。もしかしたら、もしかするけど」  言うが早いか、身を低く地を蹴るポラーレが風になる。一迅の黒い疾風は、天井の高い洞穴内を宙に舞った。同時に全身から浮き出た投刃を、無造作に相手へと放る。  だが、「ふぅん!」と一声咆えるや、目の前の巨躯は裂帛の気合だけで投刃を弾いた。  ――強い。  ポラーレは自身が経験した過去の戦いのどれよりも、緊張感と興奮が高まるのを感じる。同時に、手にした雌雄一対の短剣を軽く握り直した。そして二人は切り結び、牙を向け合う二匹の獣になる。金切り声が響いて、金属同士がぶつかり合った。 「ぬうう、お主は本当に人間か? あの技、身のこなし……よくぞ鍛えて高めた、この術!」 「言葉は、通じるんだね。じゃあ、やっぱり……それより!」  十字に交差した短剣の間で、振り下ろされる大質量の剛撃を受け止める。  同時に旋回して繰り出した足払いが、目の前の男の脛をしたたかに蹴り抜いた。だが、東洋では弁慶の泣き所と言われる急所の一つを強打しても、この男はいささかも揺るがない。  そればかりか、無造作に伸ばした片手が瞬く間にポラーレの細い首を捻り上げて吊るした。  つかまったと思った瞬間にはしかし、ミシミシと締めあげてくる圧力の軋む音。  だが、圧迫感の中にもポラーレは確信を得る……相手は本気ではなかった。 「お主、あの軽業に体術……それだけの腕を持ちながら、どうして本気を出さない?」  間近で見下ろせば、この猛牛は隻眼だった。大きく古傷に潰された目の隣に、見開かれた瞳は爛々と輝いている。その光をまっすぐ見つめて、ポラーレも淡々と言葉を返した。 「敵意と殺意のない者に、それを返すことは、僕にはできない」  正確には、できなくなった。昔のポラーレであれば、そこにつけこみ瞬く間に物言わぬ肉塊を製造していただろう。殺られる前に殺れ、そういう世界で生きてきたから。  ――それが今は、生きてたとは思えない自分がいた。そう、死んでいないだけだったのだ。  牛貌鬼が頷きと共に手を離して、ポラーレは再び大地に立つ。そうして少しよろけた拍子に、周囲の空気が愛娘を中心に渦を巻くのを感じた。  視線を走らせ首を巡らせた先に、血相を変えた姿をポラーレは見る。 「父さんっ! ……やらせない。絶対に、やらせないっ!」  珍しく激したグルージャが、紅蓮に燃え盛る火球を放つ。それは轟! と燃え盛って周囲の酸素で膨れ上がった。だが、まっすぐ飛来する火炎を男は平然と片手で受け止め、握り潰す。それでも炎は、男の手の中でメラメラと燃えていた。 「ほう、すさまじい術だ。だが待て、娘っ子……今、ワシとこやつは語り終えた、だから」 「父さんは、あたしが守る! ……あたし、たちがっ!」  その意外な言葉が、瞬速の剣閃を呼んだ。すっ、と身を翻したグルージャの背後から、阿吽の呼吸で迅雷が飛び出す。いつの間にと驚くポラーレは実は、その気配が近づいていたことさえ拾えぬ程に追い詰められていた。目の前の男はそれだけの実力で、そこに害意を込めてこない真意を悟るのに精一杯だったのだ。 「うおおっ! お見舞いするぜ、ビフテキ野郎っ! 旦那からっ、離れ、やがれえええっ!」  飛び込んできたのは、なんとラミューだ。彼女は一足飛びに踏み込んで抜剣、鋭い刺突に炎を張り巡らす。それはグルージャのはなった炎に呼応して、インパクトと同時に爆炎の渦を巻き起こした。だが―― 「喝っ! フハハハハハ! よい気迫ぞ、娘っ子。やはり互いを守り合うか……人も我らも変わらぬと見定めた!」  グルージャとラミュー、火と火が交わり燃え盛る炎を振り払って、牛面の男が豪快に笑う。  その時もう、完全に闘争の空気は払拭されていた。 「そこまでといたしましょう。失礼ですが、我らウロビトの伝承にある世界樹の民……イクサビトとお見受けいたします」  不意に静かな声が響いて、戻ってきたファレーナが仲裁に割って入った。 「いかにも! ワシはイクサビトの長、キバガミと申す。無礼をどうか許されたい。そちらは古き約定を交わした遠い同胞、ウロビトじゃな?」 「ええ。今は人と共にある者、故に重ねてお願い申し上げる。どうか、まずは言葉を」 「うむ、すでに言葉で語らった。この虚ろな人間、暗い影を潜ませてはおるが、剣で語ってワシの気迫を聞いてくれおった。ならばもう、里での語らいに不安はない」  キバガミと名乗った獣人は、ファレーナの言葉では世界樹の民……イクサビト。彼もまた亜人だったのだ。そのことを知った時には、そっとファレーナの手が触れてきたので、ポラーレは刃を引っ込める。 「ラミュー、君もいいね? グルージャも。それより、君が息せき切ってきたということは」 「あ、ああ! そうなんだよファレーナの姉御! こいつら、クアンを、旦那たちを……そ、それより姉御、今までどこいってたんだよ」 「ん、それは……その、少々花を摘みに」 「ションベンなんかしてる場合じゃねえよ、こいつら敵だぜっ! オレぁ見たんだ!」  グルージャが顔を手で覆って抑えた。ファレーナも赤くなって俯いた。  キバガミだけが笑って、その豪胆な声に誤解が解け消えてゆくことになった。  ああ、と得心がいったポラーレだけが、ポンと手を打ち無邪気に感心していたのだった。